ひらかな盛衰記
2009/05/17
国立劇場(隼町)で、文楽「ひらかな盛衰記」。1739年初演の全五段時代物。「ひらがなのようにわかりやすく書かれた源平盛衰記」というのがタイトルの意味なのだとか。この日は二段目と四段目の半通しで、梶原源太景季と腰元千鳥(傾城梅ヶ枝)の二人が主人公となります。この二人を遣うのは、源太が吉田和生師、千鳥が桐竹勘十郎師。何となく逆じゃないかなという気がしましたが、実はお二人とも立役・女方のどちらも得意としているのだとか。
梶原源太景季は、周知の通り佐々木高綱との宇治川の先陣争いでは後れをとったものの、一ノ谷の合戦では箙に梅の枝を挿して奮戦し風流を解する坂東武者と賞賛を浴びた武将。その父の景時は讒言によって義経を陥れた人物とされていますが、それが史実かどうかは定かではありません。
「梶原館の段」は、出陣中の父・梶原景時と兄・源太の留守に二男・平次景高が腰元千鳥を口説く場面からですが、松香大夫が語るこの平次が、本当に嫌なヤツ!勘十郎師の千鳥がいやよいやよというのも聞かずセクハラ三昧ですが、松香大夫は疲れているのか、地の文と台詞の語り分けに若干混乱があった模様。そのまま「先陣問答の段」に移って、イケメン呂勢大夫と源太を遣う和生師に等しく拍手が沸き起こります。下座では太鼓も鳴る中、威風堂々と登場した梶原源太景季鎌倉一の風流男
。しかし、平次は源太が宇治川の先陣争いに敗れたことを知っていながらその模様を兄に語れと求めます。ここからの物語りは、最初に鼓と掛け声が入って朗々と語られ、源太も扇を使っての勇壮な舞。ところが生唼・磨墨が二騎並んで宇治川にざんぶとうち入っていよいよこれからというところで、平次がせせら笑って話の腰を折りました。これにムカついた千鳥は、自分が源太になりかわってその活躍の様子を演じてみせるのですが、大きな仕種で豪快ながらも女性らしさがにじみ出しているのがさすがです。しかし、平次が佐々木高綱の真似をしてツケ打ちも賑々しく先陣の名乗りとともに黒字に赤丸の扇を振るって見得を切ると、源太はだんまり、千鳥はがっくり。嵩にかかって兄に斬りかかった平次に対してはさすがに源太、刀を奪ってさんざんに打擲して、「源太勘当の段」に続きます。
「源太勘当の段」は千歳大夫。人払いをして母と二人きりになった源太は、父の命の恩人である佐々木四郎に報いるためにわざと先陣争いに負けたことを告白した上で、自害しようとしますが、ここからが母延寿の偉いところ。今死んでは烏帽子親の頼朝卿に対して忠も孝も立たぬと理詰めで説得したかと思えば、主従は三世の契り
、生きかわって仕えますという反論に今度はヤレ情けない!親子は一世この世ばかりで又逢はれぬ母を置いて死なうという子も胴欲
と泣き落としにかかるなど、緩急自在。そして腹を切れとの手ぬるい父御の指図より、きびしい母が仕置きを見しよ
と、平次に古着を持ってこさせます。もちろんこれは、勘当の恥辱と引き換えに源太の命を助けようという計らいなのですが、大小を取り上げられ烏帽子も叩き落とされ、古着に縄帯姿で平次に縁の下へ蹴落とされた源太は無念の忍び泣き。これを見る母延寿も顔で笑って心で泣いての泣き笑いで、人形の首と千歳大夫の頭がシンクロして震えていました。ついでに平次が千鳥へこれからは自分の奥方になれと背中を触ると、千歳大夫は凄く嫌そうな顔をしてエ丶穢らはしい聞きともない
。勘十郎師に負けず劣らず千歳大夫も、千鳥と一体化している感じです。結局、源太はしつこく打ちかかる平次をまたしてもさんざんに打ち据えると、母の計らいで鎧兜を手に入れ、さらにはマジックさながらに具足櫃から現れた千鳥と手に手をとって西の方、恥辱を晴らすための戦場へと向かいます。なお、すっかり忘れていたのですが、かつて歌舞伎でここを観ていました。そのときは主役の源太が勘太郎丈、嫌みな平次が海老蔵丈という意外な配役。
休憩をはさんで「辻法印の段」は、「英大夫!」の掛け声に迎えられて英大夫が登場し、コミカルなチャリ場。千鳥の姉・お筆は千鳥の行方を占ってもらおうと辻法印の家に立ち寄りますが、この法印、あれやこれやも銭(れこ)次第
と右手でレコレコと要求。筮竹、算木、さらになぜか算盤を取り出して当て推量するものの皆外れ(後ろから女房に「あんた、しっかりしてよ!」と叩かれる)。結局お筆の語ることをおうむ返しに告げるばかりで、せめて方角でも示してくれというお筆にハテ滅相な。それが見えるほどなら山伏はしませぬ。相場事にか丶るわいの
と悪びれる風もありません。ともあれ噂を頼りに神崎の廓をさして旅立ったお筆を見送った法印ですが、そこに戻ってきたのは法印宅に匿われている源太。今は傾城梅ヶ枝となっている千歳のもとへ預けた鎧兜を受け取って明日の義経陣立てに加わりたいのですが、紙子姿では廓を訪れることもできないので、法印を弁慶に仕立てて義経のためと大物の百姓から兵糧米を取り立てようと一計を案じます。そんなわけでコレ法印そなた弁慶になつてたも
といきなり振られて法印はええっと仰天。嫌がる法印を無理矢理弁慶に仕立てて米を持ってきた百姓たちの前に立たせます。障子がさっと開いて登場した弁慶実は法印の英大夫による描写が、緩急自在で実にコミカル。高足駄で背丈を補った上に顔には炭を塗って黒くした偽弁慶の姿はどう見ても怪しく、百姓達は顔を見合わせて不審顔です。一人の百姓があれはおかしい、七つ道具も背負っていないしお上で下駄はいて居る
(法印ギクリ!)と言うと、もう一人はソリヤおまはん、戦に出る時のなりぢや。内に居る時そんな丶りして居られるけ
と意外に冷静。下駄を履いているのも弁慶にはいろいろあると英大夫と一人遣いとのコラボで訳の分からない解説をするのですが、その百姓も法印をよくよく見てみるとまつ黒な汗をたらたら流し
(法印あわてて汗を拭う)背は高いが頭が小さくて飯蛸のようだと疑いの眼を向けました。しかしそこは機転の源太、弁慶も戦場の疲れで窶れているのだと強弁して、米を出させることに成功しました。この段、英大夫の自由自在な語り分けとびびりまくりの法印を遣った勘緑師の迫真の演技(!)に、喝采。
いよいよ切場「神崎揚屋の段」、嶋大夫の登場です。前の段からの続きの世なりけり
、ここからもうよく通る声ですが、最初は三味線と調子が合っていないような印象を受けました。しかし、すぐにも前傾して見台につかみかかるような姿勢になるとともに、糸と合ってきます。さて、舞台上は腰元千鳥改め傾城梅ヶ枝。言葉遣いもすっかり花魁言葉ですが、そこへ自力で到達した姉・お筆から父の死(今日は省略された三段目での話)を聞かされてしぇ〜と天を仰ぎます。別間で身請け話を持って来た客を待たせているために一度は姉と別れたところへ今度は源太が遅れて来ると、梅ヶ枝は拗ねて後ろを向いたまま烟管をふいたり、袖から袖へ手を入れ、ぢつと引き寄せ
蠱惑的なクドキにかかったりと、なんだか先ほどまでの打ちしおれた風情とは全然違うキャラ。たじたじとなりつつも源太は、鎧を受け取りに来たと本題に入ったのですが、実は鎧は源太との逢瀬のための揚代三百両のために質に入れられていて、源太は絶句。時代物とは言ってもやはり色と金の話になるのは、大阪の庶民を客とする文楽の世界観です。もはやこれまでと切腹しようとした源太を慌てて止め、梅ヶ枝は奥の客に身を任せたらしなば、二百両や三百両の金は自由
と口から出任せでその場を取り繕います。これには源太も感謝感激、二人は目と目を見合わせ、梅ヶ枝の打掛が広がって様式的な見得となりますが、源太を見送った後の梅ヶ枝の独白が嶋大夫節。ほとんど泣き声になって心当てのあると云ふたのはみんな嘘
。三百両工面の見通しもなく、たったそれだけのことで源太を死なせることになるのかと嘆いて、最後の一言アア金がほしいなア
は絞り出すような梅ヶ枝の心の叫びでした。梅ヶ枝が打掛を脱いで前へ出ると、揚屋のセットが上がって庭にチェンジ。涙をこらえる風情でうろうろと歩き回りながらクドいたかと思うと、突如憑依して身悶え髪振り乱し、庭の手水鉢を無間の鐘に見立てて柄杓で打とうとするところは足をどんどん、柄杓ぶんぶん、三業一体となっての勇壮とすら言える女の一念が凄い気迫で圧倒されます。とそこへ、二階から小判が雨のように降ってきて、じゃらんじゃらんと金の音。梅ヶ枝は大喜びで三百両を拾い集め押しいただいて走り去って、大拍手のうちに嶋大夫は金屏風の後ろに下がっていきました。嶋大夫ブラボー。
「奥座敷の段」。お筆が父の敵と狙うのは源太の父・景時で、敵の代わりにと源太に迫るお筆でしたが、そのお筆を鏃を抜いた矢で制したのは母延寿で、最前三百両の金を降らせた身請け話の客というのも延寿でした。そして延寿の理を尽くした命がけの説得にお筆も心を開きますが、そうした心の移り変わりが、人形のほんのかすかな仕種で見事に表現されています。それにしても、二段目での偽りの勘当から四段目の出陣まで、びしっと一本筋の通った作劇術には脱帽。その中心人物は実は延寿で、この人の揺るぎない子を思う気持ちと深謀遠慮とがあって成り立つ話になっています。そしてもちろん梅ヶ枝の愛とお筆の覚悟といった具合に、源太をめぐって織りなす女性たちの活躍がストーリーの眼目という感じ。最後は、赤糸縅の鎧に金の鍬形も美々しい武者姿となった源太の箙に梅ヶ枝が紅梅の枝を挿して、四人の見得でめでたく幕を閉じました。
配役
梶原館の段 | : | 豊竹松香大夫 | |
: | 鶴澤清志郎 | ||
先陣問答の段 | : | 豊竹呂勢大夫 | |
: | 竹澤宗助 | ||
源太勘当の段 | : | 豊竹千歳大夫 | |
: | 鶴澤清介 | ||
辻法印の段 | : | 豊竹英大夫 | |
: | 竹澤団七 | ||
ツレ | : | 豊澤龍爾 | |
神崎揚屋の段 | 切 | : | 豊竹嶋大夫 |
: | 豊澤富助 | ||
ツレ | : | 鶴澤清馗 | |
奥座敷の段 | : | 豊竹咲甫大夫 | |
: | 鶴澤清友 | ||
〈人形役割〉 | |||
腰元千鳥後に傾城梅ヶ枝 | : | 桐竹勘十郎 | |
母延寿 | : | 吉田玉也 | |
梶原平次景高 | : | 吉田文司 | |
横須賀軍内 | : | 吉田玉佳 | |
梶原源太景季 | : | 吉田和生 | |
法印女房 | : | 吉田一輔 | |
腰元お筆 | : | 豊松清十郎 | |
辻法印 | : | 吉田勘緑 | |
揚屋亭主 | : | 吉田幸助 | |
仲居 | : | 吉田蓑次 | |
質屋の男 | : | 吉田玉誉 | |
腰元 | : | 大ぜい | |
百姓 | : | 大ぜい | |
駕篭舁 | : | 大ぜい |
あらすじ
ひらかな盛衰記
梶原源太は佐々木高綱との宇治川の先陣争いに敗れ、勘当されてしまう。源太は勘当の身でありながらも一ノ谷の合戦に馳せ参じようとするが、金に窮してそれも叶わない。恋人の傾城・梅ヶ枝が思い余って、現生の望みが叶うかわりに来世は無限の地獄に落ちるといわれる「無間の鐘」の伝説になぞらえ、柄杓で手水鉢を打つと二階から小判が降ってくる。源太は梅ヶ枝が志の梅花を箙に差し、凛々しい若武者姿となって一ノ谷の戦場へと出陣する。