吉野の社寺巡り
2017/05/15
のんびり朝風呂につかってからの朝食は、道路を挟んで向かいのカフェで。窓の外には穏やかな山並みの眺めが広がり、実に贅沢な朝でした。吉野に来るのはこれが4度目ですが、前回ここに来てから既に20年たっているので既視感はあまりありません。
吉野の歴史も飛鳥と同様に古いものですが、思い付くだけでも、大海人皇子(壬申の乱)、西行、源義経、後醍醐天皇、豊臣秀吉など歴史上の著名人の事跡がありますし、浄瑠璃「義経千本桜」を通じて心理的に身近な場所でもあります。また、これは今のところ計画にとどまっていますが、いずれは吉野から熊野に向かって大峯奥駈道を縦走(逆峯)してみたいと研究中です。
さて、吉野の社寺は図のように山上ヶ岳へ向かう尾根の上に展開しており、左上(南)の奥千本から右下(北)の下千本まで大きく下っているので、まずはバスで奥千本に行って西行庵などに詣でてから、元来た道をゆっくり歩いて下るのがベターです。
金峯神社 / 西行庵
お世話になった宿を出て橋を渡り、動いていないロープウェイの山上駅の前からバスに乗りました。平日とあってお客は数人。バスは上り坂をものともせず奥千本へと向かいます。
バスの終点からすぐに金峯神社の鳥居をくぐり、傾斜のある参道を登って境内に入りましたが、まずは西行庵を目指すことにしました。20年前の道はここから西行庵までの往復だったと思うのですが、案内板を見ると周遊するようになっています。湿って滑りやすい石段をしばらく登り、やがて尾根の左手の斜面の細い道(桜の季節は大変そう!)を下ると、そこに西行庵がありました。
記憶の中の姿と寸分違わぬ様子でひっそりと立つ西行庵。西行はここで隠遁生活を送ったとされており、手元の年表によればそれは待賢門院が亡くなった翌年、西行29歳(1146年)から高野山に入山するまでの3年間とされていますが、本当にここに住んでいたかどうかはよくわかりません。
西行については一時期集中的に勉強したことがありますが、西行と吉野と言えば、それは当然桜のイメージです。しかしこの日は桜はすっかり終わり、そのために訪れる人もない山の中の台地を彩るのは赤いツツジでした。
山腹の道を歩けば、谷筋に突き当たるところには苔清水。竹の樋を通って清水がとくとくと流れ落ちていました。
とくとくと落つる岩間の苔清水 くみほすほどもなき住居かな (西行?)
露とくとくこころみに浮き世すすがばや (芭蕉)
苔清水の前を通ってさらに等高線に沿った道を歩くと、やはり尾根上の台地になった場所があって、そこは「四方正面堂跡」でした。ここにこういうところがあったとは、今回初めて知ったことです。さらに……。
斜面を登りながら進むと斜面に「安禅寺蔵王堂跡」、そして山上ヶ岳へ続く道が通る顕著な尾根上には報恩大師が建立した「安禅寺宝塔院跡」と伝えられる場所もありました。これまで、西行庵はずいぶん奥深い隔絶されたところにぽつんと建っていたと思っていたのですが、どうやら周囲の尾根や斜面には安禅寺という寺院があり、西行庵はせいぜいその「離れ」程度の位置であったようです。では安禅寺はどうなってしまったのか?「安禅寺宝塔院跡」にあった解説によれば、明治の廃仏毀釈の中で廃寺になってしまったとのこと。現在、金峯山寺蔵王堂に客仏としておわす《木造蔵王権現立像》〈重文〉も、もと安禅寺の蔵王堂に本尊として祀られていたものだそうです。そして、この日の吉野巡りの中でこのあとたびたび、廃仏毀釈の爪痕を見ることになりました。
ぐるりと戻ってきて金峯神社。創建の経緯は不明ながら、吉野山の地主神である金山毘古命を祀る古社で、藤原道長もここに参詣したことが記録に残っています。金峯山とはこの辺りから大峰山にかけての名称で、金峯は黄金浄土であるという仏教説話から、この辺りの地下に金鉱脈があると信じられていたと言うことです。
石段の上に古びた拝殿がありますが、装飾めいたものは一切なく、大変鄙びた風情です。この左手の斜面を少し下ったところに源義経が隠れた義経隠れ塔(追っ手から逃れるため屋根を蹴破って逃れたことから「蹴抜けの塔」とも)が、これまたひっそりと建っていました。
金峯神社を辞して尾根道を歩いて下る途中、高城山展望休憩所という小ピークに立ち寄りました。ここは大塔宮護良親王が北条方と戦った砦の一つであるツツジが城の跡で、蔵王堂を見下ろすことができるという触れ込みだったので坂道をえっちら登ったのですが、展望台に立ってみると目の前の木が繁り過ぎていて蔵王堂はちらとも見えません。その代わり、奈良盆地の向こうに金剛山、葛城山、そして二上山が連なっているのを見ることができて、これはこれで収穫でした。
さらに下っていくと「牛頭天王社跡」が道の左側にありました。これはツツジが城の鎮守として創立されたものでしたが、やはり廃仏毀釈で廃絶されたとのこと。
吉野水分神社
金峯神社から、途中の展望台への立ち寄りも入れて30分ほど下ったところに、これも懐かしい吉野水分神社がありました。
創建の由来はやはり不明ですが、『続日本紀』に文武天皇2年(698年)の記事があると言います。もとはいくつもの川の源流を集める青根ヶ峰にあった水配りの神・天之水分大神を祀る神社を大同元年(806年)に現在の場所に遷座したもの。みくまりが訛ってみこもり→子守宮=子授けの神としても信仰を集め、豊臣秀吉がここに詣でて秀頼を授かったという言い伝えがあります。
立派な楼門をくぐると、このこじんまりとした中庭を社殿〈重文〉が囲んでいます。このまとまり感が私は大好きなのですが、これらは慶長10年(1605年)に豊臣秀頼によって創建されたもので、右の三つの破風を並べるのが本殿、奥が幣殿、その左の軒先が見えているのが拝殿です。ここを訪れたとき、ちょうど拝殿では神主さんが正装して祈禱をあげており、スーツ姿の男性たちが神妙な面持ちで正座していましたが、仕事が終わったあとにいったん引っ込んだ神主さんが再び顔を出したらラフな普段着姿になっていたのにはショックを受けました(笑)。
水分神社から少し下ったところにあるのは、花矢倉展望台です。こちらの展望台は正真正銘、中千本から蔵王堂にかけて一望することができましたが、この展望台がある広場もかつては世尊寺の境内で、明治8年(1875年)に廃寺とされた跡。本尊の木造釈迦如来立像は蔵王堂に引き取られ、石灯籠が水分神社前に移され、そしてこの地には吉野三郎と呼ばれる釣鐘(現在のものは1245年鋳造)がコンクリート造の檻のような鐘堂の中に残されているだけでした。
眼下に蔵王堂を見下ろすジグザグの獅子尾坂道を下ると「横川の覚範の首塚」がありました。義経追討の院宣を受けて源義経を捕縛すべく攻め上ってきた横川覚範を、佐藤忠信が花矢倉から矢を射かけて討ちとり、その首を埋めたところとされています。なお、文楽「義経千本桜」の中では横川覚範は「実は能登守教経」という役柄で登場し、佐藤忠信と激しく戦うのですが、その覚範の見せ場は五段目で、残念ながらこの段はまだ観たことがありません。
勝手神社 / 𠮷水神社
竹林院や櫻本坊、善福寺、喜蔵院といった寺院の間を抜けるように道を下って、下り着いたところにあるのが勝手神社です。青根ヶ峰の山頂に近く金峯神社(奥千本)、中腹に吉野水分神社(上千本)、そして入り口に当たるのがこの勝手神社(中千本)ということになります。源義経と別れた静御前が法師たちに捕らえられ、この社殿の前で法楽の舞を舞って法師たちを感嘆させたという言い伝えもある由緒正しい神社です。
ところが、その本殿は2001年に不審火で焼失してしまい、無残な跡を残すばかり。御神体は𠮷水神社へ遷座しておられました。どうしてそんなことに……。
というわけで、昼食をとってから次は𠮷水神社ですが、ここは実に見応えがありました。
メインストリートをちょっと外れていったん坂道を下ってから登り返したところにあるこの𠮷水神社の入り口近くにあるのが、一目千本と言われる展望地で、ここから中千本の桜が一望できるそうです。
右手が拝殿、奥が御所造の書院〈重文〉。それにしても神社っぽくないのは、もともとここは役行者ゆかりと言われる修験の僧坊・𠮷水院だったからで、明治に入ってから後醍醐天皇を祀るのに仏式では障りがあるだろうということから明治8年(1875年)に神社に転換されたという経緯を辿ったからです。伝説の役行者はさておくとしても、ここには源義経主従が隠れ住み、後醍醐天皇が行宮とし、そして豊臣秀吉が豪勢な花見の宴を催したときの本陣としたという歴史があり、それぞれに所縁の品が残されています。
こちらは書院の中、源義経潜居の間(ただし室町初期の改築)。武人らしく簡素な雰囲気です。
こちらは後醍醐天皇玉座の間。上段五畳、下段十畳からなる桃山時代の様式=帳台構ちょうだいがまえで、屏風絵は狩野山雪、正面の障壁画は狩野永徳。豪華絢爛です。
このあと、宝物が展示されている部屋で義経の鎧、弁慶の七つ道具(本物?)、後醍醐天皇所持の蝉丸の琵琶、大塔宮や楠木正成所縁の品々などを拝見してから、太閤花見の品へと移りました。
太閤愛用金屏風、狩野山雪筆「竹の図」。
こちらは太閤愛用金屏風、狩野永徳筆「桜の図」。
祭神は後醍醐天皇、楠木正成と吉水院宗信法印を合祀。一目千本の絶景は逃しましたが、人の少ない時期に書院の中をじっくり時間をかけて見て回ることができたのは幸いでした。
金峯山寺の手前で、葛屋中井春風堂に立ち寄りました。
こちらは吉野の本葛粉(葛以外の澱粉を混ぜない100%葛粉)と本葛粉を使った葛菓子を販売していますが、店頭で店のご主人が葛粉の説明と葛餅・葛切り作りの実演を行ってくださるのが楽しみの一つです。
まさに葛マジック!常温では水に溶けずに沈殿する本葛粉(澱粉)が、熱の力を借りると糊化して透明になる瞬間は息を呑みました。また、葛餅も葛切りも本葛粉と水だけで作られており、水の量だけの違いだとは知りませんでした。そして本葛本来のおいしさを味わえるのは、出来立てのわずか10分間だけなのだそうです。
葛菓子というと冷たく冷やすものという先入観がありましたが、葛を透明にしてくれている熱の力が持続している間にするりといただきました。ごちそうさまでした。
金峯山寺
いよいよ吉野の、というより日本の修験道の中心道場と言うべき金峯山寺です。開基は役行者、本尊は蔵王権現。もともと金峯山寺とは20数キロ南にある山上ヶ岳の蔵王堂(現在は大峯山寺)とこの地の蔵王堂を含む一連の寺院の総称で、今でもこの二つの蔵王堂の間を毎日休むことなく歩いて礼拝する金峯山百日回峯行や山上ヶ岳の開山期間(5月3日から9月22日まで)を8年間歩き続ける金峯山千日回峯行が行われているそうです。
石段を登ると広い境内に出て、その中心には4本桜、周囲には神楽殿、天満宮、愛染堂、観音堂など。
そして、重層入母屋造り、桧皮葺きで高さ34m、四方36mの巨大な蔵王堂〈国宝〉は豊臣家の寄進で天正19年(1592年)の建立です。これは本当に大きい!その全体をカメラに収めようとすると、ずいぶん下がらなければなりません。山上ヶ岳の蔵王堂が「山上の蔵王堂」と呼ばれるのに対し、こちらは「山下さんげの蔵王堂」と呼ばれ、中には巨大な厨子があって、その中に秘仏《金剛蔵王権現》三体が収められている他、上述の通りもと安禅寺の《木造蔵王権現立像》などもこちらに遷ってきています。それほどの位置づけにある金峯山寺も神仏分離の波には抗えず、さらに修験道廃止令も出され、明治7年(1874年)から19年(1886年)にかけていったん廃寺に追い込まれたというから驚きます。
なお金剛蔵王権現三体は、それぞれ高さ約6-7m。本地仏の中尊・釈迦如来(過去世)、右尊・千手観音菩薩(現在世)、左尊・弥勒菩薩(未来世)が過去・現在・未来の三世にわたる衆生の救済を誓願してこの世に仮の姿で現れた(権現)日本独自の尊格で、悪魔降伏のための忿怒の相を持ち怒髪は天を衝き、右手右足を高く上げて背後に火焔を燃え上がらせていますが、秘仏であるためにこの日は拝むことはできませんでした。
やはり桜の季節に御開帳があったようですが、それにしてもこのお顔は凄い迫力です。
脳天大神龍王院
さて、蔵王堂から左手へ下ると、そちらはやはり後醍醐天皇の行宮になった実城寺跡です。
そしてその向こうの石段を445段も下ると、川をまたいで脳天大神龍王院。
ここは昭和28年(1953年)に建立されたもので、滝行場やお百度道場が整備されており、なぜか、ゆで卵のサービスもありました。
大変凛々しい阿吽の蛙……。
下った道は、また登り返さなければなりません……。
あいにく修理工事中の仁王門〈国宝〉をくぐり、銅鳥居(発心門)〈重文〉をもくぐれば、浄土から俗世間へ戻ったことになります。
黒門、大橋(かつての空堀の跡)と過ぎて吉野山にはお別れを告げることになりますが、帰京する前にもう一つ立ち寄るところがあります。
吉野神宮
芳野にてさくら見せうぞ桧木笠
車道を進むと、道の左手には芭蕉の句碑。その先はひたすらアスファルト歩きです。
うんざりするほど歩いたところで、やっと吉野神宮に到着しました。ここは、明治天皇の命により、明治25年(1892年)に後醍醐天皇を祀るために建てられた比較的新しい神社です。吉水院にあった後醍醐天皇像を移して吉野宮とし、大正7年(1918年)に吉野神宮に改称した元官弊大社。ここがこの旅の最後の目的地です。
前日に参詣した橿原神宮に通じるスケールとあっさり感がありますが、この広い敷地に他に観光客の姿はほとんどなく、静寂が支配する境内の雰囲気には好ましいものを感じました。
帰りの列車はタイミングよくBlue Symphonyに乗ることができました。吉野神宮駅から橿原神宮前駅までの短い区間でしたが、ゴージャスな列車の旅を楽しむことができてラッキー。橿原神宮前から京都に出て、東海道新幹線で東京に戻って旅の終了です。
今回の旅行は、初日の「特別展 快慶」をきっかけに、歴史の町・奈良、神話の地・飛鳥、宗教の山・吉野を巡る実り多い旅とすることができました。ことに飛鳥はほぼ30年ぶりの訪問でしたし、吉野も20年ぶり。それぞれ懐かしくもあり、新鮮でもあり。一方で、明治時代の廃仏毀釈の嵐がいかに凄まじいものであったかを実感する旅ともなりました。興福寺が寺領を没収され、あの立派な五重塔までも二束三文で売られて危うく火をかけられそうになった話は有名ですが、宗教的雰囲気に満ちた吉野ですら、寺院が跡形もなくなってしまった場所をいくつも見たことは衝撃的でした。さらに飛鳥では、山田寺が鎌倉時代の初めに興福寺僧兵による略奪にあって本尊を失った経緯を知り、今、こうして見て回ることができる社寺や仏像がいかに過酷な日々を耐えてきたのかということに思いを致すことになりました。
そんな具合に、今後の社寺巡りにおける仏像との向き合い方が変わりそうな、強いインパクトを受けた3日間の旅でもありました。