フランク・ロイド・ライト-世界を結ぶ建築

2024/02/03

有楽町のフェルメールから、引き続き徒歩20分の汐留へ。パナソニック汐留美術館で開催中の「フランク・ロイド・ライト-世界を結ぶ建築」を見るためですが、驚いたことにこれが大人気で(会場がさして広くないこともありますが)整理券が発行されており、私が着いた15時前の時点では1時間半待ちになっていました。これはまったくの予想外でしたが、ちょうど一息入れたい気分でもあったので、整理券を受け取ってから近くの喫茶店でしばらくコーヒーブレイクとし、時間が来たところで改めて美術館に赴きました。

建築家フランク・ロイド・ライト(1867-1959)の名前はひょんなことから半世紀前から知ってはいたのですが、その業績についてはまとまった知識を持っておらず、かろうじて日本の帝国ホテル二代目本館の設計者であること、自然の滝を生かした邸宅「落水荘」が有名であること程度の予備知識しか用意していませんでした。それでも、この展覧会が帝国ホテル二代目本館竣工100周年を記念する意図を持っていること(落成したのは1923年8月末)を手掛かりとして、展示の様子の一端を紹介しようと思います。

まずこの展覧会が最初に強調しているのは、ライトが日本の美術と日本建築に深い造詣をもっていたことです。フランスにおいて1870年代にジャポニスムが流行したようにアメリカでも少し遅れてジャポニズムが流行しましたが、ライトは1893年のシカゴ万博での日本パビリオン「鳳凰殿」で日本建築に触れ、1905年の初来日では環境と密接に関連する日本の建物や庭園に魅了されると共にたくさんの浮世絵(特に広重)を収集しています。その影響がライトが設計する住宅の透視図に見られる構図やそこに描かれるモチーフ、そして設計そのものに現れていることを示した後、展示はライトの建築を各種図面(平面図や透視図)、写真、実物の調度品で見せてくれますが、当時のアメリカで主流だったヨーロッパ由来の新古典主義建築へのいわばアンチテーゼとしてライトが生み出した、深い庇や低い屋根による水平の強調と周辺環境との調和を志向するプレイリースタイルの作品群と、ライト自身が母方の一族の根拠地であったウィスコンシン州に設立した設計工房兼共同生活住居群「タリアセン」(ライトのルーツであるウェールズの言葉で「輝ける眉」を意味し中世ウェールズの吟遊詩人の名に由来する)、そして地形と建築が一体化した作例としての「落水荘Fallingwater」(エドガー・カウフマン邸)などが紹介されますが、プレイリースタイルがライトの比較的初期の業績であり、タリアセンはその過程で生じた私的スキャンダルの打撃の中で母の庇護の下に1911年以降に築いた安住の地(となるはずだったのにさらなる悲劇の舞台になってしまう)だったのに対し、「落水荘」はずっと後の1935年に建てられたもの。こうした時系列やライトの年譜が展示の中では明示されていない(もちろん図録には含まれています)ために、これらの意義を包括的に理解することは自分には難しいものがありました。

ついで「進歩主義教育」にまつわる建築群(そこにはライトの最初の妻キャサリンが幼児教育を行ったプレイルームを伴う自邸や、日本の羽仁もと子・吉一夫妻の自由学園明日館が含まれます)を紹介した後、展覧会はいよいよ「東洋の宝石」と讃えられた帝国ホテルのコーナーに進みます。そこには数々の写真や図面と共に3Dプリンターによる白い模型も置かれていて、ありし日の第二代本館の姿をリアルに見ることができたのですが、あいにくこれは撮影禁止だったのでショップで売られていたクリアファイルの正面写真を掲載します。

現在の帝国ホテルの直線的で高さを強調したデザインも見事ですが、それとは対極にあるような平面的かつ装飾的なこちらの姿も独特の風格で見る者を惹きつけます。この堂々たる面構えで国際都市・東京を訪れる諸外国からの賓客を受け入れると共に、各種娯楽施設をその館内に備えて建物の内部に一つの都市があるとまで言われる帝国ホテルの設計は、ライトの生涯における最大級のプロジェクトであり、設計思想はもとより素材の選定(大谷石とすだれレンガ)から調度品のデザインまでライトのこだわりが随所に反映されていることが示されて見応えがありましたが、初期プランの方にはマヤのチチェン・イツァの階段ピラミッドやインドネシアのボロブドゥールの意匠が意識されていた可能性が見られます。そして私自身は、上の写真からバリ島のとあるレストランで見かけたこの光景を連想して懐かしい思いにとらわれていました。

この展覧会はライトの個人史ではなくその様式について掘り下げることを目的としているようなので展示の場では明記されていませんでしたが、実はライトは工期の遅れと予算の膨張、そしてライトを擁護し続けた支配人・林愛作の辞職のために本館の完成を見ることなく契約を解除されて建築途中で日本を離れています。そしてライト離日の翌年に完成した第二本館はその竣工披露式典の当日に関東大震災に見舞われましたが、日比谷入江を埋め立てた地盤の脆弱性と地震が多い土地柄であることを把握していたライトによる免震の工夫や先進的なオール電化であったことも奏功して、本館は大きな被害を免れることができたそうです。

なお、この本館は第二次世界大戦終了後に進駐軍により接収され、返還後15年を経た1967年に建替えのために取り壊されましたが、その玄関ロビー部分は博物館明治村(犬山市)に移築されて今でも実物を見ることができるので、いつか機会を得て見に行ってみたいものです。

さて、帝国ホテルのコーナーの後にはコンクリート・ブロック、らせん状建築(その到達点がニューヨークのグッゲンハイム美術館)、高層建築(一例としてジョンソン・ワックス・ビル)、さらには大規模な都市計画までと幅広いライトの構想や実現したそれらのいくつかの姿を見ることになるのですが、閉館時刻が迫る中で駆け足の鑑賞を余儀なくされたためこれらの説明は割愛して、最後に展示品の中で唯一撮影を許可されていたユーソニアン住宅(1930年代以降に設計され建てられた手頃な価格と人体尺度の住宅)の原寸モデル展示の写真を掲載するにとどめます。

冒頭に記したように展示会場は大賑わいで、来館者の中にはプロとして建築を業とする人たちや建築学部生も少なからず含まれていた様子です。図面や写真を見ながら専門的な感想を述べあっているカップルもいれば、原寸モデルの中で自分の身体を物差しにしてそのサイズ感を確かめている男性もおり、いわゆる美術展とは異なる雰囲気に満ちていたのもこの展覧会の面白い点でした。

説明の順番が前後しますが、最後にこの展覧会の章立てを紹介します。

  1. モダン誕生 シカゴ-東京、浮世絵的世界観
  2. 「輝ける眉」からの眺望
  3. 進歩主義教育の環境を作る
  4. 交差する世界に建つ帝国ホテル
  5. ミクロ/マクロのダイナミックな振幅
  6. 上昇する建築と環境の向上
  7. 多様な文化との邂逅

この章立てはフランク・ロイド・ライトの生涯を年次順に追ったものではないため、私のように予備知識が乏しい者にとっては全体を通してのストーリーを読み取ることが難しく、帰宅してから図録と年表を読んでようやく各章の意味がおぼろげながら腑に落ちてきたのですが、今回はこれまでまとまったかたちでその業績を追うことがなかったライトについて体系的に学ぶ「きっかけ」を与えてもらったことをもって、自分にとってのこの展覧会の意義としておきたいと思います。

私がフランク・ロイド・ライトの名前を知ったのは、中学生の頃に初めて聴いたSimon & Garfunkelによる「So Long, Frank Lloyd Wright」という曲からでした。この曲は、大学で建築学を専攻していたArt Garfunkelから故フランク・ロイド・ライトについての曲を書いてほしいと頼まれたPaul Simonが書いたもので、リードボーカルはGarfunkelです。

しかし、ボサノバ調のしっとりした楽曲に乗せて歌われる歌詞の内容を見ると一人称はSimon、二人称(=Frank Lloyd Wright)はGarfunkelを指しており、アルバム『Bridge over Troubled Water』のレコーディング過程で表面化した二人の間のすきま風を連想させるものとなっています。

余談ついでに取り上げておきたいのは『サンダーバード』のトレーシー島。前々からなんとなくトレーシー邸のモダンな造りはフランク・ロイド・ライトっぽいのでは?と思っていたのですが、今回の展示を見て改めてその感覚の正しさを実感しました。

自然の地形に寄り添うような建物の配置とレトロフューチャーなデザイン、リビングルームに横溢する東洋趣味満載の調度品。これらはフランク・ロイド・ライトの建築の特徴をよく引き継いでいるように見えます。『サンダーバード』が本国イギリスで放映されたのは長寿だったライトの没後(1965-66年)ですが、制作陣はフランク・ロイド・ライトの建築にその時点における近未来的イメージを感じ取ったのかもしれません。