邯鄲

2018/03/24

今日はセルリアンタワー能楽堂で、喜多流による「邯鄲」。この能楽堂に足を運ぶのは久しぶりですが、国立能楽堂とのサイズの違い(もちろん舞台は同じ広さですが橋掛リの長さが格段に違います)と見所から舞台への近さとに改めて驚きました。

最初に行われた金子直樹氏による解説は、「邯鄲」のあらすじ紹介と、「邯鄲」における能ならではの象徴的な表現法、スピーディーな舞台転換を見逃さないようにとの注意喚起。

ついで仕舞「枕慈童」を舞うのは友枝昭世師ですが、師の無駄のない体躯が繰り出す流れるような舞は、この後の「邯鄲」でシテを勤めた友枝雄人師にも受け継がれているものでした。

邯鄲

四番目物にして唐物の「邯鄲」はこれまで、観世流(シテ:梅若紀彰師)と金春流(山井綱雄師)の二回観ています。よってもはやあらすじをこまごまと追っての説明は省略しようと思いますが、今回も見どころ多く、セルリアンタワーに足を運んだ甲斐があったと思うことができました。

黒頭、邯鄲男面、赤地に金の唐草文様(?)の法被と装飾的な市松模様の半切の出立ちで登場したシテの友枝雄人師は、私の耳に聞こえたところでは美声とはちょっと言いにくい、やや高めのかすれ系の声質。特に冒頭の〈次第〉から道行までをその声質でじっくりタメながら謡うために、主人公・盧生が青年とはちょっと思えません。ところが、アイ/宿の女主人(山本則孝師)との会話により不思議の枕のことを知ったところでは、身を乗り出さんばかりの気持ちが声にこもり、印象が変わりました。

さらに眠りについた盧生の枕元をワキ/勅使(殿田謙吉師)が扇で打ったときに一瞬で(驚いたように)起き上がったその速さからシテの身体能力の高さを予感しましたが、この予感は的中。子方による舞の後にシテが宮の内に立ってふっと唐団扇を上げると舞台上の空気が変わり、一畳台の中で舞うシテの姿の美しさには徐々にダイナミズムが加わっていきます。続く「空下リ」で足を舞台上に落とさず寸止めで直ちに引き上げ一本足で静止する型と型の切れは鮮やか、そして舞台上に進み出て制約を解かれたシテによる舞には、盤石の安定感と爽快なまでの回転の鋭さがありました。

クライマックスの「飛び寝」は、橋掛リから作リ物の際まで走り込んで、足拍子を力強く右・左と打つとそのまま跳躍して空中で横臥し一畳台の上に落ちるもの。この日初めて「邯鄲」を観た人は、その大胆な動きに驚愕したことだろうと思います。しかし、夢が覚めて一畳台の上に力なく座り込んだ盧生が、面を曇らせながら正先あたりを見つめつつ遂に悟りに至る場面の深い表現もまた、ダイナミクスだけではないこの能の見どころでありシテの力量であったと思います。

この曲、何度見てもその劇的な構成の見事さには舌を巻いてしまいます。特に場面転換の演出は巧みで、現実の世界で眠りについた盧生を夢の世界に引き込むワキの侵入と扇での合図、輿舁二人によって輿が差し掛けられるほんの一瞬での宮殿への移動(音響的にも太鼓が加わることでがらっと世界が変わって見えます)、夢から覚める場面でアイが盧生に近づく絶妙のタイミング。そして、とりわけ最後の場面転換の直前にほとんど爆音と言っていいほどの最高潮に達していた囃子方と地謡とが、アイの打つ扇の音を合図にぴたっと動きを止め、舞台上を完全な静寂が支配する瞬間の凄まじさ。その動と静との対比の効果は、この能楽堂の空間の小ささによってさらに強調されていたようです。

その他、いくつか気のついた点を備忘録的に記します。

  • 〈次第〉に続く地取リの低さ、幽かさ。
  • シテを舞台上(宿の中)に招き入れたアイは、後見座で舞台に背を向けて下居し、蔓桶を持ってしばし待機。シテが所定の位置に差し掛かったとき、後見がアイに頷いて立ち上がるタイミングを指示。
  • 楚の国に赴いた盧生が一畳台(宮殿)に向かうとき、これに並行して舞台上を歩むワキ/勅使のシンクロ度が見事。
  • ワキツレ/大臣の中では御厨誠吾師に台詞が多く与えられていましたが、あの目ヂカラと力のこもった発声で舞台を引き締めました。
  • 子方はまだたいそう幼く、舞台上を普通に歩いていましたが、よくがんばりました。
  • キリでシテがよくよく思へば出離を求むる、知識はこの枕なりと悟る場面は、観世流では正中から枕に向かって膝を突き、金春流では正中から一畳台に戻って枕を取り上げていましたが、この日の演出ではそこまでシテはずっと一畳台の上にとどまっていました。

ところで、この日座席に置かれていた1枚物三つ折りのパンフレットには成城大学教授・宮﨑修多氏の「夢の醒めかた」という解説が掲載されていましたが、ここで盧生の夢が覚めるタイミングについて掘り下げた分析がされていました。原典となる『太平記』巻二十五「黄梁夢事」では楚国の太子となった三歳の我が子を抱いた后が足を踏み外して湖に転落するところで夢が破れるという衝撃型であるのに、能「邯鄲」では自在の境地に遊ぶ真最中に夢が醒める。それなのに未練を覚えることなく、かえって悟り得て、望叶へて満足気に故郷に帰るのはなぜなのか……というところが興味深かったので、以下に引用しておきます。

例の「空下り」で足をニョッキリ出すあたりからが予兆なのか、盧生は面白がりつつも、実は不安を募らせはじめているのではあるまいか。それは夢が醒めるか否かの不安ではなく、時空も境界も超越した、いわば〈なんでもあり〉状態への言い知れぬ怖れ。橋懸の半ばで舞台を呆然と振り返るのも、私には精神の虚ろな無重力状態を自ら反芻しているかにみえる。夢の終わりがこの静かな虚無の恐怖からの解放だったのなら、これも他の衝撃型のラストと同様、醒むれば安堵した盧生が残るばかり。彼が実直な生をすすんで受け入れるのも当然ではないか。

配役

仕舞 枕慈童 友枝昭世
邯鄲 シテ/盧生 友枝雄人
子方/舞童 大村稔生
ワキ/勅使 殿田謙吉
ワキツレ/大臣 御厨誠吾
ワキツレ/大臣 野口琢弘
ワキツレ/大臣 吉田祐一
ワキツレ/輿舁 則久英志
ワキツレ/輿舁 高井松男
アイ/宿の女主人 山本則孝
一噌隆之
小鼓 成田達志
大鼓 大倉慶乃助
太鼓 小寺真佐人
主後見 中村邦生
地頭 友枝昭世

あらすじ

邯鄲

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