鱗形 / 舟船 / 唐船
2016/01/31
国立能楽堂(千駄ヶ谷)の特別公演で、能「鱗形」、狂言「舟船」、能「唐船」。
金曜日頃までの天気予報では金曜日から土曜日にかけて都心でも積雪ありとのことだったのですが、結局はかすかに雨が降った程度で終わり、日曜日のこの日は青空も見えていました。
鱗形
江ノ島の弁財天の奇瑞を主題とするこの稀曲は、先行作品からの引用が随所に見られ、江戸時代初期頃の成立と目される作品だそうですが、現在では金剛流と喜多流が流儀の曲としているそうです。前後二場を持ちながら約45分と短い小品でしたが、とりわけ後場の躍動感が素晴らしく、見どころがくっきりしていて価値ある鑑賞となりました。
大小前に一畳台、そして宮の作リ物が置かれ、強く高いヒシギから大小の気合の入った打音とヴィブラートの効いた掛け声に導かれて風折烏帽子に素袍・白大口のワキ/北条時政(高安勝久師)が長裃姿のワキツレ二人を伴って登場し、舞台上で向かい合って〈次第〉八百万代を治むなる、弓矢の家ぞ久しき
。〈名ノリ〉に続いて旗の紋を定めるために江ノ島の弁財天に21日間参詣することをワキが語ると、弓矢の霊力を語る謡の後に江ノ島に着いた旨の台詞。そして、今夜は社の内に泊まろうとワキが脇座に向いたとき、さっと揚幕が上がって鏡ノ間の内からワキの背中に向かってなうなう時政に申すべき事の候
と前シテ/女(廣田幸稔師)からの声が掛かりました。その声の響きは深いエコーがかかったようで、いかにもこの世のものならぬ雰囲気。あなたは誰?と訝しむワキの問い掛けに対して正面からは答えようとせず、ただ時政の望みを叶えようと自分は現れたのだと言いながらゆっくり橋掛リを進むその姿は、紅入唐織着流で面は神秘的な面持ちの増。舞台に進んで時政の信心の深さを愛で、神の加護を謡う地謡を聞きながら扇を手に小さく舞っていたシテは夜の汀に待ち給へ、望みを叶え申さん
とワキに告げると、素早く常座に戻り、ゆっくり後ろを向いて宮の中に入って行きました。
狂言座に控えていたアイ/所の者(松本薫師)による間語リは、『江島縁起』に即して欽明天皇の御代に天女が十五童子を従えて現れ江の島を造ったこと、弁財天が時政に授ける大蛇の鱗3枚を旗の紋とすれば天下泰平となるであろうこと、これも信仰篤いことによるものであることを心得るべきことを告げるもの。
アイが狂言座に下がって〔出端〕の囃子となり、地謡がご殿頻りに鳴動して、日月光り雲晴れて
と謡うと宮の引き回しが外され、その中に床几に掛かった後シテ/弁財天が現れました。その姿は、鱗文様の摺箔を覗かせて上に光沢の美しい薄い舞衣、下に緋大口、そして頭上には鳥居を戴いた天冠が輝き、赤地に金の三ツ鱗紋の旗を持っています。そもそもこれは、この島を守護し奉る、胎蔵界の、弁財天とは我が事なり
と厳かに名乗ったシテは前に出てワキに旗を授け、ワキもこれをワキも恭しく受け取ります。そして、ここから〔中ノ舞〕。詞章の上では数々の童子が絃管を鳴らしていることになっていますが、舞台上では太鼓を含む囃子方が活躍。〔中ノ舞〕は優美でありながら力強く、所々の足拍子や袖を返す速さには神々しさが溢れます。そして〔中ノ舞〕の後に続くキリの地謡も囃子方もフォルテシモでシテの舞を後押しし、その見所を圧倒する音圧の中で、たとえ敵が押し寄せてきてもこの旗をさし上げれば自分は身を変じてその敵を払うであろう、ただ信心をせよと地謡(弁財天)がワキに告げるとワキは平伏。そしてシテは扇を縦に持って社殿の扉を押し開く様を見せながら正先から常座へ戻り、そこで留拍子を踏みました。
舟船
先日観た「鴈雁金」と同様に、登場人物二人が古典を引き合って物の呼び名の正しさを競い合うという筋ですが、こちらは主と太郎冠者という主従関係の中で教養が逆転しているところが面白みとなっています。2010年に野村万作・裕基の祖父と孫コンビで観て強烈に面白かった曲ですが、この日の善竹忠重・十郎コンビも、おおらかそうでいて実はちょっと短気な主と、忠僕のようでいて飄々と主をやりこめてしまう太郎冠者をそれぞれ巧みに演じて楽しいものでした。なお「褻にも晴れにも歌一首」と揶揄されたように主は「ふな」と読む歌を柿本人麻呂(と信じられていた歌)しか知らず、野村万作師の主はこれを変奏して僧正遍昭バージョンと小野小町バージョンを聞かせたのに対し、善竹十郎師が二つ目の応酬で主は猿丸大夫の早歌だと強弁した後すぐに「三井寺」の謡の引用に移ったのは、流儀の違いか時間短縮のためだったのか定かではありません。最後は逆ギレした主に向かって恐縮して見せた太郎冠者でしたが、心の中で舌を出しているのが見えるようでした。
唐船
豊臣秀吉が好んだ能で、文禄・慶長の役で名護屋(肥前)に在陣の折には自ら舞ったほど。舞台は箱崎(現・福岡市)で、ここは日宋貿易の拠点としても栄えた港町だそうですから、当地における史実を踏まえたストーリーとも言えそうです。ただ、謡う部分も多い四人もの優秀な子方を揃えなくてはならない難点から、潜在的な人気が高い割にめったに出されない
(プログラムの解説)のだそうです。
流麗な〔名ノリ笛〕に乗って登場したのは、太刀持ちのアイ/従者(大藏吉次郎師)を伴ったワキ/箱崎某(福王和幸師)。立烏帽子に直垂長袴ですらりと長身・イケメンぶりがますます際立ちます。〈名ノリ〉の中でワキは唐との船争いから相手の船を留め置き、乗っていた祖慶官人を13年も抑留して牛馬の世話をさせていることを語り、ついでワキの命によってアイが(その場にはいない)祖慶官人に対して野飼いに出よとの命令を伝えたところで〔一声〕となって、今度は唐子二人とアイ/船頭(大藏千太郎師)が登場しました。唐子のソンシとソイウは祖国に残されていた祖慶官人の子供たち。赤い着付の上に側次、白大口。船頭は唐風の帽子に側次でいかにも異国風です。一ノ松と二ノ松の間に置かれた船の作リ物(船形の枠だけ)の上で二人の子方は、父恋しさに明州の津から船を出して筑紫路箱崎にやってきた旨を高い声でしっかりと謡いました。出航から到着までの間は船頭が立てた帆柱に、赤を中心に緑黄紫と左右に縦縞を連ねる帆が掛けられ、航海の様子が視覚的にも示されます。ついでソンシは船頭に、船頭は箱崎の従者に、そして従者はワキに、それぞれ来航の趣きを伝え、ワキは唐子たちと対面することになりました。
舞台に進んだ唐子二人がワキと向かい合うと数の宝に代へ連れて
(船に積んできた宝と引き換えに父を返してもらって)帰国するべくやってきたとソンシが堂々の口上。その口上に気圧されたか宝に目がくらんだか、ワキは「祖慶官人は参詣に出掛けているから暫く待つように」と口から出まかせ。唐子たちが後見座に下がったところでワキは、祖慶官人が牛馬の世話をさせられていることを唐子たちに知られぬために裏から帰れと祖慶官人に伝えるよう従者に命じました。この間に、船頭は船の帆を巻き帆柱を外して、船の作リ物を橋掛リの奥側の勾欄に立て掛けてから狂言座に控えます。
ワキの命に従って従者が揚幕に向かって触れる言葉をきっかけに再び〔一声〕となって、今度は日本子二人とシテ/祖慶官人(武田志房師)が家路を急ぐ姿で登場しました。日本子は祖慶官人が日本に抑留された後に設けた子供たちで、したがって唐子たちよりも年若いという設定ですが、実際には唐子の二人も日本子の二人も皆2005年生まれでした(この設定のゆえに唐子を大人が演じる場合もあるそうです)。紅白の着付の上に紅の小袖を腰巻にした日本子たちを先に立てて現れたシテの出立は頭巾を被り茶色の水衣で、面は阿古父尉。牛を追う笞らしきものを手にしています。〈名ノリ〉のうちに唐土・日本のそれぞれに持つ子供たちのことを思い、二ノ松から見所を見渡して野飼いの牛ですら子を思うのであるから自分はなおさらと嘆いてみせました。ここで日本子二人がかわいいユニゾンでシテに唐でも牛は飼うのか?唐と日本とはどちらが優る?と訊ねると、シテはもちろん唐でも牛は飼うし、比較するなら日本は九牛の一毛に過ぎないと説明します。それでは故国が恋しいでしょう?と健気に問う日本子たちに対し、いやお前たちをもうけて後は帰国のことも考えぬと語るうちに一行は舞台に入っており、日本子たちは地謡前へ、シテは常座へ。シテが笞を後見に渡して扇を受け取ったところで、ワキは立ってシテの遅い帰着を咎めました。以下、正中に下居したシテと脇座に立つワキとの問答を通じて、祖慶官人は二人の唐子が船を仕立てて日本に来たことを知らされます。正先から橋掛リを指し示されて自分の船がそこに係留されていることを見てとったシテは驚きましたが、対面せよとのワキの言葉にいったん大小前で物着となって水衣を脱ぎ、居住まいを正しました。この間に後見座から一ノ松に移動していた唐子二人に向かってシテはやあいかにあれなるは唐土に留め置きたる二人の者か
、これに対して唐子二人もさん候、わらは名そんしそいうなり
と名乗り、シテが扇を掲げて二人を舞台に招き入れて感動の対面となります。これを見て日本人も随喜し、箱崎の神も納受し給うと地謡が謡ううちにシテが合掌したところで、船頭は追風が吹いてきたので早く船に乗るようにと親子三人を促しました。
ところが、ワキの帰国許可を得て立ち上がったシテが船に乗ろうとしたところで、日本子たちはあら悲しや我らをも連れて御出で候へ
と声を張り上げます。これを背中で聞いたシテがげにげに出船の習ひとてはたと忘れてあるぞ
と言うのはずいぶんな話ですが、日本子たちも船に連れて行こうとしたときにワキから暫く
と鋭い声が掛かりました。この子らはここに生まれた以上、自分が召し使うのであるから行ってはならないというのがワキの弁で、これを聞いて日本子はあら情けなの御事や、大和撫子の花だにも、同じ種とて唐土の、唐紅に咲くものを、薄くも濃くも花は花、情けなくこそ候へとよ
と精いっぱいの声を上げましたが、かたやソンシとソイウは時刻移りて叶ふまじ、急ぎお船に召されよ
とシテに迫ります。左に唐子二人、右に日本子二人、その間でシテはおろおろとしていましたが、地謡に詞章を預けて五人同時に舞台上に座してシテのシオリ。〈クセ〉の詞章を聞きつつ正中に座していたシテは今は思へばとにかくに
と覚悟を決めると、船にも乗るまじ
と日本子を見やり、ついで留まるまじ
と唐子を眺めて巌に上がりて十念し
で扇を腰に差し手を合わせ、身を投げようと正先に進むところで四人の子方がさっとシテの袖をつかんで引き止めて一斉にシオリ。さすが心も弱々と
正中によろめき下がったシテは、崩れるように座り込んで両手で顔を覆ってしまいます。
さすがにこれにはワキも哀れを覚え、はやはや暇取らするぞ、とくとく帰国を急ぐべし
と声を掛けました。この間に子方四人は笛座前へ移り、船頭は素早く船の作リ物を脇正に動かしましたが、シテはワキの改心がにわかには信じられず「本当?」「疑うな」といった問答があって、ようやく喜びに包まれたシテはありがたの御事や
とワキに向かって合掌します。脇正の船の、中ほどやや後ろ寄りに日本子二人を前、唐子二人を後にして子方四人が座り、その後ろには船頭。シテは扇を唐団扇に替えて船の先頭に乗りました。
ここまででも十分に劇的で見応えがあったのですが、実はこの能の眼目はここから始まる船中の〔楽〕です。「邯鄲」の一畳台の上での〔楽〕と同様、ここではほんの二、三歩しか動けない船の作リ物の中での舞となりますが、《盤渉》《手掛之応答》の二つの小書によって華やかさを増した笛の音に導かれ、団扇を振るい足拍子を交えながら長大な〔楽〕が舞われるうちに、不思議なことにその舞はあたかも舞台全体を甲板として広々と舞われているかのように見えてきました。やがて永遠に続くかと思われた〔楽〕にも終わりが訪れてキリの詞章となり、追風を受けた船には帆が掲げられた後、シテが船の作リ物から一歩出てワキに向かう形となり、太鼓がイヤーと最後の掛け声を掛けた瞬間に子方四人がさっと立ち上がったところで留の一打が打たれました。
とことんドラマティックな劇能で、90分という時間も長さをまったく感じさせません。シテの名演はもとより、上述の通り場面ごとに手の込んだ型付が各役柄に対してなされており、作リ物の扱いの手際良さも求められますが、ここは子方四人と船頭が見事でした。子方の中ではソンシ役の子方がとりわけ立派に謡や台詞をこなしていて感心しましたが、ソイウの子も同吟では頑張っていたものの、最後に船の中で足がしびれてしまったらしくもじもじと辛そうだったのがちょっと気の毒。ともあれ、なかなか上演機会がないというこの曲を高いクオリティの舞台として観ることができて、大変幸運でした。
配役
能金剛流 | 鱗形 | 前シテ/女 | : | 廣田幸稔 |
後シテ/弁財天 | ||||
ワキ/北条時政 | : | 高安勝久 | ||
ワキツレ/従者 | : | 小林努 | ||
ワキツレ/従者 | : | 丸尾幸生 | ||
アイ/所の者 | : | 松本薫 | ||
笛 | : | 槻宅聡 | ||
小鼓 | : | 林吉兵衛 | ||
大鼓 | : | 谷口正壽 | ||
太鼓 | : | 観世元伯 | ||
主後見 | : | 金剛永謹 | ||
地頭 | : | 金剛龍謹 | ||
狂言大蔵流 | 舟船 | シテ/太郎冠者 | : | 善竹忠重 |
アド/主 | : | 善竹十郎 | ||
能観世流 | 唐船 盤渉 手掛之応答 |
シテ/祖慶官人 | : | 武田志房 |
子方/日本子 | : | 武田章志 | ||
子方/日本子 | : | 長山凛三 | ||
子方/唐子 | : | 藤波重光 | ||
子方/唐子 | : | 馬野訓聡 | ||
ワキ/箱崎某 | : | 福王和幸 | ||
アイ/箱崎の従者 | : | 大藏吉次郎 | ||
アイ/船頭 | : | 大藏千太郎 | ||
笛 | : | 藤田次郎 | ||
小鼓 | : | 観世新九郎 | ||
大鼓 | : | 國川純 | ||
太鼓 | : | 桜井均 | ||
主後見 | : | 武田宗和 | ||
地頭 | : | 浅見真州 |
あらすじ
鱗形
未だ旗印の決まっていなかった北条時政が弁財天に祈願していると、里女が現れて時政の望みは叶うと告げる。二十一日間祈り続けると大地の鳴動と共に弁財天が現れて三ツ鱗の旗を授け、この旗を掲げれば四方を的に囲まれようとも敵を平らげることができると告げて、再び社殿の中に消えていく。
舟船
→〔こちら〕
唐船
唐土の明州の津に住んでいた祖慶官人は、唐土と日本との間の争いで捕らえられて日本に留められ、箱崎の某の使用人となった。牛飼いをして過ごすうちに二人の子をもうけ、気が付くと13年が経っていたが、唐土に残された二人の子は父の生きていることを知り、船に積んだ宝を父に換えて帰国しようと箱崎にやってくる。そのことを知らされた祖慶は箱崎某の許しを得て帰国しようとするが、日本でもうけた二人の子を連れ帰ることが許されず、板ばさみになり海に身を投げて死のうとする。その親の心の哀れさに打たれ、箱崎の某は祖慶が日本の二人の子を連れて帰国することを許す。親子は喜び楽を奏して、出船に乗り唐土を目指す。