塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

鐘の音 / 橋弁慶

2019/11/22

国立能楽堂(千駄ヶ谷)の定例公演で、狂言「鐘の音」と能「橋弁慶」。

今回は「演出の様々な形」と副題がつき、今月と来月とで異なる流儀・小書による「鐘の音」「橋弁慶」を見比べることができるという趣向です。

この日は冷たい風と強い雨。冬の訪れも目の前です。

鐘の音

主人が成人した息子の祝いに熨斗付けの太刀=鞘が金の薄板で覆われた太刀を贈ろうと思い立ち、太郎冠者に「(付け)金の値」を聞いてくるよう命じたものの、太郎冠者がこれを「(撞き)鐘の音」と聞き違えてしまうという話。2010年に野村萬・万作のご兄弟の共演で観たことがありますが、この日は大蔵流茂山千五郎家の出演で、千三郎師が太郎冠者、千五郎師が主。アド/主はもともと茂山千作師が演じることが予定されていましたが、千作師が今年9月に亡くなったことを受けての代演です。

上記のように主から命じられた太郎冠者はさっそく鎌倉に赴いて、まず向かったのは五台堂です。目付柱を鐘楼と見立てて下手からえいえいと撞木の紐を引いて鐘を鳴らしてみたものの、破鐘だったために「だん!」としか鳴りません。これはだめだと次に向かったのは寿福寺で、今度はシテ柱の鐘楼の撞木に紐が結いつけてあるために撞くことができないので石を投げつけてみたのですが、「ちーん」と小さな音しかしません。しからばと赴いた極楽地の鐘楼は見上げる山の上にあって、折よく法師が撞いてくれた鐘の音は硬い音色の「こーん」。最後に鎌倉一の建長寺へと向かった太郎冠者はいったん橋掛リに出て一ノ松から広い境内を見渡す様子を示すと、大門をくぐって境内(舞台)に入り、その隅々まで掃除が行き届いた庭を褒めそやした上で、脇柱の鐘楼に目を止めました。えーいえーいと声を掛けて撞木を振ると鐘の音は「じゃ〜んもんもん」と素晴らしい響きで、この音と余韻に聞き惚れた太郎冠者はこれだこれだと喜んで帰宅します。

ところが、復命の途中で主は太郎冠者の勘違いに気付いて苦々しい顔。ついに叱りつけた主に対し、太郎冠者は「付け金の値」ならそうと最初から言ってくれと抗弁したものの、役立たずと言われてキレてしまい「あー!」と大声を上げ怒色満面で正先へ。とうとう扇を取り出して主が太郎冠者を打擲し、たまらず太郎冠者が一ノ松へ逃げていくところに開演時から狂言座で控えていた仲裁人(丸石やすし師)が割って入り、そのとりなしを得て太郎冠者は鐘の音を聞いた様子を仕方で見せることになりました。太郎冠者が舞いながら謡う鐘の音は、聞いてきた順に「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」と涅槃経の偈。最後に、ひどい主人に首を撞かれたが機嫌がなおったのも鐘の音の威徳、と謡い納めるとその通り主も怒りを鎮め、太郎冠者に「いて休め」と声を掛けて終曲となりました。

この「鐘の音」、聞き違いによる太郎冠者の失敗譚というポピュラーな作りの曲ですが、もとは能「三井寺」の間狂言を膨らませたものだそうです。なんと言っても面白いのは、太郎冠者が実に楽しげに鎌倉市中を巡って寺々を訪ねては行う鐘の音の口真似の数々ですが、そもそも太郎冠者がどうして「鐘の音」を聞いて回ろうと思ったのかと言うと、撞き鐘の音は「遠音のさいてめで度い物」だからで、太郎冠者は主人の息子の成人を祝うために一所懸命に良い音と響きを探そうとしたわけです。こうした太郎冠者の誠実さ、最後の小舞にまで繋がるその祝祭感が、観ていて気持ちの良い狂言でした。

この曲のことを調べていて「狂言における関西訛せりふ考」(林和利 2009)という論考に行き当たりました。その説くところによれば、元来関西訛では「値」と「音」とでは高低が異なり、「値」は低く「音」は高く発音していたので、この二つを取り違えるということは起こりにくい。かたや東国訛では「値」と「音」に発音の区別がなく、だからこそ狂言「鐘の音」はその舞台を京都ではなくあえて鎌倉にしたのであろう、とのこと。

橋弁慶

作者不詳の四番目物、季節は晩秋。五条の橋での牛若丸と弁慶の出会いを描く曲ですが、広く知られる話では「千本の刀を集めるために夜な夜な五条の橋で刀を持った人を襲っていた弁慶が、あと一本に迫った夜、笛を吹く牛若に出会い、手玉に取られて降参し、家来になる」のに対し、能では牛若丸が人斬りであり、母の常盤御前に諭されて鞍馬寺に戻る前の最後の獲物として行き合ったのが弁慶であったという驚きの(?)筋書きになっています。また、この日は小書《笛之巻》により前場が常とはがらりと変わっている点も興味深いところです。

最初に子方/牛若丸(観世和歌さん)が無音のうちに登場。海浜の情景を絵柄にしたと思われる青系の上衣に白大口、髪には赤い紐が見えていますが、烏帽子を戴いていたかどうかは遠目に判然としませんでした。脇座の前の方に座してから〔名ノリ笛〕となり、登場したワキ/羽田十郎秋長(飯冨雅介師)は源義朝の遺臣で、掛直垂(黒地に千鳥紋)大口出立で一ノ松から語るには、牛若殿は学問のために鞍馬の寺に入ったのに、学問もせずに夜な夜な五条の橋に出て数多の人を斬っているので、母である常盤御前から注意してもらおうとえらく物騒な話です。そして振り返ったワキの呼び掛けに応え、幕の中から出てきた前シテ/常盤御前(観世喜正師)は深井面に紅無唐織着流出立。二ノ松で床几に掛かり、一ノ松に座したワキから牛若丸の行状についての報告を受けました。

シテの命を受けてワキが舞台へ牛若丸を呼びに行き、牛若丸は一ノ松まで進んで平伏。シテが「寺(鞍馬山の上)にいるかと思っていたのにどうしてここにいるのか」と詰問したところ、子方はさん候、久しく母上を見参らせず候ふ程に参りて候と方便を使って、これが観世和歌さんの第一声でしたが、その見所の隅々まで響き渡るビブラートもかかった声の良さに聞き惚れました。これに対しシテは床几の上からかぶせるようにいやいやおことの心を見るに、思ふと言ふも虚言よと一刀両断。さらに、学問に優れたなら母もうれしく思うところなのに、夜な夜な五条の橋で人を斬っているという話を聞く、これが本当なら母と思ふな子ともまた思うまじと厳しい口調で叱り、さらに地謡に言葉を繋いで子方とワキを引き連れて舞台に進むと、脇座から常座の牛若丸に向かってなどや御身は不孝なると叱責を重ねたため、牛若丸は正中に進んで座し、手を合わせて許しを乞うてシオリました。

短い〈クセ〉のうちに今の境遇を嘆く母子のシオリをさしはさんで、子方は母の仰せの重ければ、明けなば寺へ上るべしと常の演出でも用いられる台詞を述べた後に、自らが持つ笛の謂れをシテに尋ねたところから母子の謡の応酬となります。子方が笛を懐から取り出してシテに渡すと、シテは笛に巻かれていた錦の布を解き、その下の「一万五千三百年後に弘法大師の手を経て、義朝の末子牛若丸の手に渡るだろう」という虫喰いの文字を示してから笛を牛若丸に返しました。そして明けなば寺に上るべし、構えておこと偽るなと念を押して下がっていきました。その姿を常座から見送った牛若丸は、母の姿が幕の内に消えるとワキを振り返りいかに羽田、母の仰せの重ければ、明けなば寺へ上るべし、今宵ばかりの名残なれば、五条の橋に出で、立待に月を眺めうずるにてあるぞと貫禄たっぷりに告げましたが、実はこれも方便。牛若丸は、鞍馬山に戻る前に最後の人斬りをしようと考えていたのでした。恐ろしい……。

子方とワキの中入を送った大小の鼓が徐々に速くなり、突然洛中の男(茂山あきら師)が取り乱して駆け込んできて、もう一人の男(茂山千五郎師)とのやりとりとなります。五条の橋で年の頃十二、三の女か若衆かわからぬ者に斬りかかられたと震え上がった洛中の男をもう一人の男がからかうこの間狂言、茂山あきら師の怪演もさることながら、二人の関西イントネーションが舞台設定にマッチしています。最後は牛若が来るぞと男に脅された洛中の男が取り残されまいと男の後を追い、男がときどき振り返っては猫騙しのように手を打って洛中の男をびびらせつつ下がっていきました。

二人が消えた後に〔一声〕、そして凛とした「おまく」の声。常座に出てきた子方は薄青の衣をマントのように肩に掛け、桃色の鉢巻。中入前にワキに語った言葉に近い台詞を述べた後に夕波の、気色はそれか夜嵐の、夕べ程なき、秋の風と早口ながらも朗々。気色を眺めながら心浮き立つ様子を地謡に謡わせて五条の橋の橋板を、とどろとどろと踏み鳴らしと物凄い速度の足拍子を八発重ねましたが、その高揚感が単に景色に見惚れてのものではないことは音も静かに更くる夜に、通る人をぞ待ち居たるという詞章からも明らかです。そして常座から脇座に場所を移した子方の、きっと一文字に口を結んで立ち尽くす姿に強い意思の力を感じます。

再びの〔一声〕と共に登場した後シテ/武蔵坊弁慶の出立は、広く「弁慶」と言えばイメージされる白い袈裟頭巾で直面を覆い、大鎧を示す絢爛な法被半切の上に墨染の法衣、肩に長刀。一ノ松で長刀を振るいながらそうした自らの有様を謡う重厚な声色は「船弁慶」の平知盛登場の場面を連想させ、前場の常盤御前とはまったく異なる人格です。いかなる天魔鬼神なりとも、面を向くべきやうあらじと、我が身ながらも頼もしうて、手に立つ敵の、恋しさよと自信たっぷりの弁慶。かたや牛若丸は通る人もなきぞとて手持ち無沙汰にしている様子でしたが、そこへ弁慶が橋板を踏み鳴らしながらやってきたのですはや嬉しや人来たるぞと肩に掛けていた薄衣を頭上に被きます。その薄衣の下には、赤白の段熨斗目、白大口。牛若丸の姿を認めた弁慶は長刀の刃を薄衣の下に差し入れたものの、牛若丸は小さく頭を下げて顔を見せません。この形が繰り返されたところで、相手は女らしいが自分は出家の身であるので言葉を掛けることは控えようと弁慶は常座に戻り通り過ぎようとしたのですが、牛若丸は彼を嬲って見んと、行き違いさまに長刀の、柄元をはつしと蹴上げて一ノ松へ走り去ったために弁慶激怒。すは、痴れ者よ物見せんと長刀で打ち掛かり、これに牛若丸が薄衣を捨て太刀を抜いて応戦するところから舞台狭しと立廻りが展開するのですが、これが強烈です。ボリューム・テンポ共にアップした地謡と囃子方を背景に長刀と太刀とが二合・三合と打ち合わされ、いったん分かれた後に牛若丸が太刀を何度も畳み掛けるように打ち付けると弁慶は防戦一方になって一ノ松へ退却。一度は困惑したものの気を取り直した弁慶は再び舞台に入り、両者がそれぞれの刃を高く掲げると再び斬り合いとなりますが、弁慶の長刀は牛若丸を捉えることができず、低く薙ぎ払う長刀をぴょんと飛び越えてかわした牛若丸は弁慶の利き手をとって長刀を打ち落としてしまいます。しからばと弁慶は素手で組もうと迫るものの翻弄されてくるくると回り、ついに動きを止めて不思議や御身誰なれば、まだ稚き姿にて、かほど健気にましますぞ、委しく名乗りおはしませと降参。

以下、互いに名乗り合って弁慶は正中に平伏し、牛若丸を主として従うことを誓ってから薄衣を子方に着せて揚幕へと送り出し、自身は長刀を肩に常座に立ち尽くして終曲を迎えました。

約70分と短めながら見応えのある曲で、特に後場の立廻りの迫力は尋常ではありませんでした。それにしても「人斬り牛若丸」というのは驚き。常盤御前にあれほど諭され、その言葉に従いつつも最後にもう一人斬ってから鞍馬山に帰ろうというのは、どれだけ血に飢えているんでしょうか。というよりも、この曲が作られた時代(初見は16世紀初頭の『自家伝抄』とのこと)に流布していた義経像の中に、そうした要素があったということなのか?

さて、前場でしみじみと牛若丸を諭す常盤御前、後場で荒法師の威勢を示す武蔵坊弁慶という全く異なる人格(ただしいずれも牛若丸と深い縁でつながる)を見事に演じ分ける観世喜正師にはもちろん感服したのですが、それよりも何よりも、喜正師の娘さんである観世和歌さんの堂々たる牛若丸が凄かった!ほぼ主役級の台詞の多さをものともせず、朗々たる美声と見事な節回し、きりっとした立ち姿、華麗な立回りで見所を圧倒。その舞台度胸はとても9歳とは思えません。これからの女性能楽師のホープとなる予感。

ちなみに来月の金剛流による「橋弁慶」の配役はシテが金剛永謹師、子方が廣田明幸くんで、明幸くんには10月の「船弁慶」での義経役で感服させられたところなので、こちらも楽しみです。明幸くんのツイートによると彼はわざわざ京都からこの日の公演を見学しに来ていたそうですが、その感想は全然ちがって、面白かったです!とのこと。来月の全然ちがう「橋弁慶」にも期待しています。

配役

狂言大蔵流 鐘の音 シテ/太郎冠者 茂山千三郎
アド/主 茂山千五郎(茂山千作代演)
アド/仲裁人 丸石やすし
観世流 橋弁慶
笛之巻
前シテ/常盤御前 観世喜正
後シテ/武蔵坊弁慶
子方/牛若丸 観世和歌
ワキ/羽田秋長 飯冨雅介
アイ/洛中の男 茂山あきら
アイ/洛中の男 茂山千五郎
藤田次郎
小鼓 曽和正博
大鼓 佃良勝
主後見 観世喜之
地頭 弘田裕一

この日「鐘の音」の主を勤めるはずだった茂山千作師が亡くなったため、茂山千五郎師に替わった旨の告知。合掌。あわせて「橋弁慶」の笛も一噌庸二師体調不良につき藤田次郎師に替わっています。どうぞお大事に。

あらすじ

鐘の音

→〔こちら

橋弁慶笛之巻

鞍馬寺で学問をしているはずの牛若丸が夜な夜な五条の橋で人斬りをしていると注進を受けた常盤御前は、切々と牛若丸を諫め、牛若丸は許しを乞うて泣く。やがて問いに答えて常盤は牛若丸が持つ笛の伝来を語り、重ねて牛若丸を諭して別れる。鞍馬寺に戻ることにした牛若丸は五条の橋に向かうが、橋の上で通りがかった武蔵坊弁慶の長刀を蹴り上げて斬りかからせ、刃をひらりひらりとかわして見せる。驚いた弁慶は牛若丸の素姓を問い、源義朝の子であることを知ると牛若丸との主従の契りを結ぶ。