京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ

2018/12/08

この日、東京国立博物館で観たのは「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」と題する展覧会。鎌倉彫刻の宝庫と言われる大報恩寺の秘仏・釈迦如来坐像(行快)、十大弟子立像(快慶)、六観音菩薩像(肥後定慶)を拝観する貴重な機会です。

出品点数は多くないために平成館2階の半分しか使われておらず、残りの半分では東博がフィラデルフィア美術館と共に企画した 「マルセル・デュシャンと日本美術」展が開催されていました。2階に上がるエスカレーターから「デュシャン大喜利」のポスターを見て心惹かれるものがあったのですが、ここはぐっとこらえて慶派の世界だけに浸ることにしました。

大報恩寺の歴史と寺宝-大報恩寺と北野経王堂

千本釈迦堂大法恩寺は承久2年(1220年)に義空上人によって開創された古刹で、その本堂は安貞元年(1227年)の建立。応仁の乱にも焼けず、今日では洛中で最も古い木造建築物として国宝に指定されているとのこと。最初のコーナーではおおまかに大報恩寺の歴史を解説した後、同寺に残されている北野経王堂ゆかりの品々が紹介されていました。

北野経王堂(願成就寺)は足利義満が明徳の乱の戦没者を悼んで応永8年(1401年)に北野天満宮の門前に建てた仏堂で、東大寺大仏殿と並ぶほどの規模を誇りました。このコーナーに展示されていた《洛中洛外図屏風》に描かれた経王堂の姿からはそれほどの大きさを感じませんが、少なくとも京都の重要なモニュメントとして認識されていたことは理解されます。経王堂は16世紀には併設の輪蔵と共に大報恩寺の管理下に入ったものの、その後寛文10年(1670年)に経王堂、明治維新後に輪蔵がそれぞれ廃されて(後者は愛媛・瑞応寺に現存)、伝えられていた仏像や経典は大報恩寺に移されています。

《北野経王堂一切経》〈重文〉と《傅大士坐像及び二童子立像》〈重文〉は、いずれも輪蔵に伝わっていたもの。私は未見ですが、能「輪蔵」では北野天神へ参詣し輪蔵を拝んだ太宰府の僧の前にこの傅大士が登場して楽を舞うのだそう。さらにこのコーナーに配置されていた《千手観音菩薩立像》〈重文〉は平安時代前期の様式を伝える作で、大法恩寺がいわばタイムカプセルとしての役割を果たしていることを示していました。

なお、本来の展示企画では、この後に出てくる本尊釈迦如来や十大弟子、六観音菩薩を観た後にこれらの寺宝が締めくくりとして紹介される構成となっているのですが、この日の会場では何らかの意図または理由によってこの北野経王堂に力点を置いた章が冒頭に配置されたようです。

聖地の創出―釈迦信仰の隆盛

大報恩寺を創建した義空の構想は、天台宗の根本経典である法華経(妙法蓮華経)序品に基づき霊鷲山で説法する釈迦を中心に、文殊菩薩と弥勒菩薩(いずれも喪失)を脇侍とし、周囲には諸菩薩や十大弟子を配することで、源平の抗争を経て荒廃し末世の様相を呈した京都に仏法が回復することを願うものであったようです。

この日の二番目のコーナーではその構想を再現するように、秘仏本尊《釈迦如来坐像》〈重文〉を中心に置き、周囲に《十大弟子立像》〈重文〉が居並びます。そしてこれらが制作された時期は運慶・快慶から次世代の湛慶・行快・定慶へと世代交代が進んだ時代。像高三尺の等身坐像である《釈迦如来坐像》は、快慶の弟子である行快の代表作とされ、師・快慶の作風を受け継ぎつつも面立ちに行快の個性が見られるとされています。

一方《十大弟子立像》は一括りにして「快慶作」として扱われていましたが、当時の制作スタイルから実際には「快慶工房作」とするのが正しく、さらに仔細に見ると、頭部のかたちが球形で桾の裾が長く足の甲にかかる六体と大胆なゆがみ・くぼみのある頭部を持ち桾が短い四体とに作風が分かれ、前者は快慶系統、後者は運慶系統とする見解があるそうです。こうした大分類を踏まえた上で見てみても、十体の立像はそれぞれ極めて個性的な相貌を持ち、実にリアル。穏やかに落ち着いた者もあれば何かを語り掛けてくる一瞬を切り取られたような者もあり、見飽きるということがありません。しかし、それら十体の中でもやはり快慶自身が制作したことが明らかになっている《目犍連立像》(上の画像の右から二体目)の表現の深さには、はっとしました。額と頬に深い皺を刻み、太く通った鼻筋、かすかに右端が上がった口、ぴたりと正面を見つめる眼差し。絵画的と評される快慶らしい端正さとは若干異質の、透徹した実在感のあるその姿に強く心を惹かれました。

なお、《十大弟子立像》を快慶が中心になって制作しているのに本尊《釈迦如来坐像》が弟子である行快の作であることは不思議ですが、このことを説明する一つのシナリオとしては、当初建てられた「仮堂」に《十大弟子立像》と共に収められた本尊はやはり快慶の作であったのに、これが何らかの理由で早くに失われたために、行快によって造り直されたものが「本堂」に安置されて今日に至った可能性があるそうです。

六観音菩薩像と肥後定慶

最後のコーナーは、運慶一門の仏師・肥後定慶が制作した《六観音菩薩像》の展示です。肥後定慶は運慶の長男・湛慶より10歳ほど若い仏師で、運慶の作風を基盤としつつ、装飾的な頭髪、入り組んだ衣文などの躍動感にその独創と技巧の冴えが見られるとされます。

六観音とは、さまざまに変化する観音菩薩の六相が六道からの救済を分担して受け持つとする考え方で、その組合せには何通りかあるものの、《准胝観音菩薩立像》を含むこの大報恩寺の六観音は真言宗で信仰されたセットであるとのこと。坐像である《如意輪観音菩薩坐像》以外の五体の立像はいずれも像高170〜180cmほどと存在感のある大きさで、定慶自身の手になる《准胝観音菩薩立像》(上の画像の右から二体目)はひときわ見事ですが、このように六体が光背・台座も含めて完全な姿で中世から伝わっているのはこの大報恩寺だけです。これらの六体は北野経王堂が破却されることになったときに大法恩寺に移されたものですが、経王堂はこれらの像が制作された貞応3年(1224年)から180年近く後に建てられたものであり、その前にどこに収められていたかはわかっていません。

コンパクトな展示のおかげでだれることなく辿り着いた展示室の出口近く。そこにおわす《聖観音菩薩立像》のみ、このように撮影が可能となっていました。定慶の作風からはやや離れているとされるものの、白檀の代用材としての榧による一木造のこの像の優美なお姿には、自然に手を合わせたくなりました。ありがたいことです。