塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

朝長

2024/02/11

今年最初の観能は、矢来能楽堂(神楽坂)で観世九皐会2月定例会。この日観たのは第2部「朝長」、シテは中森貫太師です。

矢来能楽堂に足を運ぶのはこれが三度目で、そのこじんまりとした作りが私はとても好きなのですが、ことに前の席の背にある詞章の抜粋がこの能楽堂ならではで、この日の座席(脇正面)の前には平忠度の「行き暮れて」の歌が引用されていました。

まず仕舞三番は「右近」(駒瀬直也師)の優美、「雲林院」(観世喜之師)の枯淡に続いて、「花月」を舞った坂真太郎師の体幹と下半身の強さが驚異的。そしてメインの「朝長」は、かつては世阿弥作とされていたものの今では観世元雅作であることが有力視されている二番目物で、私はこれが初見です。この「朝長」は「実盛」「頼政」と共に三修羅と呼ばれる重い曲であり、後二者が『平家物語』の中でも名高い老武者の滅びの美学のような内容(だと思う)なのに対し、この曲の主人公は源義朝の次男・源朝長という歴史的に見るといささか地味な人物ですが、平治の乱で敗れた義朝に従って東国へと落ちていく途中、膝に受けた矢傷がもとでそれより先に進めなくなった美濃国青墓宿(今の岐阜県大垣市あたり)で自害するさまを、前場では終焉の地となった宿の女主人(前シテ)の回想として語らせ、後場では朝長の幽霊自身(後シテ)がリアルな型の連続で演じて見せるというメリハリのきいた曲。このように前シテと後シテとが全くの別人であるのは、修羅能の中ではこの曲だけです。

朝長

長く尾を引く〔名ノリ笛〕に導かれてワキ/旅僧(福王和幸師)がワキツレ二人を伴って登場し、まずワキのみ常座に立って〈名ノリ〉の後、ワキの背後(後見座の前)に着座していたワキツレと共に舞台上に位置を移して向き合うと、嵯峨から勢田、鏡山、老蘇の森、伊吹山を経る道行を謡い、遂に青墓の宿に到着。ここでワキは常座に戻り狂言座にいるアイ/青墓の長の下人(野村万之丞師)を呼び出して問答の内に朝長の墓所を聞き出した後、脇座に戻って着座しました。福王和幸師を舞台で観るのは約一年ぶりですが、久々に聞いたその声は、ノーブルな顔立ちはそのままにぐっと深みを増しているような気がします。

次に切れ切れのヒシギから〔次第〕の囃子となり、やがて木の葉を左手、数珠を右手に持ち茶緑段の紅無唐織着流姿の前シテ/青墓の長(中森貫太師)が、紅入唐織のツレと素袍上下の太刀持ちのトモを伴って橋掛リに出てきました。朝長の墓参りにやってきた三人は舞台上で向き合って〈次第〉花の跡訪ふ松風や、雪にも恨みなるらんを謡い、地取の後に引き続きゆったりと声を合わせて過ぎし日の出来事に思いを馳せると解けても寝ざれば夢にだにと謡うところから立ち位置を変えて正先(朝長の墓)にシテ、その真後ろにツレ、ツレの右隣(脇正面側)にトモという配置になって着座し、シテが木の葉を置いて数珠を前に差し出し合掌した後、三人立ち上がってツレとトモは地の前、シテは常座に分かれます。これら一連の立ち位置の変遷が流れるようにスムーズで、まるで三人でのバレエを観ているようだとさえ思いましたが、ここでシテはワキに気付いて不思議に思い声を掛けました。

シテの問いに応えてワキが自分はかつて朝長の御傳おんめのとだったが源氏縁故の我が身を憚って修行僧の姿になってこうして朝長の跡を弔いに来たのだと語ると、シテも一夜の宿を提供した朝長がはかなくも自害してしまったことを深く嘆いてこのように弔っているのだと明かし、朝長と「死」の縁でつながっていることを嘆き合いつつも互いに心を通わせます。さらに死のイメージを漂わせる青野が原の枯れ枯れとした情景を地謡に謡わせながら、シテは舞台上から脇正面を向いて原を見渡し、ついで面を上げ正面遠くに雲を見て、亡き朝長に思いを馳せてシオリ、下がるという一連の所作を示しました。これらの所作の一つ一つは抑制されたものでありながら、それらが連なることでシテの思いが見る者の胸に染み通ってきます。

そしてワキに求められてシテが朝長の最期の様子を語る〈語リ〉が前場のクライマックス。正中に下居したシテによって、敗残の義朝一行の突然の来訪、膝を射られていた朝長の苦しげな様子、夜更けに起きた朝長の自害とその今際の際のさまがシテの回想として語られましたが、朝長の自害に気付いて狼狽する鎌田政清、なぜ自害したのかと我が子に問う父・義朝、負傷によってここより先に進めず雑兵の手に掛かるのは口惜しいのでこれにてお暇賜はらんと苦しい息の下から答える朝長の姿が見事に語り分けられていきます。〈語リ〉の間、シテは時折向きを変えてワキを見やるほかはずっと正面に向かって下居したままなのですが、ことに紅に染まる朝長の肌衣を見る人々の目に映る目も当てられぬ有様なりという言葉にこめられた絶望感や、声量を落としているわけではないのに朝長の命の火が弱々しく消えていこうとしていることを示す描写には、すっかり感情移入させられてしまいました。

かくして朝長が事切れた後の様子を地謡に引き継ぎ、やがてかくて夕陽影うつると時の移ろいを示す地謡を聞いていったん背を丸め面を曇らせたシテは、二度目のこの詞章を聞いて他の演者たちと共に立ち上がり、ここで舞台上に動きはないながらも朝長の墓の前から青墓の宿に帰ったことが地謡によって謡われると、ワキに逗留と供養を勧めてからアイを呼び出してワキの世話をするよう命じた上で橋掛リを下がっていきました。

ここでワキから朝長について知っていることを物語ってほしいと頼まれたアイは、主人の申したことに付け加えることもないが……と前置きしつつ、義朝一行の来訪の後に長子・義平が不覚にも生捕りにされたのは実は平清盛を討つ機会を得るためだったのに対面はかなわずそのまま六条河原で死を迎えた、と義平の武勇と不運を力説した後、シテが先ほど語った朝長の自害のいきさつをさらっと繰り返し、さらに義朝を裏切って死に追いやった家人・長田氏への憤りを示してから、主人・青墓の長が世上の憚りを顧みず朝長の墓に花と水を手向けて菩提を弔っていることを述べてアイ語リを締めくくりました。ついでワキから観音懺法かんのんせんぼうで朝長を弔うので聴聞するようにと命じられたアイが狂言座に下がると、ワキとワキツレは身を起こして祈りを捧げ始め、そこに〔出端〕の囃子が入ってきて後場となります。

あらありがたの懺法やなと現れた後シテ/源朝長の霊の声は朗々と響いて一気に舞台上の空気を変え、いかにも女性らしい高さと柔らかさを声色に含んでいた前シテとは同一人物とは思えないほど。目付に出て素早く袖を巻き左へ回る動きも堂々、常座に戻ってきびきびと二回転してからワキに合掌。前場で前シテの口から語られた朝長の弱々しさは完全に払拭されている感がありました。これは夢か幻かと驚くワキに、もとよりこの世は夢幻の仮の世なのだからそうした疑いはやめて懺法を続けてほしいと語り掛けたシテは、正中で床几に掛かって〈居グセ〉となると、義平の誅殺、頼朝の生捕り、そして義朝を襲った長田の裏切りとこれと対照的な青墓の宿の主の弔いへの感謝を地謡の声を借りて語った後、ワキの問いに応えて修羅の闘争の様子を再現してみせます。すなわち、現世での有り様そのままに源平両家が入り乱れ、その中で膝の口を篦深に射させて馬の太腹に射付けらるれば、馬はしきりに跳ね上がる様子を、尋常ではない音圧の地謡と一体での息をも継がせぬ写実的な型(深々と刺さる矢、走る激痛、暴れる馬)の連続で示すと、立ち上がって常座からわずかに右足を引きずるように目付に進んで倒れ込むように着座し、ためらうことなく腹一文字に切腹して面を伏せます。ここまでまさに一気呵成ですが、そのままテンポを落とすことなくシテは立って常座へ回ると亡き跡弔ひてたび給へとワキへ合掌し、左袖を返した形で留拍子を踏みました。

終わってみればシテの力演は前場・後場を通じて素晴らしく、ことに後シテの放つ圧倒的な磁力によってこじんまりとした矢来能楽堂の空間が平安末期の殺伐とした時代に引きずり込まれたようでした。それにしても前場でのはかない朝長像と後シテが示す悲壮な朝長像とが対極的な雰囲気をまとっていることには驚かされましたが、典拠となる『平治物語』に対し作者(観世元雅)はかなりの脚色を加えてこの曲を組み立ているそうですから、もしかすると、長者が語る朝長像を朝長自身に塗り替えさせることによって、作者は『平治物語』に描かれたひ弱な若者という汚名の淵から朝長を救い出したかったのかもしれない……などと思いながら、矢来能楽堂を後にしました。

配役

仕舞 右近 駒瀬直也
雲林院 観世喜之
花月 坂真太郎
朝長 前シテ/青墓の長 中森貫太
前シテ/源朝長の霊
ツレ/侍女 中森健之介
トモ/従者 金子仁智翔
ワキ/旅僧 福王和幸
ワキツレ/従僧 村瀨提
ワキツレ/従僧 村瀨慧
アイ/青墓の長の下人 野村万之丞
一噌隆之
小鼓 曽和正博
大鼓 原岡一之
太鼓 桜井均
主後見 奥川恒治
地頭 遠藤喜久

あらすじ

朝長

平治の乱の直後。かつて源朝長の養育係をつとめ、今は僧となっていた男は、合戦で自害した朝長の菩提を弔うためその終焉の地・青墓宿を訪れる。僧が朝長の墓前で手を合わせているところへやってきたこの宿場の長者は、朝長が自害の晩に泊まっていた宿所の主だった。わずか一夜の縁でありながら、今なお朝長の亡き跡を懇ろに弔う長者は、朝長自害の夜の様子を語る。その夜、僧が朝長を弔っていると、朝長の幽霊が現れる。たった一夜の縁でありながら今なお大切に思ってくれている長者へ感謝の言葉を述べた朝長は、今なお繰り返される合戦の記憶に苦しみつつ、さらなる回向を願って消えてゆく。