御茶の水 / 錦木

2014/12/13

国立能楽堂(千駄ヶ谷)の普及公演で、狂言「御茶の水」と能「錦木」。この日が今年最後の観能ということになります。

快晴の空の下、開場時刻ちょうどに国立能楽堂に着きました。見所にはまだ客の姿はなく、広々とした国立能楽堂の客席と舞台が1時間後の開演を待っています。

開演13時。最初に、国文学研究資料館の小林健二教授が舞台上に立って、約30分にわたり「錦木の伝説をたずねて」と題する解説を行いました。この解説が大変わかりやすく興味深いもので、30分という時間を感じさせることがありませんでした。その内容をかいつまんでメモにすると、次のような具合です。

  • 「錦木」は、二つの和歌を物語にしている。それは、次の二首。
    • 錦木は立てながらこそ朽ちにけれ 狭布の細布胸合はじとや
    • 錦木は千束になりぬ今こそは 人に知られぬ閨のうち見め
  • しかしこれらの中に出てこない「塚」は、先行する能である「求塚」「女郎花」からアイデアをとったもの。この塚が女の家にもなることで、演劇的に立体化させることに成功した。これが、本曲を書いた世阿弥の演劇的工夫。なお、早くも天正年間にはフィクションであったはずの「錦塚」が名所(現在の秋田県鹿角市に存在)となっている。
  • 「錦木」は同じ恋の妄執物である「通小町」を手本としているが、一番大事な点が異なる。それは、「通小町」では死後の二人が懺悔語りのうちに成仏する宗教劇であるのに対し、「錦木」は恋愛の成就に力点がある人間劇であるという点である。これが、妄執物の中での世阿弥による新機軸。「錦木」の男女は生前に結ばれることなく死んだと思われているが、実はそうではなく生前に千日目にして会えたのだという解釈もある。確かに読み返してみると、前場の出からして二人は夫婦のよう、中入も二人で塚に入って行く、男は女に対して恋の怨みを言わない、女は男を見守る様子が窺える。これらのことから、契りたいという願望は生前に成就していて、夫婦の思いが強過ぎて恋の妄執となり、これを晴らしてもらいたいために僧の前に出たのではないか。この説は定説というわけではないが、そうした解釈もあるという目で後ほどの舞台を観てみて欲しい。

御茶の水

「御茶の水」はこれまでに二度観ていますが、いずれも山本東次郎家。茂山千五郎家によるものは初めてです。最初に出てきたアド/住持が当主の茂山千五郎師で、そのお姿は久々に拝見しましたが、やや背を丸めた一見よぼよぼ風の風体からは想像もつかないほどに張りのある声に、まず魅了されました。この話は、茶会用にと野中の清水を汲んでくるように住持から命じられた新発意しんぽちがその仕事をいちゃという若い女に押し付けたものの、実は新発意の狙いはいちゃと二人きりになる機会を作ることにあった……という内容ですが、不安げに清水を汲むいちゃが歌舞伎の女形風だったり、そのいちゃに背後から近づいた新発意がにやにや笑いを見せながら「推量さしめ」と迫るところは時代劇の越後屋風だったりと笑わせます。しかし、何といっても千五郎師。帰りの遅いいちゃを心配して野中に来てみれば、二人は「いざいざ汐を汲まうよ」等と声を合わせて謡い、いかにも仲睦まじげ。これに怒った住持が二人を扇で打擲するところから、新発意と住持の取っ組み合いになります。ここで新発意に加勢しようとするいちゃを振り返って一喝した住持が口調を変え絶妙の間合いで「(新発意の)足をとれ」と言うところが、住持の「素」を出したようで見所を爆笑させました。最後はドタバタのうちにいちゃと新発意は仲良く下がって行き、新発意に押し倒された住持も逃さじと追い込んで行くのですが、決して下品にはならず、様式性と演劇的おかしみが絶妙にブレンドされた舞台となりました。

錦木

世阿弥作の四番目物。改めて粗筋を紹介すると、次の通り(小学館・日本古典文学全集『謡曲集(2)』から)。

陸奥の狭布の里には恋する女の門に錦木を日ごとに立てる風習があった。女に思いを寄せて三年間も錦木を立て続けながら、ついに思いを遂げることができなかった男は、死後、僧の回向によって恋の執心から脱し、永遠の恋を成就できたのであった。

狭布きょうの里というのは架空の地名で、そこで男が立て続けた錦木とは五色に彩色された一尺ほどの木、これに対し女が家の中で織っていたのは鳥の羽で織られた細布です。

塚の作リ物が大小前に置かれてから、ヒシギに続く蕭条たる笛の音に導かれて舞台に登場したワキとワキツレの〈次第〉はげにや聞きても信夫山、その通ひ路を尋ねん。諸国一見の僧が従僧を二人従えて東国行脚の旅に出て、陸奥の狭布の里に着いたところです。ここで再び〔次第〕となり、紅入唐織着流女出立のツレ/女(高橋憲正師)と直面でモノトーンの素袍に白大口のシテ/男(佐野由於師)が登場しました。一ノ松に立つツレと三ノ松に立つシテとが〈次第〉狭布の細布をりをりの、錦木や名立てなるらんを謡いましたが、シテのやや金属質の高い声はあまり声量がなく、謡が囃子に埋没しがち。続く〈サシ〉は源融の陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに 乱れ初めにし我ならなくにの歌を、しかし歌意を変えて「われからと」と引用し、続くシテとツレの同吟で「阿漕」の詞章にも現れる藤原直子の歌海士の刈る藻に棲む虫のわれからと 音をこそ泣かめ世をば恨みじの引用に接続させるレトリックの技巧を示します。この後〈下歌〉〈上歌〉まで成就することのない恋慕の苦しみを謡う同吟がかなり長く続いてから、ツレは角へ、シテは正中へ入ってきましたが、常座から角へと真っすぐ進んでくるツレの姿が私の座っている席からは真正面となり、その「若草女」面のすっとした面立ちと立ち姿には吸い込まれそうな魅力を感じました。この後二人を夫婦と見て声を掛けようとするワキの言葉に女性の持ちたるは鳥の羽にて織りたる布と見えたりとあり、通常は左腕に水衣を畳んで細布に見立てたものをかけるものらしいのですが、流儀の常なのかこの日の演出なのか、ツレは何も手にしていません。一方、男の方は枝に紅緞を巻いたピンクサンゴ状のものを持っており、これが錦木である模様。ともあれ、ここから細布と錦木をめぐるワキとシテ・ツレとの問答となります。

それは何?と問うワキに対してツレとシテは自分の持ち物の説明をして当初の名物だから買い求めなさいと商売(?)を始めるのですが、名前は知っていても由来を知らないので教えて欲しいと重ねて問うワキに対してツレが(まあ、そんなことも知らないなんて)という口調でうたての仰せ候やと非難の目を向けると、シテがいやいやそれも御理。見れば世捨人であるようだから、恋慕の道の色に染められたこの錦木や細布のことを知らないのはもっともなことであると見事な返答をしてワキと見所とを感心させます。そしてシテとツレとがさらに説明を重ねてから地謡が錦木は立てながらこそ朽ちにけれ 狭布の細布胸合はじとやとこの曲の鍵となる和歌を謡ううちにツレは笛座前に移動し、シテは舞台を回って塚の前に立つと、日も傾いたので宿りに帰ろうと常座へ位置を移します。しかし、ワキがなおも錦木細布の謂れを物語って欲しいと求めるので、シテは正中に着座し、かつて三年の間錦木を立て続けて遂に虚しくなった男の昔話と、その遺骸を錦木と共に築き込めた錦塚の由来を語りました。その塚を見て土産話にしたいというワキに、シテはおういでさらば教へ申さん、ツレもこなたへ入らせ給へと立ち上がります。

夢幻能では、前場の登場人物が幽霊の本性を現し舞台の空気が陰惨なものへと変わる瞬間がありますが、この日の舞台ではツレが立ち上がったときがそれであったように思います。それは、直面のシテに対してやはりツレが掛ける能面の持つ呪術性が勝ったからなのでしょう。幽明の境を越えて錦塚へ通じる細道を歩む一行の描写は、秋の寒々とした夕暮れに露に濡れた草、日の当らぬ陰地の寂しさ、松桂の枝に梟、蘭や菊の花の陰に隠れる狐などとどこまでも心細いものとなり、その道行を静かに舞っていたシテが回って塚の横で正面を向くと、後ろから塚の内に中入。ツレも後見座で後ろ向きに下居しました。

松桂に鳴く梟、蘭菊の花に蔵るなる狐という詞章が前場の最後にありますが、これは白氏文集「梟鳴松桂枝、狐蔵蘭菊叢」に基づくもの。「殺生石」にも出てきますし、文楽「芦屋道満大内鑑」でも「蘭菊の乱れ」という段が存在します。

間語リでは、さらに詳細に男と女のいきさつが語られます。錦木を三年にわたり女の門に立てかけ続けたものの、女の父母が反対したために錦木が取り入れられることはなかったこと、精力が尽きた男が死んだときに女も悲しんで後を追うように死んでしまい、さては相思相愛であったかと不憫に思った両人の親たちが錦木と二人の亡骸を塚の内に築き込めたこと。また、細布は鷲や熊鷹から幼児がさらわれることのないように鳥の羽で織った布を着せるという呪いであるということ。

さらに、喜多流「粟谷能の会」のブログを拝見すると、「錦木」の女は願掛けしながら三年三月の細布織りに勤しんでいたために男の錦木を取り入れることができなかったという鹿角の錦木伝説の紹介がなされていました。冒頭の解説で紹介されていたように現世で結ばれていたという解釈ではありませんが、女もまた男と結ばれたいと願いながら、かなえられずに男の後を追うことになったというわけです。

アイの勧めに応じてワキとワキツレが供養を始めると、〔出端〕の囃子となってツレは立ち上がり、こちらを向いてゆっくりと常座へ。そしてツレがワキに読経の御礼を述べますが、その謡の中に夢ばし覚まし給ふなよとこれがワキの夢の中の出来事であることがはっきりと示されています。そしてシテは塚の内から謡い出し、地謡が詞章を引き取るうちに作リ物の引回しが外されて、床几に掛かった姿を現しました。黒頭、硬質な印象の「錦木男」面、緑系に金の法被を肩脱ぎにして朱色の着付を見せ、半切は黒地に金の箔で手には扇。水衣は着ておらず、その異形の姿には見所が息を呑みました。

ここで、これまで塚であった作リ物は、内に灯火が明るく輝く女の家となり、機物を立て錦木を積んだ昔の様子を見せていることがワキの言葉で描写されます。シテと入れ替わりに作リ物の中に入ったツレは下居して機織る様を示し、シテは左手に錦木を持って女の家に近づくと扇で作リ物の柱を敲きましたが内より答ふる事もなく、密かに音するものとては、機物の音、秋の虫の声。男の錦木を、女は受け入れてくれません。ここでシテとツレが発する擬音きり、はたり、ちやうは「松虫」でも用いられていましたが、シテとツレとによってきりはたりちやうちやうと切れ切れに謡われると寂しさがひとしお募るようです。この擬音を地謡が謡い継ぐ間に舞台を回ったシテは塚の前から数歩後ずさってがっくりと安座し、〈クリ〉の間にツレが作リ物を出て脇座へ移る間も放心したように座り込んでいました。

しかしシテ=男の亡霊は、さらに仏の功徳を得るために三年間錦木を立て続けた様子を懺悔の物語りとして語り続けます。地謡による〈クセ〉は、錦木を運ぶ男と家の中で細布を織る女とが互いに内外にいることを知りながら閉ざされたままの戸に隔てられ、夜明けと共に男がすごすごと帰って行くことを繰り返すうちに、鮮やかな錦木も色褪せて苔の下に埋もれていく様子を描写します。この間シテも、錦木を手に立ち上がって脇座に進み、ツレの前に錦木を置いて作リ物の前に戻ってから遠くツレを見やる様子を示しますが、その報われない努力にはなんともやるせない気持ちになってきます。さらに扇を前にツレに向かったシテは、袖を返して足拍子。安座して横から覗き込むようにツレを見やってから錦木を取り上げたものの、などや見みえ給はぬぞ、さていつか三年は満ちぬ、あらつれなやつれなやと錦木を取り落とし、立ったままシオリました。

ところが、ここまで過去の悲恋物語を懺悔の形に物語った後に、一転してシテは錦木は千束になりぬ今こそは 人に知られぬ閨のうち見めと悲願成就の喜びに包まれることになります。ユウケン扇でその感情を表現した後の舞は、流儀によっては黄鐘〔早舞〕であったり〔男舞〕であったりしますが、この日は〔中ノ舞〕。恋慕の情が満たされた若者の喜び全開という感じではなく、それまでの執心から解き放たれた安堵のようなものを感じました。しかしキリの詞章の中には成仏を得たことへの感謝はなく、女と結ばれたことの喜びと羞恥とが露わであるので、やはり解脱の安堵ではなく成就の歓喜がここでのシテの心持ちなのだろうと思いますし、それは生前には得ることのできなかったものではなかったかという気がします。ともあれ、ひとときの高揚にシテが身を委ねるうちにワキの夢も覚めて、舞台は風が松に吹き渡る野原の中となり、シテは常座で左袖を返して留拍子を踏みました。

配役

狂言大蔵流 御茶の水 シテ/新発意 茂山七五三
アド/住持 茂山千五郎
アド/いちゃ 茂山茂
宝生流 錦木 前シテ/男 佐野由於
後シテ/男の霊
ツレ/女 高橋憲正
ワキ/旅僧 殿田謙吉
ワキツレ/従僧 野口能弘
ワキツレ/従僧 梅村昌功
アイ/所の者 茂山千三郎
松田弘之
小鼓 住駒幸英
大鼓 亀井実
太鼓 小寺真佐人
主後見 宝生和英
地頭 田崎隆三

あらすじ

御茶の水

→〔こちら

錦木

旅の僧の一行が陸奥国狭布の里を訪れると、錦木を持った里の男と、細布を持った里の女が現れる。男女は錦木・細布がこの地方の名産であることを述べ、錦木にまつわる昔の恋物語を語って聞かせる。二人は、その恋に破れた男の墓へと僧たちを案内し、そこで姿を消してしまう。僧が弔っていると、在りし日の姿の男女が現れ、昔の辛く悲しい思い出を語り、死後ようやく結ばれたことを喜び、舞を舞う。