曾根崎心中

2010/02/11

2月の文楽は、国立劇場小劇場で近松門左衛門の「曾根崎心中」。元禄16年(1703年)大坂竹本座初演の世話浄瑠璃で、近松が歌舞伎から人形浄瑠璃へ転じる契機となった作品としても有名です。大好きな嶋大夫の語りもさることながら、お初を遣う吉田蓑助師の「文化功労者顕彰」というのも今月のポイント(受章は2009年)。さらに「曾根崎心中」は先に歌舞伎の方で二度観ていて、いずれも藤十郎丈のお初、翫雀丈の徳兵衛の組み合わせ。上方歌舞伎界の雄にして近松研究の第一人者である山城屋の「曾根崎心中」と文楽のそれとがどう違うか、というのが興味の中心になりました。

生玉社前の段

まずは英大夫による「生玉社前の段」。茶屋のお初に気付いた徳兵衛が丁稚の長蔵を先に行かせてからお初に声を掛けると、お初は走り寄って編笠の下から徳兵衛の顔を覗き込みますが、まずもってこの仕種がとても色気あり。太鼓と三味線によるお囃子に乗って徳兵衛がお初になかなか会えなかった訳を説明する間も、膝に手を置いたりひしと抱きついたりといちいち可愛い仕種に観ているこちらがどぎまぎしてしまいます。ところが、そこへやってきたのが油屋九平次。徳兵衛に降って湧いた縁談を破談にするために必要な二貫目の銀を貸したところ、期限を過ぎても一向に返す気配のない九平次にここを先途と詰め寄ります。悪辣な九平次とのやりとりにわなわなとする徳兵衛。しかし九平次の企みによって偽証文をつかまされたことを知って愕然。ついに実力行使に及ぶものの、かえって叩きのめされてしまいます。着物でばしばしと打ちすえられた末に九平次には逃げられ、お初も他の客に連れ去られて独り残された徳兵衛は、見物人に嗤われつつ無念のうちに下手へ。すっかり打ちのめされた様子の徳兵衛の心理は日が傾いた様子を示す照明の変化で巧みに示されますが、歌舞伎のように「花道に一人泣き崩れる徳兵衛……暗転」といった突き詰めた表現にまではしていませんでした。

天満屋の段

恋風の身に蜆川流れては、その虚貝うつせがいうつヽなき。切場「天満屋の段」を語るのは、嶋大夫。この日は何かの収録があったらしく、嶋大夫のすぐ前にマイクが立っています。白湯汲みも位置について、ふさぎ込んだ様子で暖簾を分け出てくるお初の様子を語り出した嶋大夫、いつになく出だしから安定した語り口です。舞台では、天満屋の外にやってきた徳兵衛に気付いたお初が、何気ないふりをしつつ表に出て徳様かいのどうしてぞと絞り出すような声。ここへ内から亭主がお初に部屋に戻れと呼ぶ声に、お初は機転を利かせて打掛の裾に徳兵衛を隠し、具合を確かめて「うん、これでよし」といった表情を見せると(そのちょっとユーモラスな様子に会場から小さな笑い声が上がりました)、そのまま天満屋の中に入って徳兵衛を縁の下に引き入れます。そこへやってきたのが、件の九平次。すぐ近くに徳兵衛が潜んでいるとも知らず、妓衆相手にさんざんに徳兵衛の悪口を言いふらすのは「封印切」などでもおなじみのパターンです。しかし、お初は徳兵衛をたしなめた上で、情が結句身の仇で、騙されさんしたものなれど、証拠なければ理も立たず。ここで煙管を取り落とした音に徳兵衛ははっと胸を突かれたような表情で顔を出すと、この上は徳様も、死なねばならぬ品なるが、ハテ死ぬる覚悟が聞きたいと肩を震わせながら宙を仰げば、下の徳兵衛はお初の足首(本来女役の人形に足はなく、ここだけポータブル足首が登場!)をとって喉に当て、自害の覚悟を伝えます。気味悪がりながらも九平次が、徳兵衛が死んだら自分がお初を可愛がってやると開き直ると、お初は私を可愛がらしやんすと、お前も殺すが合点か。さすがにこれにはギクとした九平次。畳み掛けるようにお初が九平次を毛虫、阿呆とののしり倒したために一同ドン引きですが、縁の下では徳兵衛が首だけの演技でお初の情に感極まった様子を見せています。この、縁の上下に分かれたお初と徳兵衛の覚悟のやりとりは歌舞伎「曾根崎心中」最大の見せ場であり、現・坂田藤十郎丈をスターの座に押し上げる原動力となった場面ですが、文楽においても三業の表現力が最大限に発揮される名場面となって感動しました。

九平次がほうほうの態で引き揚げ、亭主も店仕舞を告げてお初が二階へ上がると、座敷の真ん中に下女がよっこらしょと布団を広げて(妙技!)、ふと客席の視線に気付いて屏風を引き寄せました。やがて三味線と太鼓がどろどろと深夜の雰囲気を聞かせるうちに、打掛の下を白無垢に変えて出てきたお初が、吊行灯の火を棕櫚箒につけた扇で消して、その拍子に階段から落ちてしまいます。だんまりのようになって、お初と徳兵衛は門の戸際。物音に奥から出てきた主人に命じられて下女が行灯の火を灯そうと火打石を打つ音に合わせ徳兵衛が少しずつ戸口を開いていく様子がはらはらさせますが、ついに表に出た二人は下手へと逃れて行きます。

天神森の段

有名なこの世の名残、夜も名残で始まる名調子が、五人の太夫と鶴澤寛治オーケストラの饗宴で朗々と語られます。編笠姿の徳兵衛と、白い頭巾をかぶったお初の二人が、夜の闇の中を天神森へと死出の道行。人魂に脅かされながらも死んでもふたりは一緒ぞと抱き合った徳兵衛とお初は、お初の帯で互いの身体をくくって繋ぎます。歌舞伎ではこの後バレエのパ・ド・ドゥのように優美で悲愴な連れ舞が舞われて、なるほど舞踊を織り込むのは歌舞伎ならではだなと思ったのですが、この日の舞台では熊のような体格の始大夫による高く悲しげな「なまいだー(南無阿弥陀仏)」の声が響くうちに、帯の左右からくるくると回って近づいた二人は、詞章の最後長き夢路を曾根崎の、森の雫と散りにけりが語り終えられた後も森々と鳴り続ける三味線と遠くからの鐘の音の中でスポットライトの中に浮かび上がり、ついに刃を受けると重なりあい崩れ落ちて終幕。生身の人間が演じたら生々しいものとなってしまったであろう最期の場面(なので藤十郎丈は刃を構えるところで幕を引いていました)も、人形が演じることで昇華され、さらに三味線と照明とが実に効果的に使われて、悲しくも美しい夢のような場面になっていました。これこそ、文楽の文楽たる所以でありましょう……。

いつもは舞台と床とを二対一くらいで眺めるのですが、この日ばかりは最初から最後まで舞台上の二人に目が釘付け。終演後は、胸に残る深い余韻を逃さないように、ためらいがちにほっと溜め息をついて、国立劇場を後にしました。

配役

生玉社前の段 豊竹英大夫
竹澤團七
天満屋の段 豊竹嶋大夫
鶴澤清友
天神森の段 お初 竹本津駒大夫
徳兵衛 竹本文字久大夫
  豊竹始大夫
豊竹呂茂大夫
豊竹希大夫
鶴澤寛治
鶴澤清志郎
豊澤龍爾
鶴澤寛太郎
野澤錦吾
〈人形役割〉
手代徳兵衛 桐竹勘十郎
丁稚長蔵 吉田玉翔
天満屋お初 吉田蓑助
油屋九平次 吉田玉輝
田舎客 吉田玉誉
遊女 吉田蓑一郎
遊女 吉田勘市
天満屋亭主 桐竹亀次
女中お玉 吉田清三郎
町衆 大ぜい
見物人 大ぜい

あらすじ

曾根崎心中

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