塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

アジアの女

2019/09/26

Bunkamuraシアターコクーン(渋谷)で、長塚圭史作、吉田鋼太郎演出、石原さとみ主演の「アジアの女」。

大災害によって壊滅した町で半壊した家に住み続ける兄と妹。兄、晃郎は酒浸りとなったが、かつて精神を病んでいた妹、麻希子はむしろ回復しつつある。書けない作家一ノ瀬が現れ、元編集者の晃郎に「物語を書かせろ」と迫る。麻希子に想いを寄せる巡査の村田は、家を出ない兄妹の世話を焼き見守っている。純粋さと狂気のハザマにいる麻希子。一ノ瀬のために外出した麻希子は鳥居と出会い、生活のため「ボランティア」と称した仕事を始める。ついに家を出る麻希子、出る事が出来ない晃郎、麻希子をモデルにした物語を書き出す一ノ瀬……。

この芝居は2006年に長塚圭史作・演出、富田靖子主演で初演されたもので、私はその舞台を新国立劇場小ホールで観て深く静かな感銘を受けていたのですが、それから13年後に再演されることになったことをBunkamuraからの案内メールで知り、興味津々で発売初日にチケットをゲットしたのでした。

舞台上のセットは、1階がぺしゃんこに潰れて2階部分そのままの姿で地面に立ち、もとベランダだったところがテラスになってしまっている一軒家が上手にあり、下手にははっきりと斜めに傾いている2階建てのアパート。その間の空間が赤いアスファルト状のものに覆われた広場になっており、背後には白ペンキでナンバーが振られた暗い色の大型土嚢が壁のように積み重なっています。舞台後方の上空にはあたかも結界を示すかのようなロープが何本も渡してあり、この地域が外界から閉鎖されていることを象徴しているようです。それでもアパートの向こう側から下手に通じる道一つだけでこの場所は外界とつながっており、人の往来も自由なのですが、客席側に建っている(観客の目には見えない)高層建築物が倒壊の危機に瀕しており、そのためにこの一角は立入禁止地区ということになっています。

ストーリーや登場人物の性格づけは初演のときとおおよそ同じですが、舞台上の熱量はとても高く、そのために一人一人の突き抜け方が際立ちました。

大切に水をやり続けている「畑」を荒らした一ノ瀬に唐突にキレて箒で襲いかかったかと思えば、潰れた1階の空間へ「父」のためと言って大切に食事をおろし続ける麻希子は、精神の病からの回復途上ということになっていますが、その兄・晃郎も、この不安定な妹と暮らす狭い空間に縛り付けられてアルコールに逃避するしかなくなっています。こうした出口のない状況の中へ外界から闖入して強引に居座った一ノ瀬の存在が兄妹の日常を波立たせることになるのですが、一ノ瀬自身もまた、のべつまくなしに空腹を訴えるかと思えば目に見えない虫にまとわりつかれて1人もがいて見せ、その背景に、編集者として一ノ瀬と組んでいた晃郎を失ったために作家としてのキャリアを喪失した過去があることが語られます。

これら強く絡み合い、執着し合いながらどこか噛み合わない3人がこの立入禁止区域に取り込まれてしまっているのに対し、麻希子を慕う警察官の村田と「ボランティア」の元締めである鳥居は、外界とこの広場とを自由に行き来でき、傍目にはごくまともに思えます。ところが、エロ小説への愛を熱く語る村田の意外な俗物性はまだしも、初めは麻希子に親身に接していたはずの鳥居が在日外国人への差別意識をあらわにし、さらには「ボランティア」を忌避しだした麻希子に牙を剥いたときには、この舞台上の荒廃が外の世界においてもどこまでも広がっていることが明らかになってきます。鳥居がその邪悪さを隠そうとしなくなるにつれて麻希子の中の浄化された意思が確固とした行動につながっていくという点で、鳥居と麻希子は鏡の表と裏のような関係と見ることができるのかもしれません。こうなると、誰が正常で誰が異常ということではもはやなくなってきます。

愛してやまないエロ小説を剽窃した一ノ瀬を厳しく咎める村田を拒絶した麻希子と、麻希子に「ボランティア」を強いようとする鳥居を追い出した一ノ瀬。こうして外界に属する2人が舞台から姿を消した後に、美しい二つの対話が展開します。まず、外の世界で知り合った中国人教師に対する愛を涙ながらに語る麻希子を、優しく受け止める晃郎。やがて麻希子を励まし彼のもとへと送り出した晃郎は、「父」がそこにいるというテラスの穴を塞いで妹と自分のこの家への絆を断ち切りました。ついで、戻ってきた一ノ瀬と晃郎は、かつての作家と編集者の立場に戻って「畑」の物語に取り組み、ついに一ノ瀬は自分の言葉で一つのストーリーを生み出します。

「畑に植えられていたのは、種ではなく手紙。女が来る日も来る日もやり続けた水がようやく手紙に届き、言葉が土にしみ込んだとき、土は、女の願いに応えるためにありとあらゆる果物や野菜の芽を出そうと決意する。土は、ありったけの力を振り絞って何千種類もの種を集め、その芽を伸ばそうとしている。もうすぐそこだ!」

こうして初めて創作の喜びを自分のものとした一ノ瀬に、晃郎も叫びます。

「アジアの女……女の願いは今、国境を越えているんです!」

背景から銃声と騒乱の音が聞こえ、取り乱した様子の村田が飛び込んできて麻希子の死を2人に告げたときに、あらゆるものを巻き込んで建物が倒壊する巨大な音が鳴り響きます。のしかかってくる建物に向けられた一ノ瀬と晃郎の怯えた表情を垣間見せて舞台上が暗転した後、轟音がおさまって再び舞台に光が戻ってみると、そこに男たちの姿はなく、畑には真紅の彼岸花。舞台の中央を客席に背を向けて静かに歩み去る純白の衣装の麻希子の向こうで舞台背後の扉が開き、そこから強い白色光が差し込んで麻希子の姿をシルエットにしましたが、やがてその姿はスモークと闇に溶けていきました。

ストーリーや登場人物の性格づけは初演のときとおおよそ同じ、と冒頭に書きましたが、このエンディングは初演時とまったく異なっていて驚きました。記憶が確かなら、初演のときには麻希子の死を聞いた後の2人の変化の描写があり、終末の崩壊の後の地面には希望をつなぐ緑の芽吹きが見られたのですが、今回の演出では、せっかくつかんだ再生の糸口も虚しく一ノ瀬と晃郎は崩壊する建物に飲み込まれた上に、麻希子の昇天が明示的に示され、「畑」に咲く彼岸花の赤も葬送のイメージを強調していて、そこにはまったく救いがありません。どちらがいい・悪いという話ではないのですが、同じ戯曲がラスト数分の演出によってここまで違うものになるとは予想することができませんでした。

前回同様に、マクロで見れば主要登場人物3人の内心の葛藤の物語と「アジアの女」というタイトルに連なる状況設定とがしっくり結びつかず、ミクロで見ても父の白い手に引きずり込まれた晃郎がなに食わぬ顔で舞台上に戻ってこざるを得ないという未回収の問題を戯曲に感じましたが、演技者たちの熱演には引き込まれました。石原さとみさんがこれほど達者な芝居をするとは知りませんでしたが、山内圭哉(晃郎)が外界へ出ていった麻希子を探すうちに焦燥をどこまでも募らせていく恐ろしいほどのエキセントリックさと、タイトスカートにハイヒールで悪女ぶりを示す水口早香(鳥居)の存在感には引き込まれました。そしてもちろん吉田鋼太郎(一ノ瀬)の、手紙を読んだ土の話は今回も感動的。芽吹きは「もうすぐそこだ」と一ノ瀬が絞り出すように告げたときには、素晴らしい緊迫感が劇場を支配していました。その終末に向けた期待が大きければ大きいほどやはり、こういうエンディングになるのか?と思わないわけにはいかなかったのですが……。

なお、今回は終演後に拍手に応えて俳優たちが舞台上に顔を出してくれました。初演のときにはカーテンコールがなかったことを残念に思ったのですが、かといってこの日のように屈託のない石原スマイルが花開くのも、余韻という点ではちょっと考えもの。しかし、2度目のカーテンコールの後に、1人舞台上に残った演出の吉田鋼太郎が精悍な表情で客席に向かって手を合わせてくれて、引き締まった気持ちで劇場を後にすることができました。

配役

竹内麻希子 石原さとみ
竹内晃郎 山内圭哉
村田 矢本悠馬
鳥居 水口早香
一ノ瀬 吉田鋼太郎