塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

鈍太郎 / 邯鄲

2019/04/19

国立能楽堂(千駄ヶ谷)の定例公演で、狂言「鈍太郎」と能「邯鄲」。

鈍太郎

長きにわった不在から都に戻ってきた男が下京にいる本妻と上京にいる妾のもとを尋ねるとどちらも邪険にされてしまったものの、しからばと出家することにしたために慌てた二人の女が翻意を求めたことで立場が逆転。その後は月のうち何日をどちらの家に振り向けるかという駆引きの面白さを見せ、最後は男が女たちの組む手車に乗って得意満面で去っていくという、男にとってずいぶん都合の良いお話。

2014年に三宅右近師の鈍太郎で観ているので、ここでその筋を追うことはしませんが、登場人物たちの自由奔放な感情表現が楽しい舞台でした。二人の女に共に「新しく夫をもった」と言われて意気消沈した鈍太郎が神妙に出家の覚悟を固めたと思ったら、女たちから出家は思いとどまってくれと懇願されてにかっと笑い、とたんに口調が上から目線。その名の通り元来愚鈍な男であるはずの鈍太郎が、どうしてこうもモテるのか不思議です。また、下京のわわしい女である本妻と上京の慎ましい妾の対比を強調するのが男の二人に対する扱いの差で、最初に男から月に五日しか泊まらないと言われた本妻は「なんじゃ、五日?え〜ぃ!」とヒステリーを起こすものの、邪険にされつつも結局は男の言いなりになってしまうのがかわいそう。男が手車に乗って帰っていくラストも現代の感覚からすると後味が良くなく、原型の「男は女たちによって地面に投げ落とされ腰をしたたかに打つ」という結末の方がすっきりしそうです。

しかし、どうしてこの曲が『邯鄲』と組み合わされたのか。もしかして、男がモテモテとなる後半は鈍太郎の夢の中の話で、実際には目覚めてみれば女たちはいなかったという結末が揚幕の中で待っているとか……もちろんこれは妄想に過ぎません。

なお、この曲の背景として「夫が三年のあいだ音信不通なら離婚が成立する」という掟が存在するそうです。

邯鄲

「邯鄲」の鑑賞はこれが四度目。最初は観世流、二度目は金春流、三度目は喜多流で、今回も喜多流です。座席は前から二列目、クライマックスの飛び入りの迫力を堪能できる位置です。

最初に側次出立のアイ/宿の女主人(能村晶人師)が登場して邯鄲の枕について語ってから、〔次第〕の囃子を受けてシテ/盧生(大村定師)の登場。幕が上がってもしばらくはそこに立ち尽くしていましたが、やがてゆっくりと橋掛リに進み出たその出立ちは、黒頭、邯鄲男面、金地の法被、紺地に金の檜垣文様の半切。唐団扇をふるふるとさせながら〈次第〉浮世の旅に迷ひきて、夢路をいつと定めんと謡うシテの声はやや枯れ、極めて緩やかで深いビブラートがかかり、青年とは言いつつも懊悩を抱える盧生の身の上を体現するかのようです。

アイとの問答の後、脇座の一畳台の上でシテが邯鄲の枕をしげしげと眺め、地謡がひと村雨の雨宿り……邯鄲の枕に臥しにけりと謡ううちに登場したワキ/勅使(殿田謙吉師)の姿が、顔も身体もげっそり痩せて細ってしまっていてびっくり。昨年6月の「遊行柳」を病気降板されたときから心配していたのですが、大病をされたのでしょうか?しかし、シテの枕元を扇でパンパンと叩いていかに盧生に申すべき事の候と呼び掛ける声は相変わらず豊かな滋味深いものでした。これを聞いてがばと起きたシテがそもいかなる者ぞと問い掛けたときには、そこはもうシテの夢の中の世界。楚国の帝位を譲られることになって驚くシテは輿舁二人が捧げ持つ駕篭に乗って楚国へ向かいます。

太鼓が入って〔真ノ来序〕となり、子方/舞童(大村稔生くん=シテのお孫さん)とワキツレ/大臣たちが登場すると共にワキは退場、シテは再び一畳台に上がって角から脇正へと居並んだ子方たちと向き合いますが、このとき引立大宮の作リ物は楚国の宮殿になっています。地謡の謡う詞章もその様子を秦の咸陽宮になぞらえて微に入り細を穿つように詳しく描写し、東に銀の山と金の日輪、西に金の山と銀の月光、ときらびやかに謡われる頃には地謡と囃子方の高揚が最高潮に達しました。

ここで、ワキツレ/大臣がいかに奏聞申すべき事の候とうやうやしく言上し、これにシテがそも何事ぞと鷹揚に応えたときには、盧生が宮殿に入って既に50年が経過しています。ここは、最初の勅使の来訪とこの大臣の奏聞との対比が面白いところです。シテの前で仙薬(酒)を注いだ子方が時折目をぱちくりさせながらもめでたく舞う間にシテは肩を脱ぎ、子方の舞が終わったところで立ち上がると〈楽〉を舞い始めました。狭い一畳台の上で唐団扇や装束が引立大宮の柱に当たらないようにしながら、しかも悠々と大きく舞うという至難の舞が延々と続きましたが、ある瞬間にふっと左足を床に下ろす空下リで空気が凍ります。この事態を受け止めかねているようにシテはしばらく舞台に背を向け一畳台に腰掛けていましたが、やがて一畳台を離れて舞台中央に進み出ると、舞は大きさと流麗さを増し、力強い足拍子がさらなる高揚をもたらします。

〈楽〉に続くシテと地謡の掛合いの場面は、この曲の中でもとりわけ引き込まれるところです。昼から夜、春から秋、夏から冬へとまるで映像が早回しになっていくように詞章が描く情景がスピード感を増し、これらの情景を愛でつつ堂々たる舞を舞っていたシテは、やがて後ずさりに台に腰掛けていよいよクライマックス。かくて時過ぎ頃なれば……と共に立ち上がったシテが橋掛リで回るうちに子方/ワキツレは雲散霧消するごとく切戸口へ消え、そこから素早く舞台へと入ってきたシテは一畳台の前に一気に進んで足拍子を二つ、そこから跳躍して左肩を下に一畳台の上へ音を立てて落ちました。ここにタイミングを合わせて、ずっと狂言座に控えていたアイが近寄って台を扇で二つ打ち、盧生を起こそうとします。現実に引き戻された盧生は間をおいてゆっくり起き上がると弱々しいビブラートで盧生は夢覚めてと語りましたが、ここもまた、前半で勅使が盧生を夢の中に引きずり込んだ扇のふた打ちと対照的。それまでの高揚が嘘のように落ち着きを取り戻した地謡を背景に呆然と座り込んだままのシテは、この世もまた夢なのだと悟りを得て、邯鄲の枕を押し戴いてから一曲の終わりを迎えました。

従来、ともすればアクロバティックな飛び込みにばかり目が向いていた感のあるこの曲でしたが、今回は現実と夢との行き来の中でいくつもの対比が組み込まれた作劇上の巧みさが随所に実感でき、大変興味深く観ることができました。そして、悟りを得た盧生が郷里に帰っていき、アイの姿が消え、囃子方や地謡も下がって完全に無になった終演後の舞台が、これほど意味を持つ曲もないのではないか、という気にもさせられたところです。

配役

狂言和泉流 鈍太郎 シテ/鈍太郎 野村万禄
アド/下京の女 小笠原匡
アド/上京の女 吉住講
喜多流 邯鄲 シテ/盧生 大村定
子方/舞童 大村稔生
ワキ/勅使 殿田謙吉
ワキツレ/大臣 大日方寛
ワキツレ/大臣 則久英志
ワキツレ/大臣 野口琢弘
ワキツレ/輿舁 舘田善博
ワキツレ/輿舁 野口能弘
アイ/宿の女主人 能村晶人
一噌幸弘
小鼓 幸信吾
大鼓 柿原光博
太鼓 小寺真佐人
主後見 塩津哲生
地頭 友枝昭世

あらすじ

鈍太郎

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邯鄲

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