成田山参詣

2017/07/22

成田山新勝寺参詣(ちょうどこの時期が「成田うなぎ祭り」の最中だから……というのは大きな声では言えない動機です)。真言宗智山派の大本山であり、平将門の乱に際して朱雀天皇が東国へ遣わした寛朝僧正が京の神護寺維摩堂の不動明王像(空海作)を当地にもたらし、不動護摩の儀式を行った天慶3年(940年)が開山の年とされています。この儀式が行われた場所は下総国公津ヶ原とされ、現在の境内がある場所より2kmほど西にあたるようですが、その辺りは古来多くの古墳が造営されており、古代から拓けた場所であったようです。

成田駅から参道を進み、緩やかに坂道を下った先に巨大な総門。これをくぐると前方に急な階段が見えていて、その上に仁王門〈重文〉が建っています。

文政13年(1830年)建立の仁王門の脚部には、手前側の左右に密迹金剛と那羅延金剛、奥の左右に多聞天と広目天。しかしそれよりも、門を抜けたところの左右にある池にうじゃうじゃといる亀の姿が気になります。

石段を登りきった台地上の境内には、正面の大本堂、その右に三重塔〈重文〉。さらに右には一切経堂と鐘楼。大本堂は鉄筋コンクリートの大きなお堂で、中に入ると広々とした空間が広がり、その奥の遠いところにひっそりと本尊の不動明王像が佇んでいました。そのお姿は黒々とゆかしく、照明も暗めなので目を凝らさないとそこに安置されていることを見逃してしまいそうです。

大本堂を出たら、ちょっとした高台にある出世開運稲荷に開運のお祈り。

登ってきた坂道を下る途中から境内を眺めると、正面に釈迦堂〈重文〉、その奥の一段高いところに額堂、光明堂、そして平和大塔が見えています。

釈迦堂は安政5年(1858年)建立、今の大本堂を建てる前の本堂で、昭和39年(1964年)にここに移築し、釈迦如来と普賢・文殊・弥勒・千手観音の四菩薩を祀っています。これらの仏様のお姿も堂の外から遠く拝見するしかありませんでしたが、大変落ち着いた佇まいが印象的でした。

大本堂や釈迦堂のある境内から一段高いところにあるのが、まず額堂〈重文〉。奉納額や絵馬を掲げるためのお堂で、文久元年(1861年)に建てられたものです。かつては三重塔の脇にも七代目市川團十郎が寄進した「三升の額堂」があったそうですが、昭和40年(1965年)に消失してしまったとのこと。なお、市川團十郎家と成田山との関わりは、跡継ぎのいなかった初代團十郎が成田山にお参りして二代目を授かり、さらに不動明王を題材にした芝居が大当たりしたことから「成田屋」を屋号としたのが始まりで、この成田不動尊への帰依は今日まで代々受け継がれています。

額堂の先には、釈迦堂のさらに前に本堂だった光明堂〈重文〉。こちらは元禄14年(1701年)の建立で、正面の額には三鈷杵を柄とする利剣の額、そして堂内には左から不動明王・大日如来・愛染明王が安置されています。また光明堂の裏手には奥の院があり、扉の左右の板石塔婆はいずれも14世紀のもの。7月上旬の祇園会を除き閉じられたままの扉の向こうにある奥行き11mの洞窟の中には、不動明王の本地仏である大日如来が安置されています。

そして巨大な平和大塔へ。1984年の建立ですが、その姿は高野山の根本大塔を思い出させます。中は、1階が展示室と写経道場、そして2階に上がると明王殿という巨大な空間があり、見上げる大きさの五大明王(不動明王・降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王)の尊像が立ち並んでいました。青い肌をはじめ原色の彩色を施され、多臂であったり水牛に乗ったりと異形が目立ちますが、何といっても特徴的なのは不動明王の目が成田屋の「にらみ」を想起させるものであることです。

これで新勝寺の伽藍は一通り巡ったことになります。何らかの御利益も期待したいところですが、それどころかこの日は恐ろしく暑い日で、へとへとになって元来た道を戻り、休憩所でしばし休んでから境内を退散しました。

帰り道にちらりと覗いた薬師堂は、光明堂が本堂になる前の旧本堂。参道の途中の三叉路に面しており、明暦元年(1655年)に建立され安政2年(1855年)にこの飛び地に移転したもので、初代市川團十郎が参拝したのはこの御堂です。こうしてみると本堂が年代と共に着実に大きくなっていることがわかりますが、江戸時代の興隆の背景には市川團十郎の帰依と歌舞伎での不動演目により人気を集めたことに加え、成田山自身の積極的な出開帳による布教活動があったようです。何事もまずはマーケティングが大事……ということでしょうか。