横山大観展

2002/03/03

東京国立博物館(上野)で「横山大観 その心と芸術」。

明治元年(1868年)生まれの横山大観は同22年(1889年)開校の東京美術学校に第一期生として入学し、卒業後同校の助教授となりましたが、明治31年(1998年)に校長の岡倉天心が誹謗されて職を逐われたのに殉じて辞職、日本美術院の創立に参加しました。菱田春草らと試みた朦朧体が悪評のために受け入れられず一時活躍の場を文展に移したものの、大正3年(1914年)には日本美術院を復興し、以後関東大震災や太平洋戦争を生き抜いて昭和33年(1958年)に89年間の生涯を閉じました。この展覧会は、そうした横山大観の作品50余点を集めた大規模なもので、線描彩色のやまと絵風あり、輪郭線を排した朦朧体あり、絢爛豪華な淋派風もあれば幽玄な水墨画も、と極めて幅広し。これだけの大規模な展覧会は、今後何年もないことでしょう。

とりわけ、一度はこの目で見たかった《屈原》に接することができたのが、最大の収穫でした。

▲《屈原》(1898年)。怪文書によって東京美術学校の校長職を逐われた岡倉天心を模したもの。右下の目つきの悪い黒鳥は讒言者をあらわしているとされます。横長の画面の左に寄った主人公がさらに左を向いており、背後に荒れた風が吹き渡る不安定な空間を残す構図が独特。実物は横3m近くの大作で、凄い迫力です。
▲《夜桜》(1929年)。1930年のローマ日本美術展に出品された作品(写真は六曲一双のうちの左双)。桜のもつはかなげなイメージではなく、かがり火と競い合うような山桜の生命力と孤独とがストレートに伝わってきます。
▲《紅葉》(1931年)。鮮やかな紅葉にプラチナの粉を散らした絢爛豪華な作品(写真は六曲一双のうちの左双)。上の《夜桜》と並べて展示されていましたが、かたや心象的、かたや装飾的と、その対比の妙に感動させられます。
▲《霊峰飛鶴》(1953年)。展示の冒頭を飾っていた作品。横山大観は富士山を好んで描き、この展覧会でも多種多様な富士山に接することができますが、その中で最も輝かしく優雅な一品。