天王寺舞楽
2021/09/18
国立劇場(隼町)で、聖徳太子千四百年御聖忌「天王寺舞楽」。雅楽 / 舞楽を観るのは2015年以来ですが、今年は聖徳太子イヤーということで先月末に法隆寺展を観てきたところでもあり、久しぶりに国立劇場の雅楽公演に足を運ぶことにしました。折しもこの日は台風接近中でしたが、東京に来るまでまだ数時間の猶予があるタイミングだったのは幸いでした。
出演は天王寺楽所がくそ雅亮会、演目は次の通りです。
- 秦姓の舞
- 蘇莫者
- 採桑老
- 精霊会の舞楽
- 行道〜一曲
- 蘇利古
- 陪臚
- 長慶子
天王寺楽所は古来、大内楽所(宮中)・南都楽所(奈良)と並ぶ三方楽所の一つとされて、さまざまな舞楽演目を現代に伝えています。天王寺舞楽は野外(四天王寺境内の六時礼讃堂前にある池の上の石舞台)で演奏することや、もっぱら参詣者の仏縁を深めることを目的としていたことから、ダイナミックで明確な舞いぶりに特徴があるとのこと。
今回の演目も、そうした舞態の固有性が際立つものが選ばれているそうです。
第1部 秦姓の舞
天王寺楽所は、四天王寺を建立した聖徳太子自身が秦河勝の子孫を中心に編成したと言い伝えられ、そこで伝承されてきた天王寺舞楽は「秦姓の舞はたせいのまい」とも呼ばれてきたとのこと。以下、各演目についてフライヤーに記された解説を引用します。
定刻になり緞帳が上がると、舞台中央には勾欄に四角を囲まれた舞舞台(四天王寺の石舞台を模したもの)があり、その向かって右には管楽器(鳳笙・篳篥・龍笛)奏者の乗る台、向かって左には打楽器(鞨鼓・太鼓・鉦鼓)奏者が乗る台。背後には幕が引かれ篝火台が二つ、そして舞台の四隅の上には左手前から時計回りに黄・赤・緑・紫の幡が下げられていました。
蘇莫者そまくしゃ(唐楽)
ある説では、聖徳太子が馬上で吹いた笛(尺八)に感応した山神が舞う姿をかたどったものと伝えられていることから、天王寺では「聖徳太子」に扮した笛奏者が舞台の近くで演奏する、という演出が伝わっています。
別の説では聖徳太子ではなく役行者の吹く笛を山神が愛でたものとされるそうですが、天王寺楽所ではもちろん聖徳太子説をとっています。最初に恐ろしく長く張り出した(まるでトンボの羽のような)平纓をもつ唐冠を戴いた龍笛奏者が登場して笛を吹くと、次に山神あるいは老猿を表す黒面(目はくりっと丸い金色)をつけ、白い髪を長く垂らして左手に桴ばちを持つ舞人が現れて舞い始めます。
まずは大きな動きで前に出てきては後ろへひょこひょこと走り帰る動きを繰り返し、曲調が変わるとさらに大きな動きの舞が繰り返されるようになります。その異形の面貌や所作の面白さがどことなくユーモラスですが、能楽の世界とはまったく異なるダイナミックな身体の使い方は、相当に足腰の強靭さが求められるはずです。
採桑老さいそうろう(唐楽)
平安時代に宮中でこの舞の伝承が途絶えそうになったところ、天王寺楽人が勅命で宮中楽人に再伝承したとされる舞です。現在、この舞は天王寺楽所でのみ伝承されています。
死を目前にした老翁が、長寿の妙薬と言われる桑葉を求めて山野をさまよい歩く姿を象ったものと伝えられているそう。笙による摩訶不思議な雰囲気の和音がフェードインし、篳篥の旋律が入ってくると左方(客席から舞台に向かって左奥)から懸人の肩に手を掛け、導かれるようにして老翁の姿をした舞人が登場しましたが、その姿は白い直衣を身に纏い腰に薬袋、右手には鳩杖。金色の頭巾の下の顔色がずいぶん悪いなと思ってよく見たら、驚くほどに写実的な老人の顔の面をつけていました。
舞台上に一人残って舞台上にうずくまっていた老翁は、やがて立ち上がって舞台上を巡り、後ろを向いて打楽器だけの演奏(鹿婁)をじっと聞いてから舞い始めました。老人らしく穏やかな動きで、腰を低く落としては左右を見込む形が続き、途中で一度舞台中央に杖をついて蹲りましたが、このとき左手を顔に寄せた所作が老態を示す天王寺ならではの表現「鼻ヲカム手」だったのかもしれません。ついで立ち上がった老翁は何かを蒔くような仕草を見せ、さらに大きく舞い続けて、やがて再び舞台中央に蹲ると、ここで懸人が戻ってきて老翁の隣に着座し、老翁はその肩に手を掛けて一緒に下がっていきました。
この舞は「蘇莫者」とはまた違った雰囲気を持ち、歴史と神話の境へと引き込まれていくような神秘性を感じました。
第2部 精霊会の舞楽
第2部は、毎年4月に太子の御霊を慰めるために開かれる「精霊会しょうりょうえ」を象徴する舞楽曲の数々。その前に天王寺楽所 雅亮会の副理事長の小野真龍氏が登場し、天王寺舞楽の歴史や各演目の解説をしてくださいました。その話の中でも出てきたのですが、雅楽というとなんとなく皇室や神社と結びついたものという印象を私も持っていたものの、解説によればそれは明治以降のことで、歴史的にはむしろ仏教法会と結びついたものであるとのこと。そして四天王寺における最大の法会が聖徳太子の忌日法会=精霊会で、江戸時代には朝から夜まで25曲も演奏されたものだが今では4時間程度。天王寺楽所の皆さんとしてはやる気満々ではあるもののこれでも長く、そこで国立劇場側と話し合った結果、冒頭に精霊会開会に向けたパレードである「行道」、ついで聖徳太子の御影を納めた厨子の帷を上げる「太子御目覚めの舞」である「蘇利古」、そして物部守屋を倒し仏教護持を成し遂げた所縁の曲として精霊会の掉尾を飾るとされる「陪臚」を選んだと説明されました。
そして緞帳が上がると舞台上の配置が変わっており、背後の幕は取り払われ舞台の上空には巨大な赤い玉から装飾付きの棒がやや上向きにたくさん伸びたものが四つぶら下がっていましたが、これは四天王寺での精霊会で石舞台の四隅に立てられる曼珠沙華でした。楽人の配置も変わっており、左方・右方のそれぞれに打物と管方の席が用意されていましたが、緞帳が上がった時点では舞台上に人の姿はありません。
行道ぎょうどう〜一曲いっきょく
荷太鼓・荷鉦鼓を用いて楽人が左右二列で行道を行ったのち、左右の楽頭が「一曲」という儀式的な舞を舞う、大法会の際にしか見られない古代法会に準じた大変貴重な作法です。
左右の袖から楽人たちが演奏しながら列をなして登場し、舞台の横を通って後ろに回ってから舞台上を通り前方に抜けて、再び舞台の後ろに回ります。上の引用にもあるように、太鼓と鉦鼓はそれぞれ二人一組で肩に担い棒を担ぎそこにぶら下げたもの。そして行進が終わり管方が左右に斜めに立ち並び打物は背後に二組ずつ配されたところで、左方(朱)の楽頭と右方(緑)の楽頭が舞台上でクロスして前方に進み(つまり前に出た時点では緑が向かって左、朱が向かって右)、桴を高く掲げてはそれぞれの鼓を打ち鳴らしつつ舞いました。
ひとしきりの舞の後に二人の楽頭が舞台上で膝を突くと、静寂の中で左右から舎人が現れて楽頭に左肩から右脇へと白い布をたすきに掛けました。舎人が下がったところで演奏が再開され、楽頭は舞台を降りて消えていき、その後に演奏を終えた左右の楽人たちが互いに御辞儀をしてから舞台上からいなくなります。
蘇利古そりこ(高麗楽)
「太子お目覚めの舞」とも呼ばれ、精霊会の冒頭に必ず舞われる呪力を持った舞で、一般的には四人で舞われますが、天王寺では五人舞として伝承されています。
舞台上に再び楽人たちが現れ、左右の台の上に座りました。ただしこの「蘇利古」は4世紀頃に百済から来朝した須須許里すすこりが伝えたものとされ、この日の演目の中で例外的に高麗楽。よって右方舞(舞人は舞台に向かって右奥から入退場し、緑系統の装束を用いる)となり、演奏も右方の楽人によって行われます。
こちらはフライヤーの表面を飾る舞姿ですが、舞人の顔を覆う雑面ぞうめんに描かれる文様とその右手に持つ白楚ずあえはいかにも呪力に満ちているよう。この出立ちの舞人たちは高麗笛と篳篥の合奏に打楽器が合いの手を入れる前奏の中で登場し、一人ずつ舞台に登っては相撲のせり上がりを連想させる所作を示して各人の定位置に付き、五人が揃ったところからリズミカルな舞を舞い始めました。両手を開き、腰を落とし、白楚を前に構え、あるいは天を指し。五人の一糸乱れぬユニゾンでの舞には得も言われぬ牽引力が感じられていつまでも見ていられそうでしたが、やがて一人ずつ舞台背後に降りて右へと消えてゆきました。
陪臚ばいろ(唐楽)
法要後に聴衆がその余韻を楽しむための舞楽が演奏される「入調」と呼ばれる部分で、最後を飾る華やかな舞として必ず演奏されていた曲です。
この曲は別名「陪臚破陣楽」。天平年間に渡来した林邑国(ベトナム)の仏教僧・仏哲が伝えた林邑楽の一つで、曲名は古代インドの神話で仏教に帰依し善政をしいたバイロチカーナ王の物語に由来するとされています。最初に左方の笛が奏されて、左右から鳥甲をかぶり鉾と楯を手にした舞人が二人ずつ登場。そこに右方の笛も加わって不思議なウォール・オブ・サウンドが出来上がります。
舞は一貫して勇壮なもので、鉾と楯を左手にまとめて腰の太刀を抜き身にして舞台上を交差し、あるいは舞台上に二人一組で楯を立て掛け鉾を置いて徒手での大きな舞に所々きびきびとした所作を交え、再び抜刀し楯もとって武勇を見せて、遂には四人で弓取式よろしくぶんぶんと鉾を回します。最後に客席に背を向けて縦一列になりひとしきり舞ってから、一人ずつ退場していきました。
長慶子ちょうげいし(唐楽)
フィナーレは源博雅(平安中期)が作曲したと伝えられる舞のない楽曲。ここまでの各曲はおよそ20分前後ですが、この曲は5分ほどと短いものです。精霊会では導師の退場楽として奏されるそうで、左方・右方の全奏で太鼓の目の詰んだスピーディーな演奏でした。
久しぶりに観た舞楽でしたが、改めて感じたのは、一般的に思われている優雅なイメージとは異なりそこで展開する舞はずいぶんとダイナミックなもので、よほど足腰が鍛えられていないととても務まらないだろうということ。演奏される楽の方も変化に富んでおり、聴いていて飽きるということがありません。雅楽を特徴づけるものとして神秘的な鳳笙の和音と篳篥の旋律があげられますが、この日はさらにドーンと響き渡る大太鼓の存在感の素晴らしさにも目を瞠りました。もしかすると睡魔に見舞われるかも……という事前の心配は杞憂に終わり、終始舞台に惹き付けられた2時間でした。
ところで、日頃親しく接している能楽が室町時代(14世紀)に体系化されたものであるのに対し、こちらは8世紀にまで遡る、言わばより深い伝統芸能です。しかし、聖徳太子が四天王寺を建立して仏法僧を供養するために楽所を置いたときの雅楽(の前身である伎楽)は当時最先端の外来音楽であったわけで、そうしたところも歴史の面白さです。