松尾 / 魚説教 / 定家

2009/10/31

国立能楽堂(千駄ヶ谷)の特別公演で、能「松尾まつのお」、狂言「魚説教」、そして能「定家」。

松尾

宝生流にのみ伝わる脇能で、上演機会は少ないのだとか。ここで舞台となる松尾明神は桂川右岸にある現在の松尾大社で、お酒の神様としても有名。私もかつて京都に住んでいたときに一度行ったことがありますが、静かで少々暗い印象が残っています。

〔真ノ次第〕の囃子に乗って幕前に現れたワキ/臣下(福王茂十郎師)は、まず両手を広げて腰を落とす型を示してから、すたすたと舞台に進みました。そして嵯峨の山、御幸絶えにし芹川の、千代のふる道跡ふりてと道行となり、ここは亀井広忠の大鼓がぐいぐい飛ばしてきます。この道行の最後、脇座に着いたワキがまたしても両手を左右に広げるポーズを二度とったのですが、これは何を示しているのかな(要学習)?さて、〔真ノ一声〕になって一転、囃子方は幽玄な演奏になって緊迫感が漂い、橋掛リで向き合ったツレ/男(東川光夫師)とシテ/老翁(田崎隆三師)とは、笛の音階が徐々に下がって消え入りそうになったところで秋風の、声吹きそへて松尾の、神さびわたる、気色かな と〈一セイ〉を謡ってから舞台に入ります。シテは尉髪をつけて小尉面をかけ、明るい茶色の水衣と白大口。白布を巻いた竹の柄の先に杉葉を束ねて玉にした杉箒を担いでいます。造り酒屋の軒先に吊るされる杉玉のミニチュア版といったところでしょうか。

最初のシテとワキの問答はのんびりしたもので、あたりの紅葉の美しさを愛でつつも、松尾の神松は四季の移ろいにかかわらず常に緑を湛えていると地謡が謡った後に〈クリ・サシ〉と続いて、いかに松尾明神がその神徳によって都を守り続けているかを「和光同塵」「本地垂迹」といった神仏同体の宗教観と共に居グセによって示します。この辺りになると詞章が難しいのですが、続いて梅津桂の色々に、日も茜さす紫野、北野平野や賀茂貴船、祇園林の秋の風稲荷の山のもみぢ葉のと周辺の情景が詠み込まれてほっとします。やがてシテは夜神楽を拝むようにとワキに勧めて笛の音に乗って下がっていき、間狂言が入って後場につながります。

後シテ/松尾明神は、黒垂・透冠に邯鄲男の面、紺地に銀の桐と波文様の入った狩衣、白大口姿。松尾の神とは我が事なりとひゃらひゃらと高い調子で名乗って〔神舞〕に入りますが、この舞がもの凄いスピードです。囃子方も全力疾走で、特に太鼓の連打が大迫力。鼓・笛も高揚し、そこへシテは扇を振るい、拍子を踏みならしながら颯爽と舞い回って、そのダイナミックな動きに圧倒されてしまいました。いや、これは凄い。かなりの運動量の〔神舞〕が一段落してから、シテは息を乱す様子もなくゆったり舞いながら謡を続けると、両袖を返す御代祝福の型、そして最後に左袖を返して留拍子。

前シテのゆったりとした謡、居グセでの静謐感と、後シテの〔神舞〕の極端なまでのダイナミズムの対比の面白さを、シテと囃子方の熱演で存分に見せてくれた一番でした。

魚説教

出家したての漁師が説法を頼まれて、魚の名前を並べ立てた経を読むという話。魚尽くしは歌舞伎でも「渡海屋」などで登場しますが、そのルーツはこれなのでしょうか?いでいで鰆ば(さあらば)説法を述べむと、烏賊にも鱸にすすけたる黒鯛の衣を着しなどと人をくった説法に最初は神妙に聞き入っていた施主もこれはおかしいと気付きますが、出家の珍説法は止まらず、生蛸(なんまんだぶ)生蛸、鱧(南無)阿弥陀についに怒った施主が出家を突き飛ばしますが、本当の出家ではあるまいと詰め寄られてもハテ、生まれ落つるより出家で生まるる者があるものかと開き直ります。さらに打ちかかろうとする施主を止める言葉も魚尽くしになっていて、打たれぬ内に、どれへなりとも飛魚、飛魚と反省の色ゼロ。最後は許いてくれいと言いつつも余裕で退散する出家を施主がやるまいぞと追い込みます。

定家

金春禅竹作の鬘物。まず、てっぺんに蔦の葉が茂り引回シが掛けられた塚の作リ物が運ばれて大小前に置かれます。そして暗く沈む〈次第〉、山より出ずる北時雨、行方や定めなかるらん。地取すらもとりわけ低く感じられます。ワキ/旅僧(福王茂十郎師)は、堂々たる体躯から発せられる深い声と表情に威厳あり。北国から都に出てきたワキとワキツレ二人が千本あたりで時雨に降られ、雨宿りをしようとするところで揚幕が上がり、そこに立っているシテ/里の女からなうなう御僧、何しにその宿りへは立ち寄り給ひ候ぞと声が掛かりましたが、その雰囲気がぞっとする妖しさです。ところが、ワキと問答を交わしながらゆっくりと橋掛リを進む前シテ/里の女の関根祥六師(79歳)の足取りはいかにも覚束なく、唐織の胸元(実はその下の右手)が小刻みに震えています。ともあれ、ここはかつて藤原定家が建てた時雨の亭ちんであるという説明に続いて

偽りのなき世なりけり神無月 誰がまことより時雨れ初めけん(続後拾遺・冬)

が引かれた上で、シテがワキたちを墓所へと案内すると、そこには蔦葛が這い纏って形も見えなくなった石塔がありました。これは式子内親王の墓、また葛は定家葛だというシテにその謂れを物語るようワキが求めると、シテは、かつて賀茂の斎院を退任した式子内親王を定家が忍んで通い深い契りを結んだものの、間もなく式子内親王が亡くなったために定家の執心が葛となって墓に這いまつわり、二人は互いに離れられず妄執の苦しみから逃れられないでいるので、経を読んで二人を弔ってほしいと願います。ここから〈クリ・サシ〉となりますが、正中に着座したシテの姿は明るい唐織が照明を浴びて輝き、姿勢が決まって神々しいばかり。有名な式子内親王の歌

玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする(新古今集・恋一)

が引用され、独特の抑揚をもって謡われる昔は物を思はざりしも藤原敦忠の歌から。さらにいくつかの歌が詠み込まれた〈クセ〉はじっくり聞かせる居グセで、ついにシテは自らを式子内親王であると明かし、作リ物に背中から寄りかかると苦しみを済け給へとワキに頼んで、作リ物の中へ消えていきました。

アイ/所の者は山本東次郎師。重々しい語りで時雨の亭のことや式子内親王と定家葛のことなどを語り、式子内親王の供養を勧めて狂言座に退きます。ついでワキとワキツレが着座のまま〈上歌〉を謡い、儚げな笛、静かに刻む鼓による〔習ノ一声〕(定家一声)があって、作リ物の中から消え入りそうな声で夢かとよ、闇の現の宇津の山、月にも辿る、蔦の細道。やがて引回シが下ろされると、緋大口の上に白地に金の箔を置いた長絹の両袖を膝の上に重ねた後シテ/式子内親王が作リ物の内で床几に掛けていました。その存在感には圧倒される思いでしたが面は亡霊であることを示すやつれた霊女で、いたわしいその姿に向かってワキが法華経の薬草喩品の句を読誦すると定家葛もかかる涙も、ほろほろと解け拡ごれば、よろよろと足弱車の火宅を、出でたるありがたさよとシテは作リ物の前に出てきて常座へ。さらに静かな囃子の演奏(習ノ手)に乗ってそろそろと前へ出て〔序ノ舞〕となります。

ここでも最初の立ち姿には扇の震えが目立ち少しはらはらしたのですが、舞が始まると関根祥六師は安定を取り戻し、ゆったりとした何とも言えない緊張感を漂わせる舞が舞われました。そしてその力のなさ、儚げな様子は、〔序ノ舞〕の後に続く詞章面なの舞の、有様やなにもつながっていきます。ここでの式子内親王は、かつての月の顔ばせも失い、蔦葛に巻き付かれて葛城の神のように醜い姿。その自分の姿を恥じて恥づかしや由なやと扇で面を隠したシテは作リ物の内に膝を突き、最後に作リ物の外に出て留拍子を踏むことなく終曲を迎えました。

式子内親王と藤原定家の間にこの曲で語られるような恋愛関係が実際にあったかどうかは不明で、式子内親王の方が13歳年上であったことからこれを否定する説が強いようですが、一方で定家の「明月記」に式子内親王に関する記事が多いことから、二人の間に相当の交流があったことも間違いがないようです。この年齢差と、上記に引用した「玉の緒よ」の歌に窺われる式子内親王の心情の激しさを合わせ考えると、定家の執心が蔦葛となって式子内親王を解き放たないのだと考えるより、その逆に式子内親王が定家の魂を絡めとり続けていたと考えてもいいような気もします。最後にシテがもとの墓石へ戻ると再び定家葛がまとわりつき、埋もれた墓は姿も見えなくなったというこの曲の締めくくりは、式子内親王自身の望みを反映したものであるようにも思えました。

配役

宝生流 松尾 前シテ/老翁 田崎隆三
後シテ/松尾明神
ツレ/男 東川光夫
ワキ/臣下 高井松男
ワキツレ/従者 則久英志
ワキツレ/従者 梅村昌功
アイ/所の者 山本則孝
藤田次郎
小鼓 幸正昭
大鼓 亀井広忠
太鼓 小寺佐七
主後見 寺井良雄
地頭 當山孝道
狂言大蔵流 魚説教 シテ/出家 山本則直
アド/施主 山本泰太郎
観世流 定家 前シテ/里の女 関根祥六
後シテ/式子内親王
ワキ/旅僧 福王茂十郎
ワキツレ/従僧 福王知登
ワキツレ/従僧 永留浩史
アイ/所の者 山本東次郎
一噌仙幸
小鼓 曽和正博
大鼓 安福建雄
主後見 関根祥人
地頭 観世清和

あらすじ

松尾

天皇に仕える臣下は、都の西北にある松尾明神に詣でることにする。到着し神に拝すと、老人が若い男を伴い現れる。臣下に社の謂れを問われた老人は、松尾明神は本地垂迹、仏が衆生を救うために神の姿をとって現れたものだと説き、夜神楽も拝むようにと言い残して姿を消す。そして夜になると松尾明神が現れ、颯爽と夜神楽を舞ってみせる。

魚説教

津の国兵庫の浦に住む漁師の男は、後生の事も考えずに魚の命をとる自分の職業の浅ましさに嫌気が差し、出家して坊主になる。そして都見物がてら職を探そうと街道へ出ると、ちょうどそこへ自ら持仏堂を建て、供養する出家を探している施主が現れ、出家に供養を頼む。喜んでついていった出家だったが、家に到着するとさっそく説法を頼まれて大弱り。そこで魚の名前を並べ立て経風に読み上げて聞かせるが、怒った施主に追い出されてしまう。

定家

北陸の僧一行が京の千本あたりの庵で雨宿りをしていると女が現れ、その庵は藤原定家が建てた「時雨の亭ちん」として由緒ある場所であると告げ、僧一行をとある墓へと誘う。蔦葛に覆われ形もわからなくなった石塔は式子内親王の墓であり、この葛は定家葛だと言ってかつての内親王と定家の逢瀬と、内親王が亡くなった後の定家の恋の執心を語る。そう語る女を怪しんだ僧が素性を尋ねると、女は我こそが式子内親王の霊であると言い、供養を願って姿を消す。里の者にも勧められて供養を始めた僧の前に式子内親王の霊が現れ、喜びの舞を舞う。しかし、夜が明けぬうちにと内親王が姿を消すと、墓は再び定家葛に覆われ埋もれてしまう。