京都の社寺巡り〔大原野・栂尾〕
先日、能「小塩」を観て久しぶりに大原野を訪れたくなり、この土日は京都へ。また、空海ゆかりの神護寺を訪れることも目的の一つとしました。
出掛けの渋谷・道玄坂の桜は満開。京都は果たして?
2016/04/02
この日は現地合流の相方の指定で、うなぎの「かねよ」で昼食。人気店と聞いていましたが、ほとんど待たされることもなく店内に入ることができ、名物のきんし丼をいただきました。
甘くないふわふわのだし巻き卵の下のうなぎは上品で、西洋人には物足りなく感じるかも?レトロな雰囲気の店内もいい感じ。
勝持寺
まず向かったのは、「花の寺」こと勝持寺です。この辺りは2009年に来ているのでざっと桜の様子を見て回る程度でしたが、花の盛りとまではいかない風情と少々暗い空に、いまひとつの印象でした。
それよりも今回は、瑠璃光殿の宝物である薬師如来像(左手の薬壷から右手で薬をつまみ取る姿が珍しい)〈重文〉、金剛力士像(同)、日光・月光菩薩像と十二神将像に深い印象を受けました。とりわけ十二神将の意匠の細やかさはなかなかのもの。翌日に神護寺で見た十二神将と共に、今回は図らずも武神拝観の旅になったようです。
大原野神社
勝持寺から徒歩15分ほどで、これも懐かしい大原野神社。在原業平が二条の后との若かりし日の恋の追憶を
大原や小塩の山も今日こそは 神代の事も思ひ出づらめ
と后に歌いかけたという神社です。
こじんまりとしていますが、簡素でいて瀟洒なこの神社の佇まいが、私は好きです。
正法寺
正法寺は庭園と水琴窟がポイント。庭の岩はいろいろな動物にたとえられているのですが、はっきり言って見た目さっぱり同定できません。しかも犬とか蛙とかなら納得できるものの、「ペンギン」や「乱れ髪」となると、何がなんだか。
御本尊の三面千手観世音菩薩を拝み、水琴窟の音を聴いて心を沈めたら、梵字花壇の近くのベンチで「出町ふたば」の大福をいただきました。これを買うために相方は、今朝一時間半も行列に並ばされたのだとか。しかし、確かにこれは美味い!特に豆の塩味と食感、皮の薄さともちもち感、餡の控えめな甘さのバランスが絶妙です。
これでこの日の社寺巡りを終えた後は、例によって市内の「百足屋」さんへ。相方は「梁山泊」へ連れて行けと言っていましたが、ミシュラン二つ星になって敷居が高いあちらより、こちらの方が寛げていいと思います(再び「出町ふたば」に1時間半並んでくれると言うのなら考えないでもないけれど)。
2016/04/03
この日は単独行動となり、前から気になっていた栂尾方面へ向かいました。京都駅前からJRバスに乗ってちょうど1時間、京都の北西の山の中にくねくねと伸びる道を走り、やがて降り立ったところが栂尾です。
高山寺・西明寺・神護寺はそれぞれ徒歩5〜10分間隔でコンパクトにまとまっていて、とても便利。
高山寺
光仁天皇の宝亀5年(774年)開創と由緒ある高山寺は、当初は神願寺都賀尾坊といい、鎌倉時代に明恵上人が出て後鳥羽上皇から「日出先照高山之寺」の勅額を賜ったのを機に高山寺と改称したそうです。
土産物屋もなく寂しい風情のバス停からすぐのところにひっそりとある参道は、裏参道。もっと賑やかな場所を想像していたので、これは意外です。
山の斜面に無理のない角度で弧を描く裏参道は、やがて斜度を落として左から来る表参道と合流します。
そこにあるのが、石水院〈国宝〉。明恵上人が後鳥羽院より学問所として賜った建物で、上人時代の唯一の遺構
とのこと。
こじんまりとしていますが、何となく好ましい雰囲気。特に庭の苔のつき具合は何とも言えません。
善財童子像が置かれた廂の間は、かつて春日・住吉明神の拝殿であったところ。
そして高山寺は国宝・重要文化財を一万点も有しているそうですが、中でも著名なのは《鳥獣人物戯画》〈国宝〉でしょう。見れば見るほど、そのダイナミックなタッチに惹きつけられます。
金堂に続く道の左手には「日本最古之茶園」がありました。鎌倉初期に栄西禅師が宋から持ち帰った茶種を明恵上人に贈り、上人が栂尾の深瀬3本木に植えたのが日本の茶の始まりということになっていて、今でも毎年天皇への献茶が続けられているのだそうです。
緩やかな参道をさらに登ると、明恵上人の坐像が納められているという開山堂(江戸時代の再建)、そして上人の御陵。
仏足石。その由来は……不明です。
なんだか寂しい金堂と、その右手に昭和56年(1981年)の明恵上人750年御遠忌の際に建てられた春日明神社。金堂の位置には本来は講堂があり、運慶作の丈六盧舍那仏等が置かれていたのですが、室町時代に焼けた後、江戸時代に御室仁和寺真光院から古御堂を移築したのがこの金堂です。そして、もともと石水院も東経堂としてこの金堂の近くにあったそうですが、明治22年(1889年)に石水院は今の位置に移設され、この樹林の中の金堂は孤独にひっそりと建っている感じになってしまいました。もっともこの周辺は鬱蒼と木に覆われて暗く湿った感じがしますから、ここにあるよりは今の石水院の位置の明るく開けた感じの方が確かに良さそうではあります。
西明寺
高山寺の表参道を下って車道を少し歩き、清滝川に向かってさらに下ったところから橋を渡ると、槇尾山西明寺です。
朱色の欄干も鮮やかな指月橋の上にピンクの桜がかかり、なにやら別世界に赴くような風情のある入り口。
参道の石段や小庭園も、ちょっと変わった雰囲気を醸し出しています。
西明寺はもともと、神護寺の別院として天長年間(824-834年)に創建されたもの。その後、荒廃と再興を繰り返して今日に至っています。
正面の本堂は、元禄13年(1700年)に桂昌院が寄進したもの。堂内には内陣の厨子の中に運慶作の本尊《釈迦如来像》〈重文〉が安置され、小柄ながら福々しいお顔とひだひだの衣が目を引きます。また、向かって右の脇陣には穏やかなお顔の《千手観音像》(平安時代)〈重文〉と眉を寄せた《愛染明王像》(鎌倉時代後期)、さらに目ヂカラの強い《空海像》も置かれていました。
100円出せば鐘を撞くことができるようになっていて、これを撞かぬ手はあるまいと100円を寄進。気持ちの良い響きでした。
指月橋近くの指月亭で早めのランチをいただいて、最後の目的地である神護寺へ向かいます。
神護寺
高雄山神護寺は、高山寺や西明寺と比べて遥かに広い境内を持ち、堂宇も数多い大寺です。和気清麻呂が平安京造営時に愛宕五坊の一つ高雄山寺として創建し、天長元年(824年)に河内の神願寺と合併して「神護国祚真言寺」と名を改めました。
そしてまた、ここは入唐2年で帰朝した空海が都に入ることを許されて最初に住した寺で、その14年間の住持の間には、最澄に対して灌頂を授けたりもしています。
清滝川を渡ったところから参道が始まりますが、この道は長く、確かに途中の茶店に寄って一息入れたくなるほどでした。
やっと見えてきた楼門をくぐると、山の中腹を開いて境内が広がっています。
右手に並ぶのは、書院と宝蔵、そして和気公霊廟。
さらに明王堂。この本尊はもと弘法大師作でしたが、平将門の乱鎮圧のために天慶3年(940年)に関東に出開帳し、そのままその地で本尊として祀られることになった(これが成田山新勝寺の興り)そう。そして一段高いところにひときわ大きい建物が金堂で、本尊《薬師如来像》〈国宝〉は右手を施無畏印、左手には薬壷。その両隣には日光(向かって右)、月光(同左)菩薩像、さらに十二神将と四天王がリアルな造形で、白っぽいながらも彩色の残ったこれら戦闘の神々はいずれも基本意匠は同じながら一人一人が精細で個性的です。十二神将と四天王は見た目大変よく似ていますが、邪鬼を踏みつけている点ではっきりと区別できました。
金堂の裏には多宝塔がそびえていましたが、先ほどの金堂とこの多宝塔は昭和になってから寄進されたものだそう。そして多宝塔の右横から登山道に入ることができ、これを息を切らしながらぐんぐん登りました。
けっこう本格的な山登りに息が切れたところで、開けた場所に出ました。ここが性仁法親王墓と文覚上人墓です。平安時代末期の怪僧・文覚は、当時堂塔の多くを焼失していた神護寺のために奔走し、後白河院の勅許と源頼朝の援助をとりつけてこの寺を復興させたのだそうです。
文覚の墓の前に立ち、そして振り返ってみると、彼方には京都盆地が見えており、京都タワーがはっきりと視認できました。なるほど文覚は、今でも都を眺め続けているのか。
境内に戻って堂宇見物の続き。まずは鐘楼、さらに五大堂。
毘沙門堂は元和9年(1623年)に楼門、五大堂、鐘楼と共に再興されたもの。そして大師堂〈重文〉は空海の住房であった「納涼房」を復興したもので、現存するものは近世初期の再建とのこと。内部の厨子に、正安4年(1302年)作の秘仏・板彫弘法大師像〈重文〉を安置します。他にこの神護寺には国宝の源頼朝像や平重盛像などがあるのですが、宝物虫払い行事として5月1〜5日でなければそれらを見ることはできないようです。
神護寺へ行ったら忘れてはならないもの、それは厄落としのかわらけ投げです。地蔵院にちょっと挨拶してから、売店でかわらけ2個100円也を買い求めて、テラスに立ちました。
売店のおばちゃんのアドバイスによれば、かわらけの凹部を下にして投げると揚力が得られやすいのだとか。で、投げた結果はこれ。どちらに飛んでいくかはかわらけに聞いてくれ!という感じです。
以上で、今回の旅はおしまいです。次に京都を訪れる日は、いつになるでしょうか。