弓矢太郎 / 碁

2019/04/25

国立能楽堂(千駄ヶ谷)の企画公演で、狂言「弓矢太郎」と復曲能「碁」。

この日、能楽堂前庭のツツジが盛りを迎えようとしていました。

そしてまた、この日は時折行われる蝋燭能となっています。

弓矢太郎

天神講の夜、実は臆病者なのに狩装束姿で去勢を張る太郎を脅かそうと天神の森で鬼の面を着けて待ち構える何某が、同じく鬼の面を掛けた太郎に逆に脅かされてしまうというこの曲は、2010年に同じ和泉流の佐藤友彦師のシテ、井上靖浩師の当屋で観ています。今回は、太郎が三宅右近師、何某(前回の「当屋」に相当)が野村萬斎師で、この配役の違いで曲のありようががらりと変わりました。

天神講を催すために当番の何某の家に集まったのは、主人の何某、天神講連中五人、そして小アドの太郎冠者。この曲では活躍の場がない太郎冠者以外は段熨斗目に長裃の出立で、それぞれバラエティに富んだ色合いの装束を着用しているために、暗い舞台上でもずいぶんカラフルに見えました。遅れてやってきたシテの太郎は侍烏帽子に弓矢をたばさみ、縦縞の上衣が虎の毛皮にも見えて勇ましく思えますが、その語り口は訥々感があって心もとない感じ。袖なしの上衣は側次なのか?と思いきや、萬斎邸に入るところで後見座で肩を下ろすと実は見事な大袖の素袍で、勇ましさを誇張するために麦畑を荒らす猪を退治しただの狐も射ることができるだのと大言壮語を吐きますが、これに対して「狐だけはやめておけ」と玉藻前の妖狐の話を持ち出す何某の口調が、いかにも萬斎風の少しねっとりしたもので笑えます。

さんざん脅かされて目を回してもまだ見栄を張る太郎は、天神の森の松の枝に扇を掛けてくることになり、まず先に下がります。ついで、何某が鬼に化けて太郎を脅し、他のものは後から隠れて様子を窺うことにして一同下がったのですが、入れ替わりに再登場した太郎はあろうことか鬼の面(武悪)を掛け装束を改めていました。その後から入ってきた何某もまったく同じ姿形で、こちらも何となくおっかなびっくり。蝋燭の灯りしかなく暗い舞台が、本当に夜の天神の森に見えてきます。やがて二人は互いの気配を感じて近づき、ここから暗闇の中で様子を探るセリフが輪唱のように重ねられると、ついに鉢合わせして二人とも気絶してしまいました。

先に気付いた太郎が面と頭巾を外して橋掛リへ逃れようとしたところ、松明(蝋燭能といってもこれはさすがに本物ではありませんでした)をかざした天神講の連中がやってきたので後見座でこれをやり過ごします。一同は伸びている何某を発見。介抱されて意識を取り戻した萬斎がおろおろと顛末を説明する様子がこれまた面白いのですが、その様子を橋掛リで聞いていた太郎は大喜びし、鬼の姿に戻って何某の後ろに回り込むと、「取って食おう」と一同を脅します。たまげた一同が「おそろしや、おそろしや」と追い込まれて終わり。

さんざん太郎を臆病者だとからかっていた何某も天神講の連中も、結局みな臆病者だったというオチですが、このどんでん返しの構図が、天神講を行う家での何某のちょっと意地悪なねっとり口調と、天神の森で気絶から回復し仲間に「鬼が出た!」と早口で説明する慌てぶりとの対比により鮮やかに描かれていて、やはり萬斎師だなと思った次第です。

能「碁」は、『源氏物語』の第二帖「帚木」と第三帖「空蝉」に描かれる光源氏(17歳)と受領の若い後妻との恋物語を題材としています。『源氏物語』における該当部分のあらましは、次の通り。

光源氏が方違えのために京極中川の紀伊守の屋敷に行くと、紀伊守の父伊予介の後妻も屋敷に訪れていた。直前の「雨夜の品定め」で頭中将から「中の品」の女性が良い(頭中将自身にとっては夕顔のこと)と聞かされていた光源氏はこの後妻(空蝉)に興味を持ち、空蝉の寝所に忍び込んで契りを結ぶ。落ち着いた雰囲気の空蝉のことが忘れられない光源氏は、空蝉の弟の手引で中川を訪れ、空蝉が若い女=軒端の荻(紀伊守の先妻の娘であり空蝉にとっては継娘)と碁を打っている様子を垣間見てそのたしなみ深い様子にさらに惹かれる。そして再び空蝉の寝所に忍び込むが、源氏の気配に感づいた空蝉は小袿を脱ぎ捨てて逃げ出し、心ならずも後に残された軒端の荻と契った源氏は、その薄衣を代わりに持ち帰って恋しく思う。

この曲は、世阿弥の女婿である金春禅竹を祖父に持つ金春禅鳳(1454-1532?)の芸談『禅鳳雑談』の記述から、佐阿弥という人物が作者で禅鳳の父・宗筠により多武峰の八講猿楽で初演されたらしいことが知られる作品。江戸時代には稀曲扱いされていましたが、昭和37年(1962年)に金剛流によって復曲され、平成13年(2001年)に観世流でも復曲上演されたものです。今回の国立能楽堂での上演では、シテを観世流の大槻文藏師、ツレを喜多流の狩野了一師が勤めるという異流共演です。

暗い見所に、お調べの笛の音が妖しく届き、ついで囃子方や地謡が幽霊のように登場。頃合いを見て始まった〔次第〕が、いつになく通りがよく聞こえます。やがて登場したワキ/僧(宝生欣哉師)が鏡板に向かって謡う〈次第〉は雲居の都遥々の、鄙の長路を急がん。その言葉通り、道行の謡を美しく聞かせて常陸の国からはるばる都へとやってきたワキが、亡父(宝生閑師?)の薫陶で『源氏物語』に親しんでいたことから三条京極の中川の宿の跡に立ち、空蝉の身を変へてける木のもとに なほ人がらの懐かしきかなと口ずさみます。さらに、ここで暫く休むことにすると独りごちて舞台中央へと進んだとき、揚幕が上がって白い花帽子に唐織を着流しにした前シテ/尼(大槻文藏師)が姿を現します。

ワキが空蝉の身を変へてける木のもとに なほ人がらの懐かしきかなと古歌を詠み偲んでいると、シテが三ノ松から遠くワキに宿を貸そうと声を掛けました。驚いて脇座から振り返ったワキと橋掛リを進みつつ問答を交わすシテは、高めの声でしみじみと謡い、立ち姿にも女性らしい柔らかさと共にすっきりしたところがあり、現し身の人とは思われない妖しさが漂います。あはれその夜の方違へと空蝉の故事をほのめかす初同をはさんで脇座に落ち着いたワキと常座に膝を突いたシテは、どうやら今宵の宿りに落ち着いた様子。そこで昔語りを求めるワキの言葉に、今宵は碁を打って旅の心を慰めましょうとシテが提案します。確かにここは空蝉が碁を打ったとされるところだが、いったい誰と打つのかと問うワキに対し、シテはもちろん『源氏物語』に描かれている通り軒端の荻が姿を現わすだろう、自分も実は空蝉であると明かすと、さめざめと泣きつつ向きを変えて常座で一回転。そのまま寂しい笛に送られて橋掛リを下がっていきました。

段熨斗目に長袴のアイ/所の者(高澤祐介)による間語リは、蝋燭の炎の揺らめきの中で朗々。空蝉の霊を弔うようワキに勧めたアイが狂言座に控えたところで、一畳台が運び込まれました。大小前に置かれた一畳台の上に、立方体の碁盤。ワキの待謡から〔一声〕となり、緋大口の上に白っぽい唐織を壺折にしたツレ/軒端の荻の霊(狩野了一師)と同装で紫の唐織の後シテ/空蝉の霊が登場して、一ノ松と二ノ松で向かい合って〈一セイ〉ほのかなる、軒端の荻の夕嵐、ありしこととふ、名残かな。不思議なこと、と誰何するワキに昨夜宿を参らせた自分は空蝉、そして自分は軒端の荻とそれぞれに名乗り、舞台に進んでツレは地謡前に下居、シテは正中で床几に掛かりました。

ここから〈クリ〉で碁の石を打つ音に阿吽の響きを感じ、〈サシ〉では石の白黒や碁盤の目を夜昼、九曜、一年の日の数になぞらえ、〈クリ〉で専門用語を駆使しながら心していざや打たうよ。この後に地謡が「絵合」「竹河」「桐壺」「帚木」「夕顔」「玉鬘」「真木柱」「梅枝」「紅梅」「早蕨」といった具合に『源氏物語』の巻名を織り込んで謡ううちにシテとツレは同時に立ち上がり、共に一畳台に上がって碁盤をはさんで向かい合いました。まづ一手、二手、三手……とリズミカルに着手を促す地謡に応え、中啓を逆手に持つ右手を交錯させて台の上で碁を打つシテとツレの姿は意外にも写実的。テンポよく進んだシテの手が一度止まり、そこに微妙な間が生まれましたが、気を取り直したシテは着手を再開します。しかし遂に空蝉は負けたり。敗者となった空蝉は、扇を開いて呆然とした様子になります。

本来『源氏物語』では、この勝負は若い軒端の荻ではなくたしなみ深い空蝉の勝利となるのですが、本曲ではシテとツレとの碁の勝負がそのまま恋の成就を賭けた戦いとなり、「空蝉」巻でこの対局の後に空蝉の寝所を訪れた光源氏が軒端の荻と契ることとなる話の筋と呼応させている、という解釈がプログラムに記されていました。

ともあれ、勝負がついた二人は立ち上がって一畳台を降り、ツレは地謡前、シテは脇正にそれぞれ立って向かい合います。〔イロエ〕でシテが舞台を回る間にツレは後見座に移動して物着となり、一方シテは笛座前あたりで後見の手を借りて唐織を脱ぐと、これを碁盤にかぶせて空蝉の故事を再現し、そのまま一ノ松へ。そしてわりない気持ちで勾欄越しに舞台を見込んだシテが左手を胸に当てて立ち尽くすうちにピンクの長絹姿になったツレが立ち上がって優美に巻い始めると、入れ替わりにシテも後見座へ入り、紫の長絹姿に変わります。そして、二人は連れ舞(〔中ノ舞〕)を美しく巻い始めました。一度は身を許しながらも衣を残して身を引いた空蝉と、図らずも光源氏の訪いを得たもののその後顧みられることのなかった軒端の荻。碁の勝負の上では敗者と勝者であっても、結局共に光源氏に対する慕情を成就することがなかった二人の舞は、見事に息が合いながら、心なしか悲しげにも切なげにも見えます。

やがてツレは地謡前に下居し、シテは常座で空蝉の、羽にこそかはれ、軒端の荻と謡ってキリへ。恨めしやただとシテは小さく足拍子を重ね、遠く中正面を見やってからワキに向き直り左手を差し伸べた後、ツレと共に橋掛リに下がって二ノ松と一ノ松とで振り返って両袖を広げ、左袖を返し、空蝉も軒端の荻も、かれがれに、むなしき跡こそあはれなりけれ、むなしき跡こそあはれなれと詞章の最後を聞きながら揚幕を向いて留となりました。

観るまでは、二人の女性が碁を打つだけでは能になるまいと変な心配をしていましたが、写実的な対局の後には「空蝉」の故事を示す唐織の脱ぎ捨ての型があり、長絹に替えての美しくも哀愁漂う連れ舞があって、意外にも見どころの多い曲でした。しかしキリの最後に謡われたように、旅僧の弔いを受けながらも空蝉と軒端の荻はそのわりない思いを解消するに至らなかったのですから、その思いが解けるまでは、二人は何度でも碁を打つところを見せ続けなければならない定めなのかもしれません。そういう見方からすると、この曲は救いの薄い哀しい曲だとも思えてきます。

配役

狂言和泉流 弓矢太郎 シテ/太郎 三宅右近
アド/何某 野村萬斎
小アド/太郎冠者 深田博治
立衆/天神講の連中 三宅右矩
立衆/天神講の連中 三宅近成
立衆/天神講の連中 前田晃一
立衆/天神講の連中 高野和憲
立衆/天神講の連中 月崎春夫
復曲能 前シテ/尼 大槻文藏
後シテ/空蝉の霊
ツレ/軒端の荻の霊 狩野了一
ワキ/僧 宝生欣哉
アイ/所の者 高澤祐介
松田弘之
小鼓 成田達志
大鼓 山本哲也
主後見 赤松禎友
地頭 片山九郎右衛門

あらすじ

弓矢太郎

→〔こちら

旅の僧が都三条京極中川の宿を訪れ空蝉の歌を口ずさむと、若い尼が現れ宿を貸そうと声を掛け、今宵はここで碁を打ってみせようと言うと姿を消す。所の者から空蝉の昔語りを聞いた僧が空蝉の供養をしていると、空蝉と軒端の荻の霊が現れ、碁にまつわる故事を語り、碁の勝負を見せる。碁に負けた空蝉の霊は、寝所に忍んできた源氏の気配に衣を残して身を引いた昔を思い出して舞を舞う。