ウィーン分離派 1898-1918

2002/02/02

Bunkamuraザ・ミュージアム(渋谷)で「ウィーン分離派 1898-1918」。

19世紀末のウィーンで、クリムトを中心に「時代には芸術を、芸術には自由を」というスローガンを掲げて旧態然とした美術家協会から離反し、画家、デザイナー、建築家らがウィーンに新しい芸術を紹介するとともに国際的な潮流と交わることを目的として設立した独自の展覧会組織が、分離派(ゼツェッション)です。その活動は自分たち専用の展示館での数多くの展覧会と機関誌「ヴェル・ザクルム」(聖なる春)を通じて行われ、芸術と実用美術の総合を目指しました。このため、展覧会では絵画だけではなく、彫刻、建築デザイン、工芸品なども同時に展示され、ウィーンをモダン・アートの中心地とすることに成功しました。

内部の意見対立が原因で1905年にクリムトが脱退してからも、分離派展はシーレらを輩出して活動を続けましたが、1918年にはクリムトもシーレも没してしまいます。そしてこの年、第1次世界大戦が終結し、オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊します。

この展覧会ではウィーン分離派の1898年から1918年までの活動にまつわる作品約180点を幅広く紹介しており、クリムトやシーレの作品を中心として分離派の総合性と多様性が展観できるほか、マネやモネ、ルドン、ムンクなど意外な作家の作品をも見ることができる、非常に興味深い展覧会でした。

▲グスタフ・クリムト《第1回分離派展ポスター》 / ヨーゼフ・マリア・オルブリヒ《第2回分離派展ポスター》(1898年)。第1回のポスターのデザインは、半身半獣のミノタウロス(ウィーン美術界)を刺し殺す英雄テセウス(分離派)。検閲によってテセウスの前景に枝が付け加えられています。第2回のポスターのデザインは、オルブリヒ自身が設計した分離派館。異教の寺院をモチーフにしており、「マフディーの霊廟」とあだ名されました(現存)。
▲グスタフ・クリムト《パラス・アテネ》(1898年)。第1回分離派展ポスターにも描かれたパラス・アテネは、分離派の守護神に擬せられました。
▲エゴン・シーレ《バック・ヌード》(1911年)。ほかにも何点かの大胆な輪郭線と色彩、余白を活かした裸像の素描が展示されていますが、その後に展示されている《カール・グリューンヴァルトの肖像》は圧倒的な描写力と驚くような構図(斜め上から見下ろす視点で描かれたもの)で見る者に強い印象を与えます。シーレは1918年、スペイン風邪のため28歳の若さで世を去っています。