大般若 / 賀茂
2017/05/19
国立能楽堂(千駄ヶ谷)の定例公演で、狂言「大般若」と能「賀茂」。
能楽堂の前庭のつつじは、今が盛りでした。
大般若
この後の能が上賀茂・下鴨両社の神徳を描く「賀茂」なので、狂言は神子の神楽をモチーフに含むこの曲。
まず朱色の小袖の上に白水衣を着て平元結をかけた蔓をつけたアド/神子(高野和憲師)と長裃姿の小アド/施主(野村万作師)が登場。晦日払いの神楽を上げに神子が施主を訪ねるところから舞台が始まります。施主の家に請じ入れられた神子が供物の準備を待っていると、今度は墨染の衣に紫の袈裟を掛け角頭巾を戴いたシテ/住持(野村萬斎師)が登場し、そのシテの〈名ノリ〉が始まると共に笛・小鼓も入って所定の位置につきました。信心深い施主は毎月神子の神楽と僧の祈祷をあげてもらっていたようですが、僧の方は少々俗っぽく、ある家で大般若経を転読し重病人を治したことでたくさんお礼をもらったことを自慢します。
やがて僧は祈祷を始めるのですが、この祈祷が抱腹絶倒。扇を背に差し数珠を揉んで、大きな経本折りの大般若経を掲げ経文を唱えながらざらざらと飛ばしてみせるのですが、あの野村萬斎師が「だ〜い〜般若波羅蜜多経〜、うじゃらうじゃらうじゃら……」と抑揚をつけて唱えるのでかなり怪しげに見えてしまいます。一方の神子も、施主の求めに応じて囃子方をバックに鈴を鳴らしながら神楽を始めましたが、この〔神楽〕は三番叟の鈴之段を模したもの。始めは穏やかにリズムを刻んでいましたが徐々に高揚し、ついにドン!と足拍子を踏んだところで僧はびっくり。負けてはならじといっそう声を張り上げて大般若経の転読を続けましたが、たびたび〔神楽〕に邪魔されてはムキになって経を読むことを繰り返すうちにとうとうキレてしまい、神楽が一段落したところで施主に〔神楽〕をやめさせろとクレームをつけました。ところが神子は、仏道と神道は別物、鈴の音に紛れて読めぬお経なら読むなと反論して、ここから僧と神子の論争の間に施主が板挟みとなっておろおろするという構図になります。僧が大般若経は名経であると誇れば、神子は天岩戸の故事を引いて〔神楽〕をやめることなどできぬと一歩も引きません。結局僧と神子はそれぞれに読経と神楽を再開したのですが、鈴を振って迫り来る神楽の迫力にびくついた僧は、読経の声を止めては角、脇座、常座と位置を変え、ついには一ノ松まで逃れます。神子の方も我関せずと見えていたのに、いつの間にか僧を追って常座から一ノ松を見据えているところがおかしいのですが、ふと僧の表情が変わり、一ノ松から「これは面白そうな」。つい引き込まれて神子の後ろにつきどんどんと足拍子を踏んでは高笑いをして「それよそれよ」と喜んでいたところ、ついに神子は「えーい!腹立ちや腹立ちや」とキレ、「許してくれい許してくれい」と謝りながら追い込まれました。
大仰に抑揚をつけて「うじゃらうじゃら」と大般若経を飛ばしながら転読する僧のコミカルさもさることながら、朗々たる祝詞と囃子方を従えた神楽は神子の言葉の通り天鈿女命が降臨したかのようなダイナミックさに満ち、賑々しくも楽しい一曲でした。
賀茂
舞台上に白羽の矢が垂直に立つ矢立台が持ち込まれて正先に置かれ、力強い囃子で〔真ノ次第〕が奏されると、紺と朱の狩衣に白大口の大臣出立のワキ/室明神の神職(則久英志師)とワキツレ/従者二人が登場して地謡と共に清き水上尋ねてや、賀茂の宮路に参らん
の三遍返シ(〈次第〉→地取→〈次第〉)。ここからワキの〈名ノリ〉ですが、室明神は播磨の室津の賀茂神社で、その縁で京都の賀茂神社に参詣しに来たのでした。そしてワキツレとの道行となりますが、その謡は実に音圧強く、そしてきびきびとした印象。大小の鼓も打音高く、脇能の祝祭性を強調するようです。〈着キゼリフ〉と共にワキは矢立台を認め、人が来たら謂れを尋ねてみようと語って脇座につきました。
ついで重々しい〔真ノ一声〕となり、前ツレ/里女(観世淳夫師)と前シテ/里女(片山九郎右衛門師)が登場しました。小柄な前ツレは小面(近江作)を掛け明るい紅入唐織着流出立、すらりとした前シテの面は増で同じく紅入唐織ながら文様に黒が目立ち暗く深みのある印象で、どちらも手に水桶を提げています。橋掛リ上で向き合っての〈一セイ〉御手洗や、清き心に澄む水の、賀茂の河原に出づるなり
に続いて、糺ノ森に水汲む様子が風も涼しき夕波に声も涼しき夏陰や
などと聞くだに涼やかな情景描写と共に謡われました。シテの片山九郎右衛門師の謡は囃子方の音圧をものともせずよく通り、またツレの観世淳夫師の声はまだ声質が定まっていなかった数年前に比べると格段に安定しています。その間に舞台に進んだシテとシテツレに対しワキが呼び掛けて、ここから白羽の矢の謂れについての問答となりました。ワキの問いに応じてシテが語ったその謂れとは、賀茂の里に住んでいた秦の氏女が神前に捧げる水を汲んでいると、川上から白羽の矢が流れてきて桶に当たって止まったのでこれを持ち帰ったところ、氏女は懐妊して男子を出産した。三歳になったときに人から父を尋ねられたその子が白羽の矢を指さすと、矢は雷となり、その子も神となって天へ上がっていった。その神となった子が上賀茂神社の祭神である別雷神であり、氏女も下鴨神社の祭神となった賀茂御祖神になった、というもの。
しばしの問答の後、白川、賀茂川、瀬見の小川、貴船川、大堰川(戸無瀬)、清瀧川、音羽の滝……とたゆたうように美しく続く洛中の川尽くしの謡の中でシテは舞台を巡り、白羽の矢の前に下居して神の御心汲まうよ
と合掌。すっかり感心したワキがシテに名を問うと、シテはぐっと気を入れ、神徳を告げ知らせようと現われ出たのであるが、姿を現しては浅ましい、名ばかりは白真弓の、やごとなき神ぞかし
と明かします。立ち去りかけたシテが一度ワキを振り返り見たところで、木綿四手に立ち紛れて
から囃子方が急な調子となり、シテは素早く回転して神隠れとなったことを示しました。
中入となって橋掛リを下がりかけたシテは一ノ松でしばらく静止し、そこに何とも言えない神秘的な空気を漂わせていましたが、やがて〔来序〕の囃子と共にシテとツレがゆっくり下がると、ニコニコ顔の面を掛けたアイ/末社の神(石田幸雄師)が現れ、賀茂明神の縁起を語った後、扇を手に穏やかな囃子に乗ってめでたかりける時とかや
と三段之舞をめでたく舞いました。
ここで作リ物は片付けられ、ついで〔出端〕の囃子に導かれて登場したのは後ツレ/天女。面は引き続き小面ですが、月輪の立て物に瓔珞をきらきらと垂らした天冠を戴き鮮やかな橙色の舞衣に黄大口で、実に華やかです。天女は御祖神であると名乗ると軽やかな囃子に乗って天女之舞を舞い始めましたが、優美というのとは少し違う親しみやすさを感じる舞で、これはツレの体型のせいかも?やがて舞い終えたツレが賀茂の山並み御手洗の影、うつり映ろふ緑の袖を、水に浸して涼みとる
と脇正で扇で水をすくう型を見せたところで突如山河草木動揺
。常座に立ったツレが扇を掲げてシテを迎える型を示すうちに囃子は早笛となり、大小の鼓とその掛け声が咆哮を始めます。そして現れた後シテ/別雷神は唐冠を戴き、面は勇壮な怒天神。法被半切が神々しく輝いていますが、小書《素働》により雷を象徴した金の切り紙が赤頭から垂れていて雷神としての荒々しい性格が強調されています。我はこれ、王城を守る君臣の道、別雷の神なり
と力強く名乗ったシテは足拍子をドン!さらに素働しらばたらきとなって、足拍子と大鼓のユニゾンによる雷鳴が何度も轟き、宙を舞うが如くの高速回転。風雨を自在に操るさまを謳いながら舞台を巡り、御幣を振るって見所を威圧します。キリに入ってもシテは詞章ほろほろとどろとどろと踏み轟かす
に合わせて渾身の足拍子を続け、さらには飛び返りを見せて威光を顕したところで、まずツレが糺の森に飛び去り
と下がっていき、ついでシテも天路によぢ上つて
と高速で橋掛リを下がって、最後に虚空に上がらせ給ひけり
と幕前で袖を返して留拍子を踏みました。
金春禅竹作の脇能で、季節は晩夏。前場の清浄な白羽の矢と里女たちによって語られる瑞々しい森と水のイメージには、20年以上前に京都に住んでいた頃のとある夏の日に出町柳から歩いた糺ノ森の秘めやかさを思い出しました。また、後場の煌びやかな天女の舞に続き豪快無比の別雷神の働事を通じて轟く雷鳴からは時も到れば五穀成就
とキリの詞章にある通り来るべき秋の豊饒の予感が立ち上り、この前場と後場の鮮やかな対比と一貫した聖性とが印象的です。
この日はまだ立夏から半月ほどのタイミングでしたが、それでもこの能を観たことで今年が実り多き年になりそうに思えてきました。また、観能を終えて能楽堂をあとにする他の人々も皆、別雷神に力をもらったという顔をしていたような気がします。
配役
狂言和泉流 | 大般若 | シテ/住持 | : | 野村萬斎 |
アド/神子 | : | 高野和憲 | ||
小アド/施主 | : | 野村万作 | ||
笛 | : | 杉市和 | ||
小鼓 | : | 後藤嘉津幸 | ||
能観世流 | 賀茂 素働 |
前シテ/里女 | : | 片山九郎右衛門 |
後シテ/別雷神 | ||||
前ツレ/里女 | : | 観世淳夫 | ||
後ツレ/天女 | ||||
ワキ/室明神の神職 | : | 則久英志 | ||
ワキツレ/従者 | : | 舘田善博 | ||
ワキツレ/従者 | : | 野口能弘 | ||
アイ/末社の神 | : | 石田幸雄 | ||
笛 | : | 杉市和 | ||
小鼓 | : | 後藤嘉津幸 | ||
大鼓 | : | 亀井広忠 | ||
太鼓 | : | 小寺真佐人 | ||
主後見 | : | 観世銕之丞 | ||
地頭 | : | 山崎正道 |
あらすじ
大般若
神子が施主の家で晦日払いの神楽を上げに参った同じ日、住持もまた大般若経をもって祈祷をしに施主の家を訪れる。住持が経典の転読を始めると神子も〔神楽〕を上げ舞い始め、それが耳に障った住持は施主を通じて神楽をやめさせようとするが、神子はやめようとしない。結局それぞれに読経と神楽を続けるが、住持は神楽の面白さについ引き込まれて神楽の舞の真似を始めてしまい、怒った神子に追い出される。
賀茂
室明神の神職が都の賀茂社に参詣すると、御手洗川で汲んだ水を白羽の矢を立てた壇に捧げる里女に出会う。女は、矢が別雷神のご神体で、神を産んだ秦氏女が御祖神となった謂われを語ると姿を消してしまう。やがて、天女姿の御祖神が現れて舞を見せると、つづいて別雷神が出現し、風雨を操って五穀豊穣を守護する有様を見せた後、御祖神は糺の森へ、別雷神は虚空へと帰っていく。