井筒
2019/09/06
セルリアンタワー能楽堂で、Bunkamura30周年記念「渋谷能」のプログラムの一つ「井筒」。テーマは「恋愛」。
この日の公演は、第四夜「藤戸」に続く第五夜。観世流の出番です 。金子直樹氏の『僕らの能・狂言 13人に聞く!これまで・これから』の中でとりわけ尖ったコメントを披露していた鵜澤光師による究極の本鬘物。どのような舞台になるのかとチケットを買ったときから楽しみにしていました。
上演に先立ち例によって能評家の金子直樹氏によるあらすじ解説があり、さらに、この「井筒」の主題を純愛だと思っていたこともあるが、今では一人で夫を思い続ける切なさを描いたものだと考えるようになった、という趣旨の話がありました。
井筒
囃子方・地謡が位置につき、後見の鵜澤久師の手によって井筒の作リ物[1]が正先に据えられて、〔名ノリ笛〕に乗ってワキ/旅僧(宝生欣哉師)が登場し〈名ノリ〉から在原寺に着いての〈下歌〉の美しい謡。ついで〔次第〕となり、登場した前シテ/里の女(鵜澤光師)の出立は紅白(白の部分は銀色に見える)の段模様に秋の花を散らした唐織着流で、右手に数珠、左手に水桶、面は由緒ありげな小面[2]。男性能楽師だと顔の輪郭が面の外にはみ出すことが普通ですが、鵜澤光師は小顔であるためかサイズがぴったり合っていて逆に不思議な感じです。そして〈次第〉暁ごとの閼伽の水、月も心や澄ますらん
から〈下歌〉ただ何時となく一筋に頼む仏の御手の糸導き給へ法の声
へと救済を希求するシテの言葉が、いつになく胸に迫ってきます。
ワキとシテとの問答の最後に、昔男の
とワキに対し前のめりに思いをこめてから地謡の初同に情景描写を渡したシテは、正中に下居して懐旧の風情となり、徐々に自らの思い出の中へ没入してゆきます。〈クリ〉から〈サシ〉にかけては『伊勢物語』第23段[3]中ほどの風吹けば
のエピソード、〈クセ〉は同じ段の最初に描かれる筒井筒
のエピソードで、それまでやや低めの発声を続けていた鵜澤光師が上ゲ端筒井筒井筒にかけしまろがたけ
と謡うところから女性らしい自然な発声に変わったように思えましたが、これはシテの人格が紀有常の娘の霊に切り替わったことを示すのでしょうか。
ともあれ、この筒井筒の歌を一曲の中核と思えば純愛物ということになるのですが、それではシテの執心の由来が判然としません。しかし中入後、遠目には鈴蘭に似た白い飾りをつけた初冠を戴き追懸をつけ(そのことによって小面の愛らしさがむしろ引き立つのがこれまた不思議)紫地に金の藤花と色とりどりの蝶の文様をあしらった長絹を着用した後シテ/紀有常の娘の霊が〔一声〕に続いて謡う徒なりと名にこそ立てれ桜花 年に稀なる人も待ちけり
は『伊勢物語』第27段[4]、眞弓槻弓年を経て
は同第24段[5]に連なって、「人待つ女」とも呼ばれた主人公の悲しみが理解されてきます。ことに第24段で去りゆく夫を追ったものの追いつけずついにいたづらになりにけり
という清水のある所
をこの井筒のある場所と解する『伊勢物語』の古註の解釈に従えば、舞台上の井筒はシテと在原業平の初恋が成就した場所であり、後には永遠に別れることになった場所でもあることになります。
もっとも、そうしたあれこれに思いを巡らせたのは後日の話。舞台上では優美この上もない大小〔序ノ舞〕が始まっていました。袖を返しきれない場面があったものの、シテの永きにわたる業平への想いをそのまま舞にしたようなしっとりとした時間がたち、ついにキリへと向かいます。筒井筒の歌を地謡と掛け合ったシテは、大小前から井筒へと足早に近づいてすすきを右袖で払い水鏡を覗き込むと、ややあって見ればなつかしや
と消え入るような声。
最後はシテが少し下がって膝を突き扇で面を覆ううちに霊の姿は花がしおれるように夜明けの明かりの中に溶けていき、夢も破れて覚めにけり 夢は破れ明けにけり
と謡う地謡を背に常座で左袖を返して留拍子を踏みました。
事前講座の中で鵜澤光師は、この「井筒」は戯曲がしっかりしているのでそれに乗って素直に演じるほかはない、詞章・地謡・囃子方を信じて今の自分にできることをやる、という趣旨のことを話していました。その言葉通り、亀井忠雄師が牽引する囃子方と片山九郎右衛門師が統率する地謡のバックアップを受け、鵜澤光師が紀有常の娘の霊の心情を我がこととして舞台上に投影していたのではないかと思います。この点、自分ではどのように感じていたのかを本人にお聞きしたいとも思ったのですが、翌日に早朝から出なければならない所用があったため、残念ながらいつものようにアフターパーティーに出席することがかないませんでした。
事前講座によるポイント解説
伊勢物語 各段の歌
- ^第23段
- 筒井つの井筒にかけしまろがたけ 過ぎにけらしな妹見ざるまに〔昔男=業平〕
- くらべこし振分髪も肩すぎぬ 君ならずして誰かあぐべき〔井筒の女=紀有常の娘〕
- 風吹けば沖つ白浪たつた山 夜半にや君がひとりこゆらむ〔井筒の女〕
- 君があたり見つつを居らむ生駒山 雲なかくしそ雨は降るとも〔高安の女〕
- 君来むといひし夜ごとに過ぎぬれば 頼まぬものの恋ひつつぞふる〔高安の女〕
- ^第24段
- あらたまの年の三年を待ちわびて ただ今宵こそにひまくらすれ〔人待つ女〕
- 梓弓ま弓槻弓年をへて わがせしがごとうふはしみせよ〔昔男〕
- 梓弓引けど引かねど昔より 心は君によりにしものを〔人待つ女〕
- あひ思はで離れぬる人をとどめかね わが身は今ぞ消えはてぬめる〔人待つ女〕
- ^第27段
- あだなりと名にこそたてれ桜花 年にまれなる人も待ちけり〔人待つ女=紀有常の娘〕
- けふ来ずはあすは雪とぞ降りなまし 消えずはありとも花と見ましや〔年頃訪れざりける人=業平〕
配役
能観世流 | 井筒 | 前シテ/里の女 | : | 鵜澤光 |
後シテ/紀有常の娘の霊 | ||||
ワキ/旅僧 | : | 宝生欣哉 | ||
アイ/里人 | : | 能村昌人 | ||
笛 | : | 竹市学 | ||
小鼓 | : | 吉阪一郎 | ||
大鼓 | : | 亀井忠雄 | ||
主後見 | : | 観世銕之丞 | ||
地頭 | : | 片山九郎右衛門 |
あらすじ
井筒
→〔こちら〕