大蛇 / 茶壺 / 求塚

2011/01/29

国立能楽堂(千駄ヶ谷)の特別公演で、能「大蛇」、狂言「茶壺」、能「求塚」。「求塚」は、10年以上前から観たいと思っていた演目でした。その理由は後ほど……。

大蛇

有名な八岐大蛇の話を能にしたもので、観世小次郎信光の作。宝生・金剛・喜多の三流で現行で、めったに上演されないそうです。最初に作リ物の疎屋(大藁屋)が大小前にゆっくり持ち込まれてその大きさに驚いているうちに〔次第〕。事実上の主役であるワキ/素盞嗚尊(高井松男師)は左右に羽を出した唐冠に、紺の直垂、白大口。ワキツレ二人は立烏帽子に朱の狩衣、白大口です。三人が向かい合っての〈次第〉の詞章は始めて旅に行く雲の、治まる国を尋ねん。新羅の国に天降ってから舟に乗って出雲の国に着いたと〈着キゼリフ〉を述べて脇座に納まったところで、作リ物の中からしみじみと、しかしよく通る声で前シテ/脚摩乳(種田道一師)のながらへて生けるを今は嘆くかなという謡が聞こえてきました。そこにわが子との別れを嘆くツレ/手摩乳(工藤寛師)の声も重なり、地謡が子の別れをばいかにせんと引き継いだところでワキが疎屋の内に何を泣いているのかと問い掛けます。しばしの問答の後、作リ物の引廻しが下ろされると、そこには茶の絓水衣に小尉面の前シテ、水色の縷水衣に姥面のツレ、そして二人の間にはさまれて華やかな唐織を着たかわいらしい子方(女の子)・奇稲田姫が並んで座っていました。ワキの改めての問いに対してシテが大蛇に姫が呑まれようとしている旨を答えるが続き、これに対してワキが大蛇を退治しようと宣言する〈クセ〉になって地謡は高揚。喜んだシテたち三人は作リ物から出て、ワキの求めに応じてシテがすなはち少女を奉ると、ワキは子方の肩に手をかけて脇座に座らせ、地謡のやがて尊は稲田姫を、湯津の妻櫛とりなして、鬢づらにさし給ふで後ろから閉じた扇を髪に挿す形。本来は、尊が姫を櫛に変え自分の髪に挿して大蛇から隠すというのが記紀の記述です。シテに大蛇退治の策を明かしたワキは、子方を立たせて橋掛リに送り出すと、常座で正面に向き直って扇を手に勇ましい構えを見せてから、中入。シテ、ツレ、ワキツレも〔来序〕の囃子の中を下がってゆきました。

間狂言は、山の神。笑っているような面に薄茶色の縷水衣という姿で、例によって一連の経緯を述べると、草木の精、鳥類畜類に至るまで物陰から始終を見届けるようにと告げて去ります。そこで疎屋が下げられ、正先に包み舟(酒槽)と一畳台が置かれたところで〔一声〕。ワキツレ二人が捧げる輿(の天井)を模した作リ物の下の位置をキープしながら子方が正中に進み、続いて袖のない上衣=側次(法被より軽い軍装)姿になったワキが一ノ松。ここでワキと舞台上のワキツレとは気合をこめて光散る、玉の御輿を先立てて、尊は馬上の威儀をなし……と謡うのですが、どうしたことかこれが見事にバラバラになってしまっていました。三人とも直面だから相手の声が聞こえにくいということはなかったと思うのですが、囃子方の音に遮られてしまったのかな?ともあれワキツレ/輿舁をつとめるお二人の出番はこれだけ(もったいない!)で、こちらがあまりの呼吸の合わなさに呆気にとられているうちにさっさと切戸口から下がってしまいました。さて、地謡が八雲立つ、出雲八重垣妻ともにと日本最古の三十一文字の変奏版を謡ううちにワキは常座に進んで眼光鋭く辺りを見回すと子方を一畳台の上に立たせ、子方は台の見所側に置かれた包み舟を見下ろします。これで姫の姿が器の酒に映った状態になったことを示しているわけで、ワキは大蛇を待ち構える風情となって笛座前で床几にかかり、子方も脇座に下がりました。

いよいよ大蛇の登場。囃子は早笛となって全力疾走、地謡が川上暗く水渦巻き、雲は地に落ち波立ち上がり、山河も崩れ震動して、現はれ出づる大蛇の勢ひとおどろおどろしく謡ううちに幕が上がって橋掛リに飛び込んできた後シテ/大蛇は、赤頭の上に龍戴、その名も「大蛇」という大きな異形の面をかけ、法被半切の定番の姿で打杖を手にしています。それにしても頭上の龍の尻尾の長いこと!肩甲骨の辺りまで伸びていました。目を赤く光らせ角を振り立てながら舞台に進んだ大蛇は、舞台上をぐるりと回りどしん!と足拍子。一畳台の上に飛び上がって打杖を酒槽に差し入れ酒を呑む形となり、ついで一畳台を飛び降りると正中で跳んで膝を着き、膝行。足拍子を入れて激しく舞い暴れる〔舞働〕となります。やがて剣を抜き放ったワキは一ノ松へ進み、一畳台上の後シテと睨み合った後に舞台上での立ち回りとなりますが、ついに斬り伏せられた後シテは正中で後ろ向きにがっくり安座すると、そこから橋掛リを退散。最後はワキが常座で剣(大蛇の尾から得た叢雲の剱)を手に仁王立ちとなり、太鼓が留撥を打ちました。

いかにも金剛流らしい迫力に満ちた舞台、そしてワキが大活躍する珍しい曲を堪能。上演時間は70分ほどでしたが、もっと短く感じられました。

茶壺

主人の命を受けて京都栂尾に茶を買い出しに行っていた使いの者が、すっかり酒に酔った様子で茶壺を背負いふらふらと登場。歩けなくなって正中でごろりと横になったところでシテ/すっぱ(詐欺師)が出てきて、一ノ松で「心の直ぐにない者でござる」と、自分は悪者です(!)と自己紹介します。近頃仕事がうまくいかないので街道で金儲けの種を探そうと言うそばから使いの者を見つけ、これを起こそうとするとあまりに酒臭いのに思わず顔をしかめて辟易といった様子です。しかし茶壺を見てしめしめ、これを盗ろうとするものの、紐に手をかけて引くと使いの者が起きそうになってギクリ。思案したすっぱは、茶壺の肩紐の一つに腕を通して自分も横になり、使いの者が起きたところで茶壺の所有権を主張する、言わば正面突破作戦に出ることにしました。使いの者が起きたところで当然口論になるわけですが、そこへ割って入ったのが目代。言い分を聴くのでまずは茶壺を身共に預けい、と正先に茶壺を置きますが、どうもこのへんから結末が見えてくるような……。

目代はまず使いの者に茶壺の由来を尋ねますが、使いの者の回答をすっぱはこっそり聞いていて、自分も同じ回答をします。ついで茶の製造証明にあたる入日記いれにっき・園所えんどころの内容を聞こうという目代に対して使いの者はあいつは知るまいからすっぱから聞いてくれと言いますが、すっぱも同じ言葉を繰り返すので結局またも使いの者から答えることに。「赤井の坊の穂風を十斤」買い求めた所以を小謡に乗せて舞い語ると、またもすっぱは同じことの繰り返し。このすっぱの回答は、先に回答している使いの者と一言一句変わらないのですが、口調に微妙な誇張が入っていて笑えます。

ここまではうまく立ち回ったすっぱでしたが、決着がつけられない目代は二人に合舞をさせることにします。舞台の前に並んでガン見し合い最初から険悪な雰囲気の二人の連れ舞は、すっぱが少し後ろに下がって使いの者をちらちら見ながらの真似。さすがに使いの者のスピードについていけず、舞は遅れるしところどころ詞章を飛ばすしとおろおろ気味です。それでも舞の途中で使いの者がすっぱを睨みにつけるために間を置くと、すっぱもここだけは負けていません。どうにか最後まで舞いきったものの、見所からの判定では明らかにすっぱの負けなのですが、目代は二人に対して「一段とでかいた」。えっ?そんなはずは……と思っていたら目代は涼しい顔で、昔から「論ずる物は中から取れ」というのだと茶壺を自分のものにして逃げてしまい、使いの者とすっぱは慌てて「やるまいぞ」と後を追います。観ていたこちらも、目代にしてやられた、という感じ。

この狂言、歌舞伎に移植されたものを観たことがありますが、あちらはあちらで役者の個性全開で良かった記憶があります。

求塚

冒頭に書いた通り、「求塚」は10年以上前から観たいと思っていた演目でした。私は昔から川本喜八郎氏の人形アニメーションのファンで、特に「鬼」「道成寺」といった日本の古典に題材をとった作品には強く惹き付けられていたのですが、何といっても最高傑作は「火宅」であろうと思います。圧倒的な映像美、観世静夫師の味わい深い語り、武満徹の幻想的な音楽といった全ての要素が絡み合った19分の作品を初めて見たとき、文字通りノックアウトされたのですが、その「火宅」の原作が能の「求塚」です。世阿弥の父である観阿弥の作品、宝生・喜多両流に残されていたものが、現在ではその他の三流全てで復曲されています。

最初に頂上に葉を茂らせた塚の作リ物が大小前へ据えられて〔次第〕。宝生閑師のワキ/旅僧が工藤和哉、宝生欣哉という重量級のワキツレを従えて舞台に進み鄙の長路の旅衣、都にいざや急がんと〈次第〉。西国から都をさして旅をしてきた三人の僧侶は、摂津の国・生田の里に着いて、ここで暫く一見せばやと脇座に下居します。ここで〔一声〕。美しい相生増面のシテ(木月孚行師)とツレ二人(里の女)はいずれも縫箔腰巻の上に白水衣を着て手には若菜を入れた手籠を提げ、残雪の野に若菜を摘みに出てきた様子を示します。〈一セイ〉若菜摘む、生田の小野の朝風に、なほ冴えかへる袂かなと謡われますが、生田の小野は若菜摘みの名所。正月の初子の日に若い女が野に出て若菜を摘む神事が、やがて初春の遊楽となったのだそうですが、それにしては一連の詞章は寒々としてつらそうですらあります。そのせいかどうか、ワキが娘たちにこのへんを生田というのか?と問うと、見ればわかるでしょ、と妙につれない返事。それもそうだ、さて求塚とはいずこ?と重ねて聞けば求塚とは名に聞けども、真はいづくの程やらん、我等は更に知らぬなり。この回答をツレがしている間、シテは一人正面を向いていわくありげにじっと佇んでいましたが、追い打ちで我々は若菜摘みに忙しいのにつまらぬことをおっしゃるな、あなたも旅を急ぐ身では?と旅人の道妨げに摘むものは 生田の小野の若菜なりけりという古歌(源師頼)を引いてたしなめます。そして若菜摘の様子をシテと地謡との掛合いで謡ううちにツレ二人は帰っていき、シテは常座でこれを見送ると手にしていた籠を後見に渡して扇に持ち替えました。ワキが、皆は帰ったのにあなた一人はなぜ残ったのかと問うと、ここでシテの声色が変わり、前に求塚の事を尋ね給ひて候ふよなうと逆に問い返してきます。ワキを求塚に案内したシテは、正中に着座して脇座のワキの求めに応じ求塚の由来を語りますが、その由来とは次のようなもの。

昔この所に、菟名日処女と申す女ありしに、またその頃小竹田男子、血沼の丈夫と申しし者、かの菟名日処女に心をかけ、同じ日の同じ時、わりなき思ひの玉章を通はす、かの女思ふやう、あなたへ靡かばこなたの恨みなるべしと、左右なう靡く事なかりしに、さまざまの争ひありし後、あの生田川の鴛鴦を射る、二人の矢先諸共に、一つの翼に当たりけり。

そしてここで、シテの語りは突如テンポを落としてその時わらは思ふやうと一人称となり、自分の過去の記憶の中へ没入する様子。我がために命を落とした水鳥の不憫さを嘆いて住みわびぬわが身捨ててん津の国の 生田の川は名のみなりけりとの歌を残して入水した〈次第〉を述べます。しかし悲劇はこれだけでは終わらず、菟名日処女が葬られた塚の前にやってきた二人の男がさし違えたことを地謡に謡わせ、このとき立ち上がっていたシテは男たちの立場になって塚を見込んだ上で「さし」のところで鋭く1、2歩前に出ると、再び菟名日処女に戻ってそれさへ我が科になる身を済け給へと救済を求める言葉を残して、作リ物の横で正面を向いた後に作リ物に中入しました。

間狂言は、茶系の美しい裃姿の里人。ワキとの問答を経て塚の由来を語りますが、その中に鴛鴦を射させたのは菟名日処女であると明言されていました(「大和物語」では、娘の親が水鳥を射当てた者に娘をさしあげようと言ったことになっています)。そして菟名日処女がこの塚に葬られた後、二人の男が女を求めてやってきたことから、この塚は「求塚」と呼ばれるようになったとの講釈。ワキが会った女性は菟名日処女の霊だろうと推し量り、供養を勧めてから狂言座に退きます。

ワキの回向の声、太鼓が入って〔出端〕の囃子、すると塚の中からおう曠野人稀なり、我が古墳ならでまた何物ぞと囃子にとけ込むような蕭条たる後シテ/菟名日処女の霊の謡が聞こえてきました。「生田」の名にも似ず年若くして命を絶った処女の塚の内外での掛合いのうちにあら閻浮恋しやと現世への執着を謡ったシテ、そして地謡が苦しみは身を焼く、火宅の住処ご覧ぜよと謡ううちに作リ物の引回しが外されると、そこには白練に紫大口が美しく、しかし悽愴な痩女面をかけて床几に佇むシテの姿。これを見て傷わしく思ったワキが唱える法華経に一度は晴れ間の少し見える思いがしてありがたやと合掌したシテでしたが、そのときふと右前を見てシテの口調は緊張し恐ろしやおことは誰そ、なに小竹田男子の亡心とや、ついで左前を見てさてこなたなるは血沼の丈夫、左右の手を取られて来たれ来たれと責められたシテは両手を前に出す仕種をし、さらにはあの鴛鴦が鉄鳥となって襲いかかり脳髄を食らうために頭を抱える形。そのリアルな苦悶の表現に、見所は息を呑んで見守るばかりです。

こはそもわらはがなせる科かや、あら恨めしやとシテはシオリながらなうなう御僧、この苦しみをば何とか済け給ふべきと必死にワキに助けを求めるのですが、前は海、後は火焔、火宅の柱にしがみつけばその柱も炎に包まれてあら熱や、堪えがたやとはっと下がり、両手でかたく胸を抱きます。しかし、獄卒が当てる鞭を扇で表現したシテが作リ物を出て正中に進むと、地謡が謡うのは八大地獄の有様。無間の地獄の底へと逆さに落ちていく姿を扇を上から振り下ろす姿で示し、さらに三年三月の苦しみの末に鬼も去り火焔も消えて暗闇となった様子を扇で面を隠す型で見せると、シテは精魂尽き果てた様子で今は火宅に帰らんと、ありつる住処はいずくぞと舞台上をさまよい歩き、ようやく塚に行き当たったシテは作リ物に入って左手の扇で面を隠し身を沈めましたが、草の陰に置く露が消えるように亡者の影は失せにけりと謡われる中、シテは作リ物を出て立ち尽くして留めとなりました。

上述の川本喜八郎氏の『火宅』では、地獄の業火に焼かれ無間の底に堕ちていった菟名日処女は、最後に旅僧の読経の声が届いて安寧を得ることができたのに対して、その原作である「求塚」では菟名日処女は経典に救われかけたと思ったら、そこから本当の地獄の苦しみが始まります。そして最後まで、ワキはなすすべもなくシテの苦しみを見守るしかなく、シテは成仏もできずにとぼとぼと火宅に戻り着くしかありません。次なる苦患の時までの、束の間の休息にすぎないとわかっていても。現世において罪を犯したわけでもない処女が遭わなければならなかった死後の苦しみは、『火宅』のラストでの旅僧の述懐が示す通り、この世に生きる者全てが抱える闇のことなのかもしれません。

シテの木月孚行師は、怪我で出演できなくなった野村四郎師の代演でしたが、ワキの宝生閑師と共に、その深い表現で見所を圧倒。観世銕之丞師率いる地謡も囃子方の演奏も存分に堪能しました。

神戸市の御影には処女おとめ塚という古墳があり、これをはさむように東西に求女塚があって、この曲で語られている菟名日処女の伝説はこれらの古墳にあやかって、二人の男から求婚された娘が自ら命を絶ち、男たちが後を追って死んだという話になっています。この話は万葉集にも歌われ、さらに「大和物語」において舞台が生田川に置き換えられたとのこと。

私が社会人二年目に神戸に赴任したとき、新幹線の新神戸駅の真下から海に向かう生田川沿いに桜がきれいに咲いていたことを覚えていますが、かつての生田川は流路が異なり、今でいうフラワーロードがそれであったと聞きました。

配役

金剛流 大蛇 前シテ/脚摩乳 種田道一
後シテ/大蛇
ツレ/手摩乳 工藤寛
子方/奇稲田姫 伊藤桃子
ワキ/素盞嗚尊 高井松男
ワキツレ/従者 則久英志
ワキツレ/従者 御厨誠吾
ワキツレ/輿舁 殿田謙吉
ワキツレ/輿舁 大日方寛
アイ/山の神 三宅右矩
藤田朝太郎
小鼓 古賀裕巳
大鼓 内田輝幸
太鼓 桜井均
主後見 松野恭憲
地頭 宇髙通成
狂言和泉流 茶壺 シテ/すっぱ 三宅右近
アド/使いの者 三宅近成
小アド/目代 前田晃一(河路雅義代演)
観世流 求塚 前シテ/里の女 木月孚行(野村四郎代演)
後シテ/菟名日処女の霊
ツレ/里の女 柴田稔
ツレ/里の女 馬野正基
ワキ/旅僧 宝生閑
ワキツレ/従僧 工藤和哉
ワキツレ/従僧 宝生欣哉
アイ/里人 高澤祐介
松田弘之
小鼓 曽和正博
大鼓 安福建雄
太鼓 観世元伯
主後見 武田尚浩
地頭 観世銕之丞

あらすじ

大蛇

神々の住む天界から旅立った素盞嗚尊は、出雲の国・簸の川あたりにたどり着く。路傍の小家で美少女を守り泣く老父・脚摩乳と老母・手摩乳。もとは八人の娘があったのに、大蛇に毎年一人ずつ呑まれ、最後に残った奇稲田姫も今夜餌食になると嘆く夫婦を憐れんだ尊は大蛇退治を申し出、姫と結婚の契りを交わす。馬にまたがった尊は、輿に乗せた新妻を先立て、川上の鶏冠の嶽に登り、岸辺に姫を据え置くと、波間に浮かぶ酒槽にその姿が映る。やがて現れた大蛇は、酒中の影を生身の姫と信じて呑み尽くし、酔って横たわる。隙を見た尊は、十握の剣を手に襲いかかり、大蛇を斬り伏せると、その尾から宝剣・叢雲の剣が出現する。

茶壺

京都・栂尾の茶を仕入れて帰国する男が、遊女に勧められた酒に酔い、道ばたに寝込んでしまう。すっぱが目をつけ、男の荷紐の片方に肩を通し、同じく寝込んだふり。二人が茶壺をめぐって争うと、目代が登場し真の持ち主を判断しようとするが、目代の問いに対する男の答をすっぱが巧みに真似するので決着がつかず、目代は「論ずるものは中からとる」と言って茶壺を自分で持ち去ってしまう。

求塚

摂津の国・生田の里を訪れた旅僧が、若菜摘みの女たちに求塚のありかを尋ねると女たちは知らないと答え、やがて家へ帰っていくが、一人残った女は旅僧を求塚へ案内し、塚にまつわる伝説を詳しく話して聞かせる。昔、菟名日処女に恋した小竹田男子と血沼の丈夫は、同時に恋文を送る。悩んだ処女は「住み詫びぬ我が身捨ててん津の国の生田の川は名のみなりけり」の歌を残し生田川に入水。二人の男も刺し違えて死んだ。その墓がこの求塚である、と語ると女は救済を乞うて、塚の中に姿を消す。僧が弔うと夜半に菟名日処女の霊が塚の中から現れ、地獄の苦しみの数々を見せて、よろめく足取りで塚の中に消えていく。