女物狂 / 隅田川
2009/03/29
国立能楽堂(千駄ヶ谷)の定例公演で、組踊「女物狂」と能「隅田川」。どちらも、涙腺決壊寸前になりました。
17世紀に薩摩の支配下に入った琉球は、同時に明の使節を迎える冊封国でもありました。琉球国王の代替わりのたびにやってくる冊封使をもてなす御冠船踊(ウカンシンウドゥイ)。これをとりしきる踊奉行の職に1718年に任命された玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)は、薩摩や江戸にも赴き、大和の芸能である能にも明るかったといいます。その朝薫が、能を参考に琉球の音楽や装束、言葉を用いて作り上げた演劇が、組踊(くみおどり)です。とは言うものの、この日演じられる組踊「女物狂」は、その後に舞われる能「隅田川」の趣向を借りていますが、内容も含めて組踊独自の世界を描き出しており、そこを見比べるのがこの日の鑑賞のポイントとなります。
女物狂
舞台の上には、地謡座に太鼓と箏。やがて揚幕の奥から拍子木が鳴って、切戸口から黒い着物に薄茶の帽子を戴いた地謡(ジウテー)が登場します。三線や胡弓も交えて軽く音合わせをした後に、再び拍子木が鳴って演奏開始。「大主手事」と呼ばれる士族を迎える曲ですが、ここで出てくるのは後ろ手に足取りも軽く、鉢巻きを締めた人盗人。ドスの効いた底吟(スクジン)で自己紹介をし、子供を引き合わせてくださいと神仏に祈るところへ、袖の長い華やかな着物を着て髪を頭上に結い風車を捧げ持ち、化粧もして女の子のようにかわいい男の子がやってきます。喜んだ盗人はさっそく子を呼び止めて、最初は人形を見せてなだめすかし連れ去ろうとしますが、子が歌うような高い声(童吟)でゆるちたばうれ
(許してください)と懇願すると本性を見せて鎌を振り上げて威嚇します。すると子はびっくり、あれやうい あれやうい
と叫びながら一瞬で床に左手を突き、右手をあげて鎌を避けようとする形になる動作が見事でした。
子をせかしながら旅を続ける人盗人でしたが、日も暮れてしまったため、揚幕の向こうに声を掛け、一夜の宿を乞います。揚幕の奥から出てきた小僧(普通の墨染姿)が座主の許しを得てくれて、二人は舞台目付柱の近くに横になりますが、最初は子が逃げ出さないように足まで絡めて寝入った盗人もすぐにだらしなく大の字になってしまい、起き出した子は橋掛リへ走ると揚幕に向かってされされ されされ
(もしもし)と必死に声を掛けます。そこへ出てきた座主(これも普通の袈裟姿)に子はすがりつき早口で事情を説明し、最後に歌うように慈悲よ我が命 救てたばうれ
と訴えると、座主は小僧たちを呼び出し、一定のリズムと節回しに乗った流れるような台詞で共同謀議。その結果、知恵者の小僧の立てた策略で手配書を偽装し、盗人を起こして読み聞かせるのですが、盗人の特徴として丈程大方
(身長は高く)と言われればかがんでみせ、色黒く
と言われればあわてて顔を洗い、目細く
にはぱっちり目を作ってみせてと必死に取り繕う様が笑わせます。ついに盗人は揚幕へと追い込まれて、子は無事に保護され、一同はいったん揚幕の奥に下がりました。
一年後、いよいよ物狂いの母の登場。地謡が典型的な沖縄旋律で子を失った母の嘆きを「二揚」(ニアギ)という高い調子で歌う「子持(カムチャー)節」に乗って、深青緑色の地に花鳥文様のぞろりとした着物に紫の鉢巻で悄然と歩く母は、虚ろな目付きで、笹を引きずりながら橋掛リを歩いてきました。その、静かでいて今にも泣き出しそうな表情に、一気に感情移入させられてしまいます。そこへ後からやってきた、十代前半を筆頭に大中小3サイズ揃った赤い着物のかわいい里の子たちは、「触れ者」(フリムン)の母をゑいゑいふれもの、又も踊れ踊れ
(やい物狂い、もっと踊れ)と歌うように囃し立てます。地謡の歌は子の行方を見失った喪失感を歌う「散山節」に変わり、母は何とも言えない表情で舞台の上を歩き回っていましたが、やがて出てきた座主たちが見守る中、笹を振るって激しい動きを示すと、舞台中央に足を投げ出してぺたりと座り込んでしまいました。一人子失やり……肝ふれてをゆん、肝迷て居ゆん
という母の言葉に気付いた座主は里の子たちを帰らせた上で、母に問い掛けます。
座主ゑい、女、失たるわらべ年頃やいくつ
母 七つ
座主名は
母 亀松
これを聞いて座主は、子を母に引き合わせます。このとき、母は俄には現に戻らぬようにゆっくりと虚ろな目を子の方に向け、ややあってつぶやくように玉黄金一人子、生ち居ため
(大切な一人子よ、生きていたのか)。この言葉に重ねるように子は母にすがりついてやあ、母親よ
と叫び、そこへあゝけ、生ち居ため
と二揚調子の「東江節」が母の心を代弁するようにドラマティックに覆いかぶさって、この一瞬の限界までの高揚に、見入っていた私はぐっと込み上げてきてしまいました(いま思い出しても、胸が熱くなってきます)。このとき地謡は、前の台詞にかぶせて歌い出す「仮名掛け」という手法を用いて畳み掛けているのですが、ここでは三音にかぶせる三仮名掛けで最大級の効果を引き出しているのだそうです。ともあれ、めでたく再会した母子は座主たちと共に、美しい「立雲節」に乗って舞台を去っていきます。
けふのほこらしやや なをにぎやなたてる つぼでをる花の 露きやたごと
(今日のうれしさは 何に譬えようか
莟んでいる花が 露に逢ったようだ)
地謡の演奏は登場人物たちを送るリフレインへと変わり、一同が揚幕の奥に消えたところで演奏が終わると共に、拍子木が打たれて終演となりました。
うるうるしながら休憩時間を過ごして、続いて能「隅田川」。世阿弥の嫡男である観世十郎元雅の作。こちらが組踊「女物狂」の本行ということになります。
隅田川
囃子方・地謡の登場に続いて、塚の作リ物が大小前へ。この作リ物は、直方体の塚の上に榊が茂り柳の枝が垂れる態で、後でわかることですが、その中に子方が潜んでいます。さて、力みのないすんなりとした〔名ノリ笛〕に乗ってワキ/渡守(宝生閑師)の登場。ワキの〈名ノリ〉の素晴らしい声の深さと強さに、一気にあちらの世界へ連れて行かれるようです。続いての〈次第〉も穏やかに、ワキツレ/旅人も朗々とこれは東国方の商人にて候
都での商いを終えて本国に下ってきたと名乗ります。いよいよ〔一声〕の長い笛の音に乗ってシテ/梅若丸の母(坂井音重師。面は深井)が黒い笠をかぶり、薄い青の水衣に笹を右肩に担げてゆっくりと登場。この笹の枝は組踊「女物狂」でも使われていましたが、狂女がこれを持つのは定型であるそうです。そして舞台上での〔カケリ〕となり、激しい拍子の鼓に乗ってシテは足拍子を踏み、笹を振るってひとしきり舞った後、常座に戻って一人子をさらわれて東国に下ってきた経緯を語ります。この辺り、地謡も異例なまでの存在感で謡いますが、シテも我が子が人商人に誘はれて
と物語るところでは身を震わせながら謡って、実に異様な雰囲気。シオリながらそなたとばかり思ひ子の、跡を尋ねて迷ふなり
というあたりはシテが超低音で沈潜する心を示しました。
そうこうするうちに隅田川の渡守のもとへ辿り着いたシテは、ワキに舟に乗せてくれと言います。ここでワキは狂女なら面白ふ狂へ
と求めますが、シテは伊勢物語を引いてワキをたしなめ、沖の鴎にもなどこの隅田川にて白き鳥をば、都鳥とは答へ給はぬ
と渡守をやり込めます。このやりとりは、物狂いといいながらも京都北白川に住んでいたというシテの教養を垣間見せますが、しかしシテがいくら笹を振って都鳥に我が子の消息を尋ねても、都鳥は答えてくれません。諦めて舟に乗せて賜び給へ
とワキに合掌して頼んだシテは、ワキツレと並んで脇座の前辺りで舟に乗り、その後ろに右肩を袒いだワキが立って舟を進める形となります。このとき、シテは正面に対しかすかに右手正先方向を見やる向き、つまりワキツレとは顔を合わさないような角度で舟に乗っているのですが、向こう岸の柳の木の下に人が集まっている理由を問うワキツレの求めに応じて語り出したワキの話は、ちょうど一年前のこの日、人商人に連れられた12、3歳くらいの男の子が旅の疲れからこの地で動けなくなり、ついに亡くなるときに、この道を通るであろう都の人の影さえも懐かしく見ることにしたいからこの路次の土中に築きこめて給はり候へ
と人に頼んで念仏四五遍唱へ、ついに終つて
しまったという大念仏の由来。間狂言の入らないこの曲では、ワキが物語の進行を司っていることをこの場面が端的に示しているわけですが、この話に聞き入っていたシテはだんだん目をそらして動揺し、ついに終つて
と聞いて泣き出してしまいます。
向こう岸に着いたところで舟を下りるよう促されたシテが、なう舟人
と深いところから絞り出すような声でワキに、その子の年、名、父親の名字などを聞き、ついにその幼き者こそ、この物狂が尋ぬる子にてはさむらへとよ、なうこれは夢かや、あら浅ましや候
と笠を捨ててモロシオリ。これにはワキも驚きますが、今は歎きても甲斐あるまじ、かの人の墓所を見せ申し候ふべし
と墓所への案内を申し出、シテもやっとの思いで立ち上がりました。このとき、捨てられた笠は地謡の一人がとりあげて、地謡座の奥へしまいます。作リ物の塚の前に連れてこられたシテは、我が子が生所を去つて東の果ての、路の傍の土となりて、春の草のみ生ひ茂りたる、この下にこそあるらめや
とほとんど泣き声。もうこの辺りで私の方も目頭が熱くなってきているのですが、シテはさらに狂乱の態になって周囲の人々に、土を掘り返してもう一度我が子の姿を見せてくださいと懇願します。そのままただひれ伏して泣き居
るシテでしたが、ワキに諭されて鉦を鐘木で打ちつつ阿弥陀仏の名号を唱えます。地謡がこれを受けて南無阿弥陀仏を繰り返す間、囃子方の大鼓、シテの鉦、小鼓が寄せては返すように打たれて声明のような静謐感が漂いましたが、隅田川の波風も、そして名にし負はば都鳥も、と音を添えるうちに塚の中から子方/梅若丸の南無阿弥陀仏の声が聞こえてきました。これを聞いてシテは正しく我が子の声の聞え候
と驚き喜び、今一声こそ聞かまほしけれ
と南無阿弥陀仏を唱えると、白装束に黒頭の子方が塚の中から出てきてシテと向かい合います。ここのところ、世阿弥は子方を用いない方が……と言ったのに対して元雅はそのような演出はできないと反論したそうで、現代では子方の声だけ聞かせる演出や子方をまったく登場させない演出もあるそうです。しかしここでは、
シテ あれは我が子か
子方 母にてましますか
と母子は言葉を交わし、シテは子方に駆け寄りますが、子方はシテの手をかわして塚へ戻ってしまいました。泣きながらシテが常座へ行きかかると、再び子方が塚から出てきましたが、またしても子方を抱くことがかないません。やがて夜が明けてきてみれば、我が子と見えしは塚の上の、草茫々としてただ標ばかりの、浅茅が原と、なるこそ哀れなりけれ
。塚にすがりつくようにしていたシテはシオリをして立ち、留めの拍子もなく笛が余韻の深い一音を伸ばして、静かに終曲となりました。
物狂の能では、たとえば「柏崎」のように、最後は愛する者と再会して狂気がおさまるというのが普通ですが、この「隅田川」では一瞬我が子の姿をかいま見はするものの、ついにシテ/母は救済されることなく終わってしまいます。あまりにも救いのない話にやりきれない思いを拭えませんが、この曲を本行とした組踊「女物狂」はその設定は借りつつも、冊封使歓待の祝言という性格からハッピーエンドに変えました。しかし、再会の場面の劇的な効果はこの作品を高貴な深みのあるものとしており、そこに単なる換骨奪胎ではない、独自の品格を感じることができます。ともあれ、この日の国立能楽堂の組踊と能とを組み合わせる企画は、非常に意義深いものでした。しかも、能でこれだけ泣かされたのは初めてです。当分、何かの拍子に思い出しては一人勝手に泣いてしまいそう。
配役
組踊 | 女物狂 | 盗人 | : | 太田守邦 |
男子 | : | 知花令磨 | ||
母 | : | 宮城能鳳 | ||
座主 | : | 赤嶺正一 | ||
小僧一 | : | 宮城茂雄 | ||
小僧二 | : | 新垣悟 | ||
童一 | : | 平良棟子 | ||
童二 | : | 金城裕斗 | ||
童三 | : | 平良駿弥 | ||
歌・三線 | : | 西江喜春 仲嶺伸吾 花城英樹 |
||
箏 | : | 宮里秀明 | ||
笛 | : | 宮城英夫 | ||
胡弓 | : | 又吉真也 | ||
太鼓 | : | 比嘉聰 | ||
後見 | : | 神谷武史 | ||
能観世流 | 隅田川 | シテ/梅若丸の母 | : | 坂井音重 |
子方/梅若丸 | : | 観世喜顕 | ||
ワキ/渡守 | : | 宝生閑 | ||
ワキツレ/旅人 | : | 大日方寛 | ||
笛 | : | 一噌仙幸 | ||
小鼓 | : | 観世新九郎 | ||
大鼓 | : | 柿原崇志 | ||
主後見 | : | 観世恭秀 | ||
地頭 | : | 岡久広 |
あらすじ
女物狂
首里や那覇から子供をさらい、地方で高く売りさばいて暮らす人盗人。ある日、ひとり風車で遊ぶ男の子を見つけ、人形を見せて言葉巧みに誘い、連れ去ってしまう。山原へ向かう旅の途中、一夜の宿を借りた寺で、子供は人盗人が寝入った隙に抜け出して座主に助けを乞う。小僧たちは一計を案じ、首里から人盗人を捕らえるようお触れが来たと言って、あたかも男の人相が手配書に記されているかのように読み上げ、縛り上げる。座主はその子を弟子にした。それから何カ月も後のこと。物狂いの女が、里の子供たちにからかわれながらやってくる。面白がって眺めていた僧侶たちだったが、話を聞けば思い当たる節がある。もしやと子供を引き合わせると、果たして二人は離ればなれになっていた母子だった。女は正気を取り戻し、喜んで我が子を連れて帰る。
隅田川
武蔵の国の隅田川では、対岸で大念仏が催されるため、船が忙しく往来していた。今も渡し場へ、旅の者に続き物狂いの女が訪れる。女は人商人に子をさらわれ、京都の北白川からはるばる尋ね歩いて来たのだった。向こう岸に向かう船の中で船頭が語った念仏会の由来に打ちひしがれた女が供養されている子の名を問うと、それはまさしく尋ねる我が子・梅若丸。驚いた船頭は女を大念仏へと連れて行くが、あまりの悲しさに女は泣くばかり。亡き子のためにも念仏が何よりの供養と促され、女も念仏を唱えると、その念仏に呼応するように子の念仏の声が聞こえ、姿を現す。女がその手を取ろうとすると子の姿は消え、また現れては消え消えとなり、やがて東の空が白むと、草の原にはただ墓標の塚だけがあった。
『伊勢物語』の東下り(第九段)に出てくる都鳥のエピソードは、次のとおり。
なほ行き行きて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。その河のほとりに群れゐて、思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかなとわび合へるに、渡し守、「はや舟に乗れ。日も暮れぬ」と言ふに、乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さる折しも、白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水の上に遊びつつ、魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡し守に問ひければ、「これなむ都鳥」と言ふを聞きて、
名にし負はばいざこと問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと
とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。