塾長の鑑賞記録

聖徳太子と法隆寺

2021/08/29

国宝 聖林寺十一面観音-三輪山信仰のみほとけ」に続いて、東京国立博物館平成館で聖徳太子1400年遠忌記念 特別展「聖徳太子と法隆寺」。法隆寺にはこれまで何度か伺ったことがあり、最も近年では2015年に訪問していますし、その前年に東京で開催された展覧会「法隆寺 祈りとかたち」も観ていますので、法隆寺の寺宝はそれなりに観ているはずです。しかし今回は、聖霊院内陣の三間厨子に祀られる秘仏本尊《聖徳太子および侍者像》(1121年)〈国宝〉がお出ましになる(寺外公開は27年ぶり)とのことなので、これを見逃す手はありません。

公式サイトから本展覧会の趣意を引用すると、次の通りです。

令和3年(2021)は聖徳太子の1400年遠忌にあたり、これを記念して特別展「聖徳太子と法隆寺」を開催します。会場となる奈良国立博物館と東京国立博物館では、法隆寺において護り伝えられてきた寺宝を中心に、太子の肖像や遺品と伝わる宝物、また飛鳥時代以来の貴重な文化財を通じて、太子その人と太子信仰の世界に迫ります。特に金堂の薬師如来像は日本古代の仏像彫刻を代表する存在であり、飛鳥時代の仏教文化がいかに高度で華麗なものであったかを偲ばせてくれます。

また、図録によれば本展覧会の構成は次の通りです。

  1. 聖徳太子と仏法興隆
  2. 法隆寺の創建
  3. 法隆寺東院とその宝物
  4. 聖徳太子と仏の姿
  5. 法隆寺金堂と五重塔

ただし東京国立博物館では上記のうち3.と4.とを入れ替えた順序で展示されていましたので、以下、実際の展示順に各章の目についた部分を記述することにします。

以下、動画は「紡ぐプロジェクト」から引用。

聖徳太子と仏法興隆
聖徳太子その人と最初期の日本仏教を概観する第一室に入ると、まず入口で出迎えてくれるのが平安時代作の《如意輪観音菩薩半跏像》〈重文〉。本来は「聖徳太子と仏の姿」に属する像で、四天王寺にかつて存在した本尊を模刻し、観音菩薩の化身であると信じられた太子の姿を表したものです。
もちろん、かつての一万円札で有名な《聖徳太子二王子像》もありましたが、この日展示されていたのは江戸時代の模本。それよりも目を引くのは太子自ら法華経を解説した(諸説あります)《御物 法華義疏》です。随所に加筆や修正が加えられていることから草稿と考えられていますが、緻密な文字が整然と並ぶ中に太子の叡智がこめられていると思うと、思わず頭が下がります。その他、さまざまな仏具や仏像がずらりと並びましたが、その多くは長年法隆寺に伝来した後、明治11年(1878年)に同寺の経済的困窮を背景として皇室に献納された「法隆寺献納宝物」(現在は東京国立博物館所蔵)の一部です。
法隆寺の創建
仏具類を中心に法隆寺の荘厳を紹介するコーナーということなので地味なのかと思いきや、いくつもの目を引く品々が並んでいました。まずは若草伽藍で用いられていた軒丸瓦・軒平瓦。そのデザインにどことなくオリエントな雰囲気を感じたところ、縦250cm・横134.5cmもの大きさの《四騎獅子狩文錦》(唐・7世紀)〈国宝〉には見事な刺繍技術でサーサーン朝ペルシア風の騎馬狩猟図や棗椰子文様が連なり、飛鳥時代の日本がシルクロードとつながっていたことを窺わせました。
また、驚くほどの長さ(実際は立てて垂らすので「高さ」)の《灌頂幡》〈国宝〉は見事な透彫を伴う金銅製で類例のないもの。「天平勝宝八歳七月八日」(756年)の日付が記された《法隆寺献物帳》〈国宝〉は聖武天皇の遺品を皇女・孝謙天皇が法隆寺へ献納した品々の目録で、そこに記載されている刀子や青木香と同等のものも展示されていましたが、ふと見ると《法隆寺献物帳》の末尾に並ぶ署名の筆頭は藤原仲麻呂(後の恵美押勝)でした。
聖徳太子と仏の姿
推古15年(607年)に創建された斑鳩寺(若草伽藍)は天智天皇9年(670年)に焼失し、その後8世紀初頭までに再建されて現在の法隆寺になっていますが、本展覧会の図録に収載された解説(東野治之氏)はこのことを聖徳太子の建てた寺から、聖徳太子のための寺に変化したのであると表現しています。この言葉に端的に示されるように、死後(あるいは生前から)神格化された存在となった太子の姿を示すのがこのコーナーです。
太子の像としては、2歳の春に東を向いて合掌し「南無仏」と唱えたという説話に基づく南無仏太子像、16歳のときに父・用明天皇の病気平癒を願い香炉を捧げて祈請したという説話に基づく孝養きょうよう像、摂政になった22歳以降の姿を描く摂政像(水鏡に映った姿を自ら描いたという水鏡御影もその一種)、35歳で勝鬘経の講義を行った際の姿を描く勝鬘経講讃図などがあり、それぞれ立像や肖像画として展示されていましたが、最も重要な作品は冒頭にも述べた聖霊院秘仏本尊《聖徳太子および侍者像》〈国宝〉です。冠を戴き笏を執り、安座して強い視線を正面に向けるその姿は、摂政像と講讃像が合わさったもの。像内には下から法華・維摩・勝鬘の三経を納めた容器、亀の背に聳える蓬莱山形、銅造観音菩薩像が安置されていて、観音像の顔をちょうど太子の口の高さにして救世観音の化身である太子による三経講讃を示しているそうです。太子の左右には殖栗王と卒末呂王(太子の異母弟)、その外側には山背大兄王(太子の子)と高句麗僧恵慈法師(太子の仏教の師)が配されていますが、後二者はまだしも前二者はまるで月餅に目鼻口をつけたようなユーモラスな表情をしていてちょっと情けない感じ。どうしてこういう顔立ちにしたのか造像者に訊ねてみたい気がしますが、これらの像は保安2年(1121年)に聖徳太子五百年遠忌を期して造られたものです。
また、太子神格化に寄与したと思われる伝記《上宮聖徳法王帝説》(平安時代)〈国宝〉や、エキゾチックな顔立ち・肉付きと装飾的な天蓋・光背・台座が緻密な六臂の《如意輪観音菩薩坐像》(唐・8-9世紀)〈重文〉も見逃せません。
法隆寺東院とその宝物
聖徳太子が住んだ斑鳩宮跡地に立つ東院は、法隆寺とは別の寺院として天平11年(739年)に建立され、平安時代に法隆寺と合併したもの。太子等身と伝わる救世観音像を本尊とする夢殿や《南無仏舎利》を納める舎利殿、聖徳太子絵伝を納める絵殿が置かれて太子信仰の拠点となりました。このコーナーには斑鳩宮故地の荒廃を阿部内親王(後の孝謙天皇)に訴えて東院建立を実現した《行信僧都坐像》〈国宝〉と共に、かつての舎利殿の内部を撮影した写真にある通り《聖徳太子立像(二歳像)》と《南無仏舎利》が並べ置かれていました。なお、この展覧会は奈良国立博物館でも4月から6月にかけて開催されていたのですが、そちらでは舎利殿ではなく絵殿の再現として《聖徳太子絵伝》〈国宝〉と《観音菩薩立像(夢違観音)》〈国宝〉が展示されたそうです。
そして太子の威徳を忍び節目の年に行われる聖霊会の大会式で用いられる奇怪な面貌の舞楽面の数々の前を通り抜けて、いよいよ最終展示室へ。
法隆寺金堂と五重塔
西院伽藍の中心的な堂宇は金堂と五重塔です。残念ながら五重塔の初層内陣にあってリアルな表情を示す塑像群は奈良博だけの展示ですが、金堂からは貴重な仏像の数々が東京へお出ましになっていました。
まずは金堂内陣の四隅に立つ四天王のうち《四天王立像 広目天》〈国宝〉と《四天王立像 多聞天》〈国宝〉。後世の運慶的なダイナミズムとは様相が異なり、静かな姿で真っ直ぐに立っていて威厳あり。足下の邪鬼も、踏みつけられているというよりは既に仏法に帰依して広目天・多聞天を支えているといった趣です。ついで、今は大宝蔵殿に安置される菩薩立像六軀(伝六観音=観音・勢至・文殊・普賢・日光・月光)。これらのうち日光・月光以外の四軀は金堂内にあったことがわかっていますが、いずれもあどけない顔立ちと胴長短躯の体つきを持つ「童子形像」であることが特徴です。
そして金堂内陣の主役は中の間に《釈迦三尊像》〈国宝〉、西の間に《阿弥陀如来坐像》〈重文〉、東の間に《薬師如来坐像》〈国宝〉ですが、今回の展覧会では《薬師如来坐像》が《同 台座》〈国宝〉と共にお出ましになり、近代まで伴っていたとされる脇侍《観音菩薩立像》〈重文〉二軀もその左右に控えていました。《薬師如来坐像》の造形は全体に平板で直線的な止利仏師様式ながら、その表情は謹厳な印象の《釈迦三尊像》と比べると穏やか。かたや光背の唐草や火焔文はダイナミックです。
《薬師如来坐像》の背後に回ると光背背面の銘文を読むことができ、そこには「用明天皇が病の折に寺と薬師像の造立を発願したものの果たせず崩御したために推古天皇と太子が完成させた(大意)」とあるので、これを信じれば「病に倒れた太子の快復を願って太子の身の丈と同じ釈迦像を造立しようとしたが成し遂げ得ず太子の死の翌年に完成した(同)」と光背銘にある《釈迦三尊像》よりも《薬師如来坐像》の方が古いものということになるのですが、諸々の証拠から少なくとも造像の先後は逆であろうと見られているそうです。また、脇侍二軀は右脇侍(伝月光菩薩)が二重瞼で左脇侍は一重、蓮華の文様など細部も右脇侍の方が細かいことから、後者は前者をもとに造られたものと考えられるそうですが、共に《薬師如来坐像》とは様式が異なり後世(遅くとも鎌倉時代)になって脇侍とされたものとされています。
金堂には現在安置されている仏像以外にもさまざまな仏像や厨子が安置されていたそうで、そのうち《玉虫厨子》〈国宝〉が奈良博での本展に出展されていましたが、東京では《伝橘夫人念持仏厨子》〈国宝〉と本来はその中に納められている《阿弥陀如来および両脇侍像》〈国宝〉が最後に展示されていました。蓮池から立ち上がる三茎の蓮華座の上に阿弥陀三尊を配し、その背後には阿弥陀浄土の情景を精緻に浮き上がらせた後屏を立てた金銅製の阿弥陀三尊像は、白鳳時代の鋳造技術の冴えが目を見張るほどに素晴らしいものでした。

本展覧会では、ここに紹介しきれないほどたくさんの文化財の数々が展示されており、それらすべてが日本の仏教美術の源流をなす貴重なものでした。これらが1,400年の時を経て現代にまで受け継がれていることも驚異的ですが、いかに太子が皇室の一員であったにせよ、これほどの寺宝の蓄積を実現するには飛鳥〜平安期における太子信仰がそのときどきの政権のありようと密接に結びついていたはず。近年の歴史教科書ではその存在意義の見直しが進められている太子ですが、この展覧会は、あらためて「聖徳太子とは何だったのか」という問いを持つ契機となりました。