塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

桜鍔恨鮫鞘 / 関取千両幟

2016/02/11

国立劇場(隼町)での文楽公演。切り場語りの太夫・豊竹嶋大夫の引退披露狂言「関取千両幟」がこの日の眼目です。さらに今回は、風貴銘酒会でときどきご一緒する大塚さんがチケットを手配して下さった上に、人形遣いの吉田文司師が舞台裏を案内して下さるというスペシャルな企画付き。

国立劇場の楽屋口で大塚さんと待ち合わせて中に入り、文司師が出てこられるのを楽屋の近くの廊下で待っていたのですが、和生師やら勘十郎師やらが普通にうろうろしておられて、こちらはどぎまぎ。もしここに住大夫がおられたら、怖くて一歩も進めないだろうな……などと思っていたところで文司師とお目にかかることができました。とても気さくで明るい文司師にご案内いただいて奥に進み、人形を持たせていただいたり(首の目や眉、右手の指が動く仕掛けを操作することができました)、舞台の舟底に入らせていただいたり、文楽廻し(盆)の裏を覗かせていただいたり。知識としては知っていたことでも、実際に五感で触れてみると、人形の重みの大変さや舞台の大きさが実感として理解でき、大変貴重な機会となりました。文司師、大塚さん、ありがとうございました。

桜鍔恨鮫鞘

この演目は昨年11月に大阪で観たばかりなので、ここではこまごまとは記しません。

それにしてもこれは、無残というか何というか救いのない話です。ことに八郎兵衛が娘・お半の目の前でお妻の死骸を足蹴にしてひっくり返しぐさぐさと刀を突き立てる場面など、今ならR指定があってもおかしくないほど残酷で、これには隣に座っていた大塚さんも「うわー!」と驚いていましたが、それもそのはず、この演目の東京での上演は実に1971年以来ほぼ45年ぶりで、したがって文楽に造詣の深い大塚さんもこれは初めて観たのだそうです。

関取千両幟

嶋大夫匠は、昭和23年(1948年)に三代豊竹呂大夫(後の十代豊竹若大夫)に入門し、昭和29年(1954年)に呂大夫を襲名したものの、昭和30年(1955年)にいったん退座。10年余りのブランクを経て昭和43年(1968年)に復座し、八代豊竹嶋大夫を名乗りました。こうした紆余曲折の経緯については、プログラムの中で山川静夫氏が詳細に解説していますが、これを読むと文楽の太夫が生きる芸道がいかに厳しいものであるかということが理解されます。しかし平成六年(1994年)には切場語りに昇進し、その後の名演のいくつかは私も幸いにして拝聴しています。そして昨年10月に重要無形文化財保持者に認定され、これを花道として83歳での引退となりました。

盆が回って、床の上に嶋大夫が三味線の鶴澤寛治師と共に登場。もちろん客席から万雷の拍手です。そして同じく床の上に現れた呂勢大夫が弟子として嶋大夫匠の引退の口上を述べました。頭を下げてこれを聞いていた嶋大夫、口上の終了と共に床の上に見台が持ち込まれて語りの態勢に入ると、客席からは「嶋大夫!」「たっぷり!」といった声が掛かりました。大坂堀江界隈の賑わいを彷彿とさせる三味線に乗って芝居は南、米市は北、相撲と能の常舞台、堀江堀江と国々へ鳴り響きたる猪名川が、相撲の内は夫婦連れ、ここに堀江の仮住居と語り始めた嶋大夫は、見た目はっきりと痩せていましたが、声には張りと艶があり、引退なんてまだ早いのではないのか?と思わせます。

「関取千両幟」は、近松半二ほかの合作の全九段の世話物。明和四年(1767年)に大坂竹本座で初演され、現在では二段目のみが上演されているそう。相撲取り猪名川とその妻・おとわの情愛がこの段の主題で、嶋大夫のおとわをはじめ、一人一役の掛合形式で語られます。このため床の上には嶋大夫以外に見台が三つ置かれて太夫たちが代わる代わる登壇するのですが、この日嶋大夫をサポートする津國大夫、呂勢大夫、始大夫、睦大夫、芳穂大夫は、いずれも嶋大夫の教えを受けた太夫たち。

舞台は勧進相撲に出ている人気力士・猪名川の仮住まいで、舞台上手の床の間の掛け軸には「摩利支尊天」の文字、下手の屋外には米俵と剣菱マークの酒樽。登場した猪名川を遣うのは吉田玉男師で、人形のきりりとした顔立ち(首は文七)が玉男師そっくり。かたや敵役の鉄ヶ嶽を遣うのは先ほどお世話になった吉田文司師、甲斐甲斐しく夫の世話を焼く女房おとわは吉田簑助師です。今日の相撲割り(取組)が届かないことを訝しむ猪名川のところへ新町の大坂屋からの使いがやってきて、主筋・礼三郎のために猪名川が身請けをしようとしている錦木太夫の身請けの後金二百両を今日中に用意できなければ、太夫はよその客に身請けされることを告げ、しかも鉄ヶ嶽の口から、その「よその客」が鉄ヶ嶽(の主・九平太)であることが明かされて舞台は一気に緊迫します。錦木太夫を譲って欲しいと頼み込む猪名川に対し、意趣(前の段で猪名川は礼三郎の恋敵である九平太を懲らしめています)のある鉄ヶ嶽はどついたり煙管で打ったりと散々に打擲(文司師、実はこんなに悪い奴だったのか……)したところに今日の相撲割りが届き、今日の取組は「鉄ヶ嶽に猪名川」であることがわかります。錦木が身請けの事は俺次第。ヲ丶この鉄ヶ嶽が心次第ぢや程に、魚心あれば水心。猪名川、土俵で逢はう(現代語訳:「八百長で敗けろ」)と言い捨てて去って行きました。

独り残された猪名川は、鉄ヶ嶽に星を譲る覚悟を一度は決めますが、いはば一生懸命の、大事の相撲を金ゆゑに、振つてやる猪名川が、心の内の切なさ、穢さ。摩利支天にも見放され相撲冥加に尽きたかと慟哭します。これを奥で立ち聞きしていたおとわは、素知らぬ風で猪名川に声を掛け、髪が乱れているからと鏡を猪名川の前に置き、猪名川の後ろに立って櫛で髪をなで付けますが、この場面では嶋大夫の語りと三味線に胡弓が加わって、映せば映る、顔と顔と夫婦の情愛がしみじみと伝わり、こちらもじんわりきてしまいます。さらに、相撲に行ってくれるなと訴えるおとわに猪名川が苦しい胸の内を明かすと、相撲取りを男に持ちからおとわのクドキが切々。嶋大夫節全開のこの語りが聞けただけで、この日国立劇場に足を運んだ甲斐があったというものです。

黒御簾からテケテケと櫓太鼓の音が響き、首尾よく行かねば命もかける覚悟を示して猪名川が相撲場に向かい、おとわも後を追って場面が変わるところで浅葱幕が降り、嶋大夫が下がった床の上には若々しい鶴澤寛太郎師。呂勢大夫の短い口上に続いて、三味線の曲弾きが行われました。最初は普通に撥を用いた早弾きが行われるのかと思っていたのですが、左手の指を使ってはらりと弾いたり、ハンマリングやプリングが多用されたり、さらには左手のプリングで弾きながら撥を糸巻きの上に微妙なバランスで横に立たせたり(かなり難しいらしく時間がかかり、客席はハラハラ)、三味線を逆さに立てたり顔の前に横たえたり、ついには撥でボトルネック奏法を見せたり。こんな具合にケレン味たっぷりの曲弾きを時折の掛け声以外は無表情に演奏して見せた寛太郎師が下がると床の上には嶋大夫ほかの太夫が戻ってきて、柝が入り幕が落ちると、舞台上は相撲場になっていました。中央には土俵、ぐるり周囲には見物の町人たち。土俵上の行司の差配で向かい合う猪名川と鉄ヶ嶽はもちろん裸体にまわしを締めた力士姿。特に鉄ヶ嶽は大量に塩をまいたり両腕を突き上げるポーズを見せたりとパフォーマンスが派手で、舞台上の町人たちもこちら側の客席も大喜びです。いよいよ立ち合い。がっちり組んで押し合いへし合いする相撲の様子はかなりの迫力ですが、勝ちを譲るために猪名川が押し込まれたと見えたときに進上金子二百両猪名川様へ贔屓よりとの声が掛かりました。これを聞いて盛り返した猪名川は鉄ヶ嶽を土俵の外に突き出し、見物衆も大喝采(さすがに座布団は飛びません)。

ここで上から降りてきた幕は丸太の木組みに菰張りの相撲場の外観で、見物を終えた町衆が三三五五出てくる場面に移ります。そこへ出てきた猪名川に下手から声を掛けたのは、駕籠を伴って待っていた島之内の茶屋の主・北野屋七兵衛。その七兵衛が二百両の纏頭はなの旦那だと言って引き合わせたのは、駕籠に乗ったおとわです。ヤアわりや女房かと驚く猪名川におとわが猪名川殿、随分まめでゐてくださんせと別れを告げたので、猪名川は妻が身を売って二百両を工面したことを知ったのですが、そこで一言女房ども、何にも言わぬ忝いでおしまい。

「桜鍔恨鮫鞘」では五十両のためにお妻は命を捨て、「関取千両幟」では二百両のためにおとわが身を売る。いずれも夫の窮地を救おうとする健気な覚悟からの行動ですが、もとを正せば夫の主筋の要り金を用立てるため。色と金の世の中を生きる江戸時代の庶民の妻の立場というのは本当に難儀なものだと、文楽を観るたびにつくづく思います。こういうがんじがらめの価値観を背景とした文楽の中で描かれる女性像をどう思うか、一度じっくり女性の方に訊ねてみたいものですが、幸いおとわの方は六段目で礼三郎の父・鶴屋浄久禅門が金を出してくれたために猪名川が身請けできたのだそうで、それを知って多少はほっとしました。ともあれ、こうした理不尽を理不尽と思わせず登場人物に感情移入させるのが太夫・三味線・人形遣いの三業の芸の深さで、とりわけ嶋大夫にはその情感を絞り出すような語り口に毎度ノックアウトされていました。もうその芸に触れることができないと思うと、ここ数年文楽鑑賞から遠ざかっていたことが悔やまれます。

「関取千両幟」の幕切れは、ゴーンと鳴る鐘の音を聞きながら嶋大夫が内は嘆きに暮れ近く、入相告げる鐘諸共、別れ別れに急ぎ行く。最後まで声の張りを失わずに語り切った嶋大夫は、床に一人残って客席に向かって手をつき、これ以上ないほどの大きな拍手を浴びていましたが、やがて盆が回ってその姿は屏風の向こうに消えました。

国立劇場の外では、劇場専属ゆるキャラのくろごちゃんが愛想を振りまいていました。カメラを向けるとポーズをとってくれて、サービス精神旺盛。見た目もかわいい(?)し、伝統芸能発展のために、ゆるキャラグランプリで上位入賞を目指して欲しいものです。

配役

桜鍔恨鮫鞘 鰻谷の段 豊竹松香大夫
野澤喜一朗
豊竹呂勢大夫
鶴澤清治
豊竹咲大夫
鶴澤燕三
〈人形役割〉
香具屋弥兵衛 吉田勘市
てんぽの十兵衛 吉田蓑紫郎
お妻の母 吉田蓑一郎
女房お妻 桐竹勘十郎
娘お半 吉田玉誉
古手屋八郎兵衛 吉田和生
仲仕銀八 吉田玉志
捕手 大ぜい
関取千両幟 猪名川内より相撲場の段 おとわ 豊竹嶋大夫
猪名川 豊竹英大夫
鉄ヶ嶽 竹本津國大夫
北野屋 豊竹呂勢大夫
大坂屋 豊竹始大夫
呼遣い 豊竹睦大夫
行司 豊竹芳穂大夫
猪名川内 鶴澤寛治
相撲場 竹澤宗助
曲弾き 鶴澤寛太郎
胡弓 野澤錦吾
〈人形役割〉
猪名川 吉田玉男
鉄ヶ嶽 吉田文司
女房おとわ 吉田簑助
大坂屋 桐竹勘介
呼遣い 吉田和馬
行司 吉田玉路
北野屋 桐竹紋壽
見物人 大ぜい
駕籠舁 大ぜい

あらすじ

桜鍔恨鮫鞘

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関取千両幟

人気力士の猪名川は、贔屓筋の若旦那・礼三郎が恋慕する錦木太夫の身請けの後金二百両を工面しようとしているが、今日中に工面できなければ他の客に渡されてしまう。他の客とは、この日の取組相手の鉄ヶ嶽のこと。「魚心あれば水心」と八百長をほのめかされて苦悩する猪名川に、女房おとわは夫の乱れた髪を撫で付けながら本心を問う。

取組が始まり、ついに鉄ヶ嶽に負けようとするとき「進上金子二百両」の声が掛かり、猪名川は鉄ヶ嶽を倒す。しかし、この金は女房おとわが身売りして作った金だった。