ザ・キャラクター(NODA・MAP)

2010/07/14

東京芸術劇場(池袋)中ホールで、NODA・MAPの「ザ・キャラクター」。野田秀樹作品ではおなじみの古田新太、宮沢りえ、それに「パイパー」で桁違いな力量を見せつけた橋爪功が出演。そして宮沢りえにとっては出産後初の舞台という点もポイントでしたが、実はもう一つ、「THE BEE」や「ザ・ダイバー」が英語の脚本を下敷きにしていたのに対し、今回の「ザ・キャラクター」では日本語、それもその構成要素である漢字(=キャラクター)をばらばらにすることからイメージが広がっていくという(言葉遊びならぬ)文字遊びのマジックを見せてくれる点が特徴となっています。

開演前、席でプログラムに目を通していると、会場係の女性が前方の客席に対して水が飛んでくるという予告をしていました。何か本水を使ったアクションでも?と驚きましたが、それは歌舞伎の場合の話。後でわかりますが、ストーリーは書道教室の中の出来事として展開し、派手な仕種で文字を書く場面があって、そこで飛沫が散るというわけでした。そして舞台はかなり客席側に傾いた斜面になっており、これも後からわかるように場面によってそれを上から写し舞台奥のスクリーンに投影する仕掛けで、そこで登場人物たちが床に大書した文字が次々に変わっていくことになります。

◎以下、戯曲のテキストと観劇の記憶により舞台を再現します。ここを飛ばしたいときは〔こちら〕へ。

開演してみると、舞台奥に客席から見えない段差が落ち込んでおり、そこから天使たちやモブ役の役者たちがおどろおどろしく登場。その中に宮沢りえ演じるマドロミの姿も現れて、少しかすれた、硬質な声で冒頭のセリフが語られます。

サイレンが街中に鳴り響くたび、しがみついてきた幼い俤……俤の中にいるのは弟、儚さの中にあるのは夢。

おもかげ、儚はかなさ、さらには物語の最後に出てくる「幻」が変化する「幼」という文字。そして響きが「サリン」に通じる「サイレン」といったキーワードが、この最初の一行の中にこめられて、舞台は町の書道教室に変化します。古神(橋爪功)と会計(藤井隆)が書道教室のスタッフ、眼鏡をかけ妙に頭が回る新人(田中哲司)と、なんだかやかましいオバちゃん(銀粉蝶)がそこに入会したばかりの生徒という布陣ですが、既に最初の場面から名前を書くべき半紙に財産を無償譲渡する契約書の文言が書かれていたり、何やらマインドコントロール的な指導が展開するなど、いかがわしげな様子です。その最中に帰ってきた家元(古田新太)と家元夫人(野田秀樹)は意外にもずいぶん軽いノリで、家元の三方向へのとんがりヘアが奇妙奇天烈ですが、ギリシアでホームレスたちが「殺してくれ。そして私を変えてくれ!」と縋ってきたというエピソードを語ったときにそこにいたアルゴス(池内博之)にそれで、殺して差し上げたんですか?と毒のある質問を受けた家元は、憑依したような強さを表に出して何を聞いていたのかな?と詰め寄り書道教室のスタッフたちに怯えが走ります。結局その言葉は「キルミー、チェインジ」ではなく「ギブミーチェインジ(小銭をくれ)」だったわけですが、このフレーズは後々たびたび「キルミー、チェインジ」に再変換されて惨劇の引金となります。

それでもまだ舞台上では、座ろうとする家元の尻の下へ家元夫人がフライングレシーブのようにスーツケースを差し込んでみせたり、会計が口ごたえしたのに対して家元と家元夫人が見事なユニゾンでキレてみせたり、家元が巨大な半紙に「袖」という文字を書くときに古神が大声で「わりゃー」を唱和して家元に「うるせーよ!」と怒られたり、さらには「袖」が「神」に変わる謎解きに際して家元が奥からあの巨体で小さくピルエットをしながら「分かってくれたかな」と出てきたりと笑いの要素が盛りだくさんではあります。

しかし、そうした中にも挿入されるのは家元夫人・古神・会計による不安の吐露。そしてここにかぶさってくるのはギリシア神話の世界です。マドロミとアルゴスの交感、追うアポローン(チョウソンハ)と追われるダプネー(美波)、アルゴスとアポローンの友情。一見本筋との関わりがよく見えないこれらの話がいつの間にかシームレスに本筋につながっていく仕掛けが巧みです。ちなみに、チョウソンハの甲高い声は耳に痛くちょっと違和感があり、またダプネー登場時のSEがYesの名曲「危機」のイントロだったのには少し驚きました。

書道教室での命名式の場面に至って、家元はもはや教祖の顔を隠そうとしません。次々にギリシア名を与えられるマドロミとスタッフたち。そして最初の恐怖の高まりは、ここで起きていることについていけなくなって逃げ出そうとし、家元たちにつかまった会計の処刑シーンです。古神に代わって書道教室の大家となることを命じられた会計が筆書させられるパエトーンのエピソードはいつの間にか自分の遺書に変わり、会計の筆先は次第に震え始めますが、家元の圧迫は会計が自筆で署名するところまで追い詰めます。そして、4階の窓から会計が放り出される瞬間に呼び入れられたマドロミと新人に突きつけられる踏み絵。窓から落とされた会計をマドロミは「ゴミ」だと言い、新人は「人間」だと言いましたが、それが人間ならば警察に電話しろと迫られた新人はその場の圧力に負けて電話をかけることができず、家元たちの共犯者へと転ぶことを余儀なくされました。

ここがこの芝居の眼目があらわになった最初の瞬間ですが、このときは会計は窓の枠にしがみついてたために助かり、そのことによって逆に家元の支配下に完全に入ることになります。

その後に、オバちゃんはこの書道教室に入った息子=アルゴスを、マドロミもやはりこの書道教室に入った弟=アポローンを探して真実を暴くために書道教室に近づいたことが判明するのですが、そこに展開するのはアルゴス、アポローン、ダプネーを巡る修羅場です。家元を批判したダプネーはもはやすっかり洗脳されているアポローンによって囚われ、アルゴス、古神、会計に囲まれて薬を飲まされました。その薬はダプネーが月桂樹に変わる薬、つまり家元が言うところのキルミー、チェインジのための薬ですが、薬が効果を発揮してきたときのダプネーを演じる美波による断末魔の演技の恐ろしさは凄まじく、苦悶の形相で床をのたうち回った末に力尽きて横たわる彼女の姿に観客席は凍り付きました。そしてここから先、この芝居からは笑いの要素が完全に消えてしまいます。

再び繰り返される踏み絵。家元にお前たち、今何を見た?と問い掛けられ、人間が殺される姿と答えたのはアルゴス、人間が月桂樹に変わる姿と答えたのはアポローン。弟の豹変ぶりに驚くマドロミが見る前で、密室に閉じ込められた2人の激しい殴り合いの気配としばらくの間があり、やがて静かに出てきたアルゴスの姿を見て絶望したマドロミが漏らしたこれが、弟の末路?……悔しいという心の底から絞り出すような一言に、宮沢りえの万感が込められて観客の胸を突き刺しました。

もはや自分たちの行動を自分たちで正当化するしかなくなった古神・会計・新人はオバちゃんをキルミーチェインジしましたが、ついに壊れた様子を見せた古神もまた、4階で遺書を書かされることになります。しばらく前から痴呆の気配を示していた古神でしたが、そうでもしなければ、何もかも忘れなければ、ここを生きて行くことができなかったんですと声を震わせながら真情を吐露し、さらにかすれる声で泣きながら私は自分の人生を覚えていたいです。これからも、いつまでもと絶望的に訴えました。この場面での橋爪功の渾身の演技には見ていて総毛立つ思いでしたが、古神はあっけなく窓から放り出され、今度はそのまま奈落の底へ……。

クライマックス。地下鉄のプラットフォームに立つ大勢の人々の前に置かれたビニール袋の中にはダプネーの命を奪った液体「サイレン」が満たされ、家元から「筆一本で世界を変えてこい」と言われて渡された傘でこれを突いたのは、会計、新人、そして実はアルゴスに殺されたのではなくアルゴスを殺して生き残っていたアポローンの3人。地下鉄の惨劇の背景にあった書道教室での無惨な真相を知ったマドロミの苦しみに満ちた述懐の中で、舞台は暗転していきました。

死んだ者たちの祈りは、届かなかった。けれども、こうして生きている者たちの祈りは、なおさら届かない。

……

もちろん、忘れるために祈るのよ。でもね、それでも忘れきれないものがのこるでしょう。そのことを忘れないために私は祈るしかない、起きたばかりのまどろみの中で。

プログラムの表紙(このページの一番上にある黄色い画像)の複雑な文様があの忌まわしい事件の被害者たちの姿なのだろうと気が付くのにしばらく時間がかかりましたが、一方でフライヤーに描かれた人物の顔を作っている拳を突き上げたり捻じ曲がったりしている人物たちは、この芝居で描かれたように自分たちの中に殺す者と殺される者との交錯を抱えていた加害者側のようにも見えます。そこには、被害者と加害者を相対化する意図がこめられているのでしょうか?しかし、被害者の立場からすればそれは断じて認められないことだろうと思いますが。

ともあれ、あれから15年というこのタイミングでこの題材をとりあげたことについて、野田秀樹はプログラムの中で次のように語っています。

以前からこの話は書きたいと思っていたんですよ。あの事件が日本の新しい歪みが表面化した始まりなんじゃないかと思っていたから。…(中略)…それは単発の異常性と言うよりは、出るべくして出たもので、それが現在なんだろうなと。それから、集団が持つ暴力性、どういう心理が、どういうふうに人を追い込むのかを、念入りに書いてみたいというのもあった。

スタッフのリストの中に「法務アドバイザー」があったように、この事件はいまだに生々しさを保っており、加えて主題が書道教室のスタッフや生徒たちが巻き込まれていくプロセスそのものにあるために、芝居の構造としては決着がついていない(たとえて言えば起承転結の「結」に至っていない)感があったのですが、ずっしりとヘヴィーな2時間余りの舞台がつきつけたものを本当に理解するには、さらに何年かの時間の経過を待つ必要があるのかもしれません。

マドロミがその世界で起きたことの真相を理解するのに、舞台上でのほぼ全ての時間を必要としたように。

配役

マドロミ 宮沢りえ
家元 古田新太
会計 / ヘルメス 藤井隆
ダプネー 美波
アルゴス 池内博之
アポローン チョウソンハ
新人 田中哲司
オバちゃん 銀粉蝶
家元夫人 / ヘーラー 野田秀樹
古神 / クロノス 橋爪功