横座 / 清経
2008/11/08
国立能楽堂(千駄ヶ谷)の定例公演で、狂言「横座」と能「清経」。
今日は、まず佐伯真一先生(日本中世文学)による「清経」の解説から。穏やかな語り口で、清経が平重盛の子で、都落ち後は小松家であるがゆえに孤立したこと、元家人の緒方氏の反乱によって太宰府を追われたことなどが重なって入水したこと、しかし来世の存在を信じていた当時の人々にとっては死は現世のリセットにすぎないこと、諸本には都に残した妻が形見の髪を返したエピソードが記されていること、この逸話を取り込んだ能「清経」は、時代に押し潰された若い公達の悲しみを描いていること、などが説明されました。
横座
その「清経」に入る前に、狂言「横座」。まずは牛主(牛の目利き)が出てきて、常座で〈名ノリ〉のその間に角と黒髪を生やして四つん這いに進む牛をちゃっちゃちゃ
と追いながら何某が登場。牛主がまだ長口上を語り続けているのに一ノ松で時分の〈名ノリ〉を始めて、なんだか妙にかみ合わない雰囲気を最初から漂わせていますが、これは伏線。何某は手に入れた牛を牛主に見てもらおうとしますが、一度は牛の手綱をとった牛主は牛をよく見て仰天、思わず後ずさってこれは自分の盗まれた牛だと独り語り、一方の何某はいきなり手綱を離した牛主に対してなにすんだ!と、ここでも二人の言葉が重なり混じります。で、ここから二人の駆け引きが始まります。牛主は、その牛は生まれたばかりのときに座敷で主人である自分が座る席(横座)において大事にした牛だと言い、何某はこの牛は自分が一年前に買ったもので、横座と言おうが縦座と言おうが
証拠になるものか、と取り合いません。これに対して牛主は「横座」と呼べば返事をするからそれが証拠だと言うのですが、何某はもし牛が答えなかったら、牛主を譜代(家来)にするが合点か?とふっかけます。では、と今度は何回まで呼んでもいいかの押し問答となり、千声→五百声→思い切って減らして百声→五十声と値切られていき、せめて三声
でようやく決着。この辺りの主導権は完全に何某に握られている感じで、何某の強気な態度と牛主の困惑した様子が笑えます。さらば、まず呼ぼうぞ。横座よ〜
と牛主が呼びますが、二度にわたって何某が間髪入れずにそら鳴かないではないかとおっかぶせるために、それでは鳴こうにも鳴けないではないかと牛主はかんかん。最後の一声で牛に鳴かせようと必死の牛主は、なんとか何某から手綱をひったくると牛に向かって、平安初期の皇位継承争いに際して祈禱をした僧侶が必死に祈ったところ絵に描かれた牛が吼えたという難解な逸話を長々と語り掛ける……というより一人自分の世界に入って滔々と語り続けるものですから、まずは脇座に座っていた何某が居眠りを始め、次いで肝心の牛までも前足を追って眠り込んでしまい、ここで牛主のやたら難しい話に唖然としていた客席に了解の笑いが広がります。そして最後、心あらば鳴いてくれよ
と牛の耳元で名を呼ぶと、さすがに驚いた牛がモオ
と鳴きました。そりゃ、これではどうしたって鳴くでしょう。しかしこれで、立場は逆転。慌てた何某はせめて綱なりと寄越せとすがりますが、一転して自慢顔の牛主は取り合わず、縄をおこせ / ならぬぞならぬぞ
で揚げ幕へと下がっていきます。
清経
世阿弥作、修羅物の一場型夢幻能。ツレ/清経の妻(辻井八郎師)が静かに現れて脇座、ほとんど脇柱に寄り添うように下居したところで〔次第〕、旅装姿で笠をかぶり、首に守袋を提げたワキ/淡津三郎(安田登師)が登場して囃子方の方を向き〈次第〉八重の汐路の浦の波、九重にいざや帰らん
。ついで正面を向き、笠をとって〈名ノリ〉。淡津三郎は平清経の家臣ですが、清経が終におん身のなり行くべき事を思し召し定められけるか、豊前の国柳が浦の沖にして、おん身を投げ空しく
なった後、形見の鬢の髪をもって都へ上るところだと言います。ついで、再び笠をかぶったワキが〈上歌〉の後半で斜めに数歩前後することで旅の様子を示すと、はや都に着きて候
。以下、正中に下居して手をつくワキと脇座のツレとの問答となり、口ごもるワキにツレが何の為のおん使ひぞ
と問いつめてワキは清経が筑紫へは叶ひ給はず、都へはとても帰らぬ道芝の、雑兵の手にかからんよりはと思し召し定めけるか
豊前柳が浦の沖に月の夜舟から身を投げたと伝えます。これを聞いてツレはびっくり。恨めしやせめては討たれもしはまた、病の床の露と消えなば
まだ諦めもつくのにわれと身を投げ給ひぬれば
同じ世に巡り逢おうという約束は偽りだったのか、げに恨みてもそのかひの、なき身となるこそ悲しけれ
と「なき身」に絞り出すような声音を使って、シオります。地謡の〈上歌〉のうちにワキは守袋を首から外し、扇に乗せてツレへ渡し、ツレがこれは中将殿の黒髪かや……
と語るうちに烏帽子・長絹・白大口のシテ/清経(高橋汎師)が橋掛リに現れました。一方、形見を手にしたツレは見るたびに心づくし(筑紫)の髪(神)なれば 憂さ(宇佐)にぞ返す本の社へと
と形見を返し、ワキは地謡前に着座します。
ツレが夢になりとも見え給へ
と涙ながらに寝ていると、シテはうたた寝に恋しき人を見てしより 夢てふものは頼み初めてき
(古今集・小野小町)と詠じ、ここからツレの夢の中となります。ツレは一度はまぁ、うれしいわとは思うものの、身投げするなんて約束が違うじゃないのと恨みを述べます。これに対してシテが、せっかくの形見を返すとはつれないではないかと逆ギレすれば、ツレは慰みとての形見なれども、見れば思ひの乱れ髪
と反撃。ああ言えばこう言うの若い夫婦の夫婦喧嘩に、見かねた(?)地謡がくねる涙の手枕を、並べて二人が逢ふ夜なれど、恨むれば独り寝の、節ぶしなるぞ悲しき
と割って入ってシテも拍子を踏みながら立ち位置を変え、思ふも濡らす袂かな
とシオリを見せるツレに対してこの上は恨みを晴れ給へ、西海にての合戦物語夜もすがら語り参らせ候はん
と床几にかかって入水に至った経過を物語ります。太宰府を逃れた後しばらく籠っていた山鹿の城にも敵襲の報が入り、取る物も取りあえず夜もすがら舟で柳へ落ちて仮の皇居を定め、宇佐八幡に参詣したところ世の中の憂さ(宇佐)には神もなきものを 何祈るらん心づくしに
(世の中のつらさにはそれを救う神もないのに何を祈っているのだろう、心を傾けつくして)との絶望的な神託。この神託は一段高い荘重な調子で謡われていかにも神がかった雰囲気となりますが、下掛系の金春流ではここはワキ方が(ワキとしてではなく神の声として)謡っています。
この神託にすっかり気落ちした平家一門は気を失ひ力を落として、足弱車のすごすごと、還幸なし奉る、哀れなりし有様
と聞いているこちらもつらくなるようなかわいそうな有様。シテもここで手をついてシオって後、いよいよ〈クセ〉となります。長門に敵が向かうと聞き、再び舟に乗っていづくともなく押し出だ
し、風にあおられる波を追っ手と思い、松林の白鷺を源氏の白旗に見間違うほど追いつめられた逃避行の模様を地謡に乗って扇の舞で示し、あぢきなや、とても消ゆべき露の身を
と絶望を口にすると、目付柱に向かい扇を笛に見立てて吹き、足を踏みならして今様を朗詠し、合掌して南無阿弥陀仏を唱えます。この辺りの徐々に強くなる地謡の高揚感は素晴らしく、ぐいぐいと引き込まれました。ついにはシテは舟よりかっぱと落ち潮の、底の水屑と沈み行く
さまを常座での安座で示して、シオります。
これを聞いてツレはなおも浮きねに沈む思ひの海の、恨めしかりける契りかな
と恨みを述べますが、これに対してシテはそれを言うな、この浮世のつらさは誰も変わらないのだとツレをたしなめます。さらに修羅道の苦しみの様子を、扇を左手に持ち、右手に太刀を抜いて縦横に斬り払い、薙ぎ払いながら見せていましたが、実は入水の際の十念(南無阿弥陀仏の名号を十度唱える)により仏果を得ることができたのだ、ありがたいことだと地謡に謡わせて、橋掛リを向いて留拍子を踏みました。
この「清経」は話の筋だけを追えば、再会の約束を破って身投げをした夫と形見の髪を受け取らなかった妻とが夢の中に相見えて恨みをぶつけあうという話ですが、そこに、やがて訪れる平家一門の滅亡の予兆となって一足先に海に身を投げなければならなかった若い公達の悲哀と、そのために愛する夫を失った切なさを当の夫にぶつけるほかに道がなかった妻の行き場のない悲しさが描かれて、とても深い余韻を残してくれました。
配役
狂言和泉流 | 横座 | シテ/牛主 | : | 佐藤友彦 |
アド/何某 | : | 井上菊次郎 | ||
アド/牛 | : | 井上靖浩 | ||
能金春流 | 清経 | シテ/平清経 | : | 高橋汎 |
ツレ/清経の妻 | : | 辻井八郎 | ||
ワキ/淡津三郎 | : | 安田登 | ||
笛 | : | 寺井久八郎 | ||
小鼓 | : | 幸正悟 | ||
大鼓 | : | 安福光雄 | ||
主後見 | : | 金春安明 | ||
地頭 | : | 本田光洋 |
あらすじ
横座
最近牛を入手した耕作人は、牛の目利きから、それは自分の牛だと言われている。その証拠に牛の名前である「横座」と言えば鳴くというので、もし牛が答えなかったらおまえを自分の譜代にするという条件で、耕作人は牛主に三度まで呼ばせることにした。しかし二声呼んでも牛は鳴かない。最後の一声を呼び掛ける前に、牛主は故事を引いて必死に語り掛けるが、その話の長さに耕作人も牛も居眠りに落ち、最後に「横座よ」と呼び掛けられた牛は驚いて「モオ」と鳴く。
清経
左中将平清経の京都の留守宅で寂しく夫を待つ妻のもとへ、家臣の淡津三郎が夫の入水の知らせをもたらす。再会の約束を破りなぜ一人先に身を投げたのかと嘆く妻は、形見の遺髪を返してしまう。その夜、妻の夢の中に清経が現れ、恨みを述べる妻に自分が身を投げるまでの苦悩を語る。