東関東の社寺巡り〔鹿島神宮・香取神宮〕

最初に白状すると、この旅は「あんこう鍋を食べに行こう!」が先にあり、その後に「帰り道に鹿島神宮と香取神宮にも立ち寄れるのでは?」となったものです。二社の神様、申し訳ありません。

2017/02/18

常磐神社

JR常磐線の特急で水戸へ向かうと、この日は臨時駅である「偕楽園駅」が運用されており、それならと水戸の一駅手前で列車を降りました。改札口では駅員さんが特急券と乗車券を確認し、水戸まで買っていた乗客にはこの駅から水戸駅まで乗れる切符を配ってくれています。ありがたし。

実はきちんと把握していなかったのですが、この日が偕楽園の梅まつりの始まりの日。大変ラッキーでした。駅を出てすぐ目の前の石段を登ると、出店がひしめく参道の先に社殿を構えているのが常磐神社です。祭神は「高譲味道根命」と「押健男国之御楯命」となっていますが、何のことはない、前者は水戸藩第二代藩主徳川光圀(義公)、後者は第9代藩主徳川斉昭(烈公)のことで、明治になってからの創建です。

社殿に参拝してふと横を見ると、清酒の菰樽には「酒は天下の副将軍」。しかし絵柄は、越後のちりめん問屋の隠居風。

右手を見ると、おっ、あれは能舞台ではないか。近寄ってみると雛人形が飾られていました。

境内の右奥にはお稲荷さま。その入り口では、なぜかアウディがぞろぞろ展示されています。

こちらは適当に切り上げて、偕楽園の東門に入りました。空はあいにくのどんよりですが、覗いてみるとそこそこの賑わいである模様。

偕楽園

偕楽園は、水戸徳川藩第9代藩主徳川斉昭(烈公1800〜1860)が自ら造園構想を練り、創設したもので、特に好文亭については斉昭がその位置や建設意匠を定めたと言われています。

(中略)

偕楽園の名称は、中国の古典である『孟子』の「古の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節からとったもので、「偕楽園記」では「是れ余(斉昭)が衆と楽しみを同じくするの意なり」と、述べています。

〔偕楽園ウェブサイトから引用〕

この日の偕楽園の梅は、100品種3,000本中1,165本(約44%)が開花中。正直に言えばまだすかすか感があるのと、空がどんより曇っているために、寒々しい感じは否めません。まあ梅まつり初日だから仕方ないかな。

それでもところによっては見事に満開の花をつけている木もあって、そうしたところでは思わず接写を重ねてしまいます。なかでも「白難波」「虎の尾」「月影」「江南所無」といった品種の梅は銘木ということになっているようですが、それにしても、中には幹の中身がなくなって樹皮だけで木の形を保っているようなものもありますが、それでもしっかり花を咲かせるのですから梅の木の生命力は不思議なものです。

梅林の中をあちらこちらへとひとしきり見て回ったら、一の木戸から孟宗竹林へ。この竹は、偕楽園開園の翌年に京都の嵯峨から持ち込んだものだそう。小さな竹林ですが、捻じ曲がった樹勢の梅に対して真っすぐ天を目指す竹のすっきりしたさまには、清々しい気持ちにさせられます。

高台にある偕楽園から少し下ったところに湧き出しているのが、こちらの吐玉泉。夏なお冷たく、玉のような澄んだ水をたゆまなく吐くというのでこの名前になっていて、白い大理石(寒水石)の井筒は侵食が進めば取り替えられ、今の井筒は四代目であるそう。

吐玉泉の脇には立派な太郎杉、その手前には根元だけになってしまった次郎杉。かつては五郎杉まであったそうです。

偕楽園の中に烈公が建てた好文亭は、詩歌管弦により家中の人々と共に心身の休養を図るための施設。「好文」は梅の異名で、晋の武帝の故事「文を好めば則ち梅開き、学を廃すれば則ち梅開かず」によるものです。

2層3階の好文亭と北側の奥御殿からなる建物の中は外観に似合わず広さがあり、さまざまな襖絵が実に見事です。好文亭3階の楽寿楼からの眺めは広闊で素晴らしいものでしたが、滑車を使った配膳用の小さなエレベーターのアイデアにはいたく感心しました。また、烈公は90歳まで達した庶民もここに招いてその長命を寿いだそうで、民を大切にしたその人柄が偲ばれます。

梅はまだまだだったものの、その歴史なども含めて偕楽園を楽しんだ後は、水戸へ移動です。

水戸駅の外で観光客を迎えてくださる、水戸黄門と助さん・格さん。大変に凛々しいお姿ですが、残念ながら三つ葉葵の印籠はありませんでした。

弘道館

水戸駅から坂道を登って徒歩20分ほどで、水戸武士の錬成場である弘道館に着きました。

水戸城の三ノ丸にあった弘道館は、徳川斉昭が偕楽園とほぼ同時期の天保12年(1841年)4月に開設した藩校で、大政奉還後の徳川慶喜がここで謹慎したことでも知られています。今は正庁を中心とする一角が弘道館公園として整備されていますが、往時はその数倍の規模がありました。しかし、明治維新時の戦闘で多くの建物を失ってしまったそうです。

全般的に質実剛健な造りながら、要所に凝った意匠あり。お風呂の構造も機能性が目を引きますが、この広さは一度に大勢入ったのでしょうか?湯釜がないので他処で沸かした湯を持ち込んだのかな?

正庁の奥の至善堂には、大政奉還後当地にて謹慎中の徳川慶喜が使用した長持ち。さらに徳川光圀の命により明暦3年(1657年)に編纂に着手された『大日本史』も見ることができました。397巻+目録5巻=合計402巻の『大日本史』が完成したのは、なんと明治39年(1906年)だそう。弘道館ではこのうち243巻を所蔵しています。

弘道館の庭の梅も見事です。こちらは60品種800本中322本(約52%)が開花中とのこと。

広さでは及ばないものの、こちらの方が「咲いてる」感が感じられます。ただし名木「烈公梅」はまだ咲き始め。

正庁を含む一角の外に出て、かつて文館が建っていた梅林の横の道を奥へ進み裏手に回ると孔子廟がありますが、中には入れません。

大樹の陰には要石の歌碑。斉昭の自筆で「行末もふみなたがへそ蜻島あきつしま 大和の道ぞ要なりける」と彫られています。

八卦堂の中には寒山石に弘道館建学の思想を斉昭の書及び篆額で記す弘道館記碑があって、ここが弘道館全体の中心に位置していたそうですが、八卦堂は公開されていません。ただし、弘道館記碑の拓本が正庁の床の間に掲げられていました。また、その近くの鹿島神社は安政4年(1857年)に鹿島神宮から分霊を勧請して祀ったもので、このとき同時に弘道館の本開館式が挙行されたそう。現在の建物は、昭和49年(1974年)の伊勢神宮式年遷宮のときに風日折宮の旧殿一式を譲り受けたもので、伊勢神宮独特の様式である唯一神明造りとなっています。

たまたま近くで行われていたひょうたんランプの展示会を覗いてみたところ、これは見事!本来の見どころではなかったのですが、見る価値ありでした。

さあ、本日のメインイベント(?)であるあんこう鍋を目指して那珂湊へGO!

ローカル色満載のひたちなか海浜鉄道で那珂湊駅に降りると、駅名標には反射炉・ステンレス製気動車「ケハ601」・駅ネコのイラスト。この路線は各駅ごとの駅名標にその土地に因んだイラストが描かれていて楽しめます。

今宵のお献立は上記の通り。前菜のあん肝とあんこうの供酢が絶品のおいしさでした。

この宿はワインにも定評があり、あんこう鍋にあうという触れ込みのヴィラ・マウント・エデン・シャルドネをいただきました。

あんこうの七つ道具というえら・白身・あん肝・ほほ肉・胃・皮・卵巣が鍋の中で渾然一体となって、すこぶる美味。最後はおじやで締めて、幸福な一夜は更けていきました。

2017/02/19

さて、あんこう鍋を食べてしまえば後は本来の信仰心を取り戻して、社寺巡りに勤しむことになります。那珂湊から水戸に戻ったのでは時間のロスが大きいので、タクシーを呼んで那珂川を越え、大洗駅から臨海大洗鹿島線に乗って鹿島神宮を目指しました。

鹿島神宮

周囲を低い台地に囲まれた谷底にある鹿島神宮駅の駅前はずいぶんと殺風景で、神宮に向かっては緩やかに坂道を登っていくことになります。

坂の途中には鹿島新当流の剣聖・塚原卜伝(足利義輝の剣術指南)の像、そして台地の上に達すると福々しい布袋さまがいて、そこが参道でした。

途中の小さな龍神社にお参りして気持ちを改めてから、いよいよ鹿島神宮へ。平安時代から明治になるまで、「神宮」と呼ばれたのは伊勢神宮(内宮)、鹿島神宮、香取神宮の三社のみであったそうですから、その格式の高さがわかります。

鹿島神宮御創建の歴史は初代神武天皇の御代にさかのぼります。神武天皇はその御東征の半ばにおいて思わぬ窮地に陥られましたが、武甕槌大神の「韴霊剣」の神威により救われました。この神恩に感謝された天皇は御即位の年、皇紀元年に大神をこの地に勅祭されたと伝えられています。その後、古くは東国遠征の拠点として重要な祭祀が行われ、やがて奈良、平安の頃には国の守護神として篤く信仰されるようになり、また奉幣使が頻繁に派遣されました。さらに、20年に一度社殿を建て替える造営遷宮も行われました。そして中世〜近世になると、源頼朝、徳川家康など武将の尊崇を集め、武神として仰がれるようになります。

〔鹿島神宮ウェブサイトから引用〕

杉の大鳥居をくぐって参道を進み、手水舎で手と口を浄めてから、赤く豪壮な楼門〈重文〉をくぐって境内へ。この楼門は、寛永11年(1634年)に初代水戸藩主・徳川頼房の命により造営されたものです。

参道は森の奥へと真っすぐ東に向かって続いていますが、まずはすぐ左手にある社務所に立ち寄って、御朱印をいただきました。

振り返って南を向くと奥に見えるのは拝殿ですが、その手前左にあるのは本殿造営の際に一時的に神霊を安置する仮殿〈重文〉。

さらにその前には小さな摂社・高房社があって、本殿参拝の前にこちらに詣でるのが古例なのであると自己主張していました。

こちらが拝殿〈重文〉。参道が西から東に進んでいるのに拝殿がそこに南から接して北に面しているのが独特ですが、一説によればこれは北方の蝦夷を意識したものだそうです。

拝殿の後ろ、弊殿・石の間をはさんで本殿〈重文〉。これらはいずれも元和5年(1619年)に徳川秀忠の命による造営です。主祭神である武甕槌大神は、天照大御神の命を受けて香取神宮の御祭神である経津主大神と共に出雲の国に天降り、大国主命と話し合って国譲りの交渉を成就したとされています。さらに本殿の背後には樹齢1000年の杉の御神木が聳えていました。

東神門を通って、参道はさらに東に向かいます。鬱蒼とした森はこの地の歴史を物語るようですが、その左には正体不明のさざれ石と、日向ぼっこをしていてやる気がなさそうな鹿たちがたむろする鹿園がありました。

鹿は鹿島神宮のお使い。もとを正せば天照大神から武甕槌大神への連絡役である天迦久神が鹿の神霊であることに由来するのですが、藤原氏は神護景曇元年(767年)に氏神である鹿島の神の分霊を得て神鹿の背に乗せ、1年がかりで奈良に運んで春日大社を創建したとのこと。現在の鹿島の神鹿は、かつてここから奈良に渡った鹿の系統を受け継いでいるそうです。

鹿園の少し先、参道の行き着く先にやはり北面して建つのが奥宮〈重文〉ですが、これは元来、慶長10年(1605年)に徳川家康が奉納した本殿で、今の本殿が建てられたときに移設されたものです。現在の本殿の華麗さはありませんが、奥宮の名にふさわしい深い趣きがあります。

奥殿の先、森の中を南にしばらく進んだところにあるのが、こちらの要石です。地上に出ているのはアンパン大の小さな石で、頂上部は凹状になっていますが、地下の広がりは不明。かつて水戸光圀が命じて掘り出そうとしたものの、七日七晩かかっても掘りきれなかったという逸話と、この石と香取神宮の要石とが地震を起こす地中の大鯰を押さえつけているという伝承があります。

要石から奥殿まで戻って、今度は反対に北側へ台地を下っていくと、滾々と湧き出す水を貯めた御手洗池がありました。

今は拝殿・本殿の西から参道を進んで境内に入っていますが、かつては一の鳥居がある西の大船津からここまで舟で入り、御手洗池で潔斎をしてから神宮に参拝したそう。

ひとしきり参拝を終え、国宝の「直刀」金銅黒漆塗平文拵附刀唐櫃(大きい!)を拝観してから神宮を後にしようとしたとき、大鳥居の周囲に人が集まっているところに出くわしました。これは何?と思いましたが、地区の竹山から選ばれ注連縄を掛けて守られてきた大豊竹だいほうだけが、この日、拝殿前に奉納されるところでした。この竹は3月9日の祭頭祭の最後に敷石に叩きつけられて粉々にされます。

大豊竹奉納の最後に大福が配られてその場に居合わせた人が殺到するのに揉みくちゃにされながら二個ゲット。続いて香取神宮へ移動です。

香取神宮

佐原駅からタクシーに乗って10分ほどで参道に達しました。途中のレトロな街並みに観光客がたむろしているのを見て「?」と思ったら、佐倉、成田、香取、銚子の町並みは日本遺産に認定され「北総四都市江戸紀行」を名乗っているのだそうです。

本来の参道は、利根川に面した川岸に立つ浜鳥居から始まるそう。その理由は、次の記述を読むと自然に理解できます。

香取神宮は、常陸国一宮の鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)と古来深い関係にあり、「鹿島・香取」と並び称される一対の存在にある。
鹿島・香取両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社である。その神威の背景は、両神宮が軍神として信仰されたことにある。古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に「香取海(かとりのうみ)」という内海が広がっており、両神宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座する。この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており、両神宮はその拠点とされ、両神宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた。

〔Wikipediaから引用〕

このように、かつて香取神宮と鹿島神宮は香取海の入り口の両岸にあり、ことに香取神宮はこの地に発達した水運を掌握する神社であったとされています。ちなみに、鹿島神宮も香取神宮も標高20〜40mの台地の上に立っていますが、この大地は約20万年ほど前の洪積世中期における古東京湾に堆積した浅海底が陸化した成田層群の上に古富士山の火山灰が積もったものです。

賑やかな参道は緩やかにカーブを描きながら高さを上げていき、その両側には石灯籠が立ち並んで壮観です。

参道を奥に進んで丹塗りの総門をくぐると手水舎がありますが、先ほどからファンキーなまでにカラフルな出で立ちの人たちが目についていました。

さらに立派な楼門の前にもカラフル集団が渦を巻いています。今度は何?

実はこれは、鹿島の祭頭祭の廻り祭頭でした。今年の右方の当番地区の新発意(大総督)の出身が香取である縁で、香取神宮での演舞となったようです。カラフルな衣装の人たちが囃し歩くのはいいのですが、代官風の衣装が両手を広げて「やー」と境内に走り込んでくるのはなんだか不思議、というか笑えてしまいます。

演舞が終わって境内が静かになったところで、拝殿に詣でました。漆黒と金とのコントラストが鮮やかで、小ぶりながらも美しい拝殿には心打たれるものがあります。現在の社殿は元禄13年(1700年)、丹塗りの楼門と共に徳川綱吉の造営です。

ここでも御朱印をいただいた後で拝殿の右側から裏手に回ると、本殿の千木が高く反り上がっています。屋根のカーブも美しい……。

本殿の裏には摂社鹿島新宮と末社桜大刀自神社。

さらに本殿を左手に見ながらぐるりと回ると、摂社匝瑳神社、三本杉。他にも末社の数々が境内の中にまとまっており、コンパクトな中にも神様の濃さ(変な表現ですが)を感じます。さらに神饌所の横には、海上自衛隊の練習艦「かとり」(1998年退役)の錨が奉納されていました。

改めて拝殿の正面に回ると、立派な御神木が目につきました。

こちらも樹齢1000年を超えるという杉の大木です。先ほどまでの喧騒が嘘のように落ち着いた境内の雰囲気にひとしきり浸ってから、元来た道を下りました。

参道の途中から右に折れて細い道を登ると、戦後に建立された護国神社。戦争で亡くなった地域の人々の御霊を祀っているそうです。また末社押手神社の目の前に、こちらは凸状の要石がありました。鹿島神宮とこちらと、どちらが鯰の頭を押さえどちらが尻尾を押さえているのか?

そして最後に、奥宮へ足を運びました。こちらは経津主大神の荒御魂を祀るもの。社殿は昭和48年(1973年)の伊勢神宮御遷宮の古材を用いているのだそうです。

多少不純な(?)動機から始まった旅でしたが、やはり鹿島・香取両神宮は参拝した甲斐がありました。両神宮が朝廷の東国経営の拠点として重要な役割を担っていたことはこの旅を通じて初めて知りましたが、今まで見過ごしがちであった東関東の地にも長く豊かな歴史があったことに深い感銘を受けました。

ところで、この日は時間がありませんでしたが、鹿島神宮・香取神宮と息栖神社は「東国三社」としてセットにされ、三社参りは今でも行われているそうです。次にこの方面に足を運ぶとすれば息栖神社への参拝は欠かせませんし、その際にはまた常陸の海の幸を堪能したいものです(結局それか……)。