浦島 / 丹後物狂

2010/04/29

国立能楽堂(千駄ヶ谷)の企画公演で、狂言「浦島」と能「丹後物狂」。〈復曲・再演の会〉とサブタイトルが付されていたように、「浦島」は戦災で台本が消失していたものを明治13年(1880年)上演時の手附をもとに平成11年(1999年)に復曲したもの、「丹後物狂」も江戸時代以来長く上演が絶えていたものを近年復曲したもので、いずれも丹後半島を舞台とする曲です。

浦島

最初に腰をかがめ、リズミカルに杖を突きながら浦島登場。面の下からくぐもった、震えるような不思議な声をあげながら、橋掛リを進んで舞台に入ります。天気がいいので孫を連れて浜へ出て、心を慰めようと思うといかにも老人らしい語り口。やいやい信朗のぶたか、いさしますかと孫に声を掛けましたが、信朗くんは野村小三郎師の長男(2001年生)です。狂言ではこういう風に、舞台上で本名を使うことがごく普通に行われます。呼ばれて釣り竿を持って出てきたアド/孫は利発な少年らしいはっきりした声で、供をしようと言います。やがて浜に着いた浦島は正中で床几にかかり、孫は一ノ松辺りから勾欄越しにえいえい、やっとなと釣り針を投げ込むと、チャリンという音が響きましたが、どうやら魚はかからぬ様子。ところを変えようと橋掛リの端に進み、今度は幕の下から鏡ノ間へ釣り針を入れました。浦島がざざんざ 浜松の音は ざざんざと気分よく謡っているうちに、針に何やら大きいものがかかったらしく、孫がえいえいと引いてみれば、真っ黒な笠の亀。孫は酒の肴にしようと言いますが、浦島は、天竺の提婆が亀を殺そうとして大地に呑み込まれた恐ろしい昔話をじっくり語って聴かせます。このとき、信朗くんは下居の姿勢でもじもじ。どうやら装束の襟の辺りがちくちくするらしく、つい首を動かしたりしてしまったようです。それでもどうにか浦島の昔語りが終わったところで、地謡三人登場。納得した孫は、亀を放つことに同意し浦島に渡しました。浦島が亀をとり、助けてやるかわりに腰の痛みを治してくれよと言い含めて橋掛リに置くと、あら不思議!亀はするすると橋掛リを逃げて揚幕の奥へ消えていきました。糸が付いているとは見えなかったのですが、どういう仕掛けだったのでしょう?見所にも笑いが広がりましたが、すぐにひょっとこのような面を掛け、白頭、亀の作リ物を頭上に戴いた亀の精が箱を持って現れ、浦島を呼びます。亀の精の説明は地謡に引き継がれ与えし箱の蓋とらば、血気盛んの身とならんと言う間に、扇で押しやるような型を見せつつ後ずさりで幕へ下がりました。箱を開けることをためらう浦島でしたが、孫の勧めもあって正先に置いた箱の蓋を開けると、地謡による情景描写の中で箱の中から薄く白い紗が白煙よろしく引き出されて浦島の姿はその中に隠れ、見る間にむくむくと身体が伸びてくるくると回転し、紗をとってみれば笑みを浮かべた直面の若々しい小三郎の姿。これには見所からも思わず拍手が湧きました。浦島は飛安座で亀の精の方向に拝礼すると、颯爽とした舞を見せてから信朗くんを抱え上げて、二度、強い足拍子を踏んで終曲となりました。

ストーリー自体には笑いの要素がないのに、随所におかしみが漂う不思議な狂言。地謡が入ったことも亀の精に授けられた箱の神秘性を強調することに役立っており、野村小三郎・信朗くん父子の好演もあって、とても楽しい一番でした。

丹後物狂

天橋立の智恩寺文殊堂に願掛けをして生まれた子・花松とその父・岩井殿の別離と再会の物語。井阿弥作・世阿弥改作で、世阿弥自身も好んで演じ、その後も江戸時代初期までは人気曲だったそうです。平成21年(2009年)の上演は、その文殊堂の前に設けられた舞台の上で、今日と同じく観世宗家の清和師とその長男・三郎太くんによって演じられました。下の写真は、そのときの模様を示すパネル。装束もこの日とまったく一緒です。

まず、シテ/岩井殿(観世清和師)とアイ/岩井の下人が無音のうちに登場。上の写真(中央)でわかるように、シテは直面です。シテは重々しい声で丹後の国白糸の浜の岩井何某であると名乗り、橋立の文殊に十七日参籠して男子を授かり花松と名付けたこと、学問のために近くの成相寺に預けて久しく対面していないので、寺より予備下したことなどを語りますが、どうやら二日酔いのために不機嫌である様子。それでも下人から花松が既に到着していると聞いて、それなら急いで呼べと言いつけると脇座で床几にかかります。下人の呼ぶ声に応じて現れ、常座に下居した子方/花松は、長い髪を後ろで束ねた美しい稚児姿。父の問いに応えて、声変わり前の高いよく通る声で学問の進捗を報告しますが、下人がつい簓八撥いずれも一段とご器用と口をはさんだために、シテは激怒。その形相に気圧された下人が平伏するうちに、シテは花松にそのような京童の技を学ぶ暇があったらなぜ七巻を覚えないのか、今日よりは某が子にてはあるまじいにてあるぞといきなり勘当を申し渡すと、子方の前に素早く歩み寄って強く膝を突き急ぎ立てとこそ。その勢いに見所は呆気にとられていましたが、シテは引き続いて、いや立てないだろう、自分がここを立ち去ろうと厳しい口調の捨て台詞を残して去っていきます。

花松は悄然として扇を持った袖で顔を隠し、見所もおそらく全員が花松に同情。下人は花松を優しく後ろから抱いて立たせると、よかれと思って言ったことが勘気を蒙ることになり面目ないが、おっつけ機嫌も直るだろうから気にせず、まずは奥の間でお休みくださいと幕の内へ送り出します。そしてここから下人の長い一人語りは、あつあ、さて御痛はしき御有様かなといかにも苦しげな口調から。実は花松は脇目もふらず勉学に励んでいたところを、稚児仲間に強いて勧められたために仮初めに簓を擦り八撥を打ってみれば他の稚児たちよりも上手だったので、たまたまその場にいて一部始終を見ていた下人はすっかりうれしくなって主人に言上したのが、仇になってしまったのでした。そうだ、これから成相寺へ行って稚児たちに証人になってもらおうと下人が思い付いたとき、美しい稚児が身を投げたという報が伝わり、うろたえた下人はそれが花松だと知って扇を取り落としじやあーと頭を抱えてうずくまってしまいます。そして、自分も入水の供をしようと一度は一ノ松まで走った下人でしたが、いやいや、冥途で供をできる保証もない、仏道に入って菩提を弔おうと正中に下居合掌して南無阿弥陀仏を唱え、下がっていきました。ここまで、下人=山本東次郎師の見事な語りにすっかり引き込まれていましたが、実はこの間囃子方・地謡ともまったくの無音。

一畳台が脇座に運び込まれ、ようやくヒシギが入って〔次第〕となり、ワキ/筑紫の男(福王和幸師)と立派な僧の姿になった子方とが旅に雪間を道として、我が古里に帰らん。身を投げた花松は筑紫の舟人に助けられて筑紫に下り、九州の彦山に登り学問に励んで大成していたのでした。父母の行方を尋ねたいと白糸の浜にやってきた花松でしたが、ワキが里人に聞いてみれば岩井殿はこの地にはもはやいないとのこと。これを聞いて花松は嘆くものの、ワキの勧めに従って文殊堂で十七日の説法を行うことにしました。

〔一声〕、鞨鼓を括り付けた松枝を肩にしたシテが橋掛リに現れます。冒頭の威厳に満ちた父の姿とは打って変わって何やら表情に憑いた疲れのようなものを漂わせ〈一セイ〉の後に狂乱の態でくるくる回り、あるいは激しく拍子を踏みながら松枝を振るう〔カケリ〕。厳しい大鼓をバックにいかに花松、いかに花松と我が子を尋ね歩き、見所の中にその姿を探しながら寺にも見えず里にもなし。さていづくへ行きて候ふぞと崩れるように一ノ松辺りで膝を突いて松枝を眺め、我が子の学問の進捗を喜んでいたのに簓八撥の話に思わず叱ってしまったことをしみじみと後悔すると、染みわたるような笛の音を受けてあらわが子恋しやあらわが子恋しや。父親の物狂いというのは珍しいそうですが、この辺り子を失った父の心情がそのままに伝わってきます。またその時は恨めしかりし簓八撥も、今はわが子の形見と思へば、なつかしうこそ候へとよと謡っていますから、鞨鼓は簓八撥を象徴しているのでしょう。

そのとき文殊堂で説法があることを聞いたシテは参りて聴聞申し候はん。いったんはワキに狂人はダメと断られますが、物狂も思ふ筋目と申すことの候へば、御説法の間は狂ひ候ふまじと切り返して聴聞を認められます。花松は一畳台の上の床几にかかって謹み敬つて申す。一代教主釈迦牟尼宝号。三世の諸仏十宝の薩埵に申して白さく。総神分に阿弥陀仏名ととても覚えるのが大変そうな詞章を朗々。ところが最後の阿弥陀仏名にシテの狂気が感応して、高い、絞り出すような声で阿弥陀なまみだ。ここからシテは鞨鼓を撥で叩く型を見せながら、激しい囃子に乗って強い足拍子を伴いつつ狂おしく舞い、ついに鞨鼓を抱いて安座。狂ふまじいと言ったではないかと責めるワキとの問答とシテの切羽詰まった感じの舞の後、シテは常座に下居したまま〈クリ・サシ〉と地謡を受け止め、子を大事に思うばかりに憎まざるに叱り、思はざるに勘当せしは、それぞ狂乱のはじめなると明かします。続いて〈クセ〉。花松が身を投げたくだりを地謡が語りつつ、シテはゆっくり腰を浮かせてシオルと立ち上がり、果てしところを尋ぬれども、うたかたの、波間に消えて跡もなしで一ノ松から勾欄越しに下を覗き込みますが、空しく舞台に戻って優美な舞を舞います。この間、地謡は狂人となった夫婦が家を出て国中を尋ね回ったが、花松を見出すことができず、涙の古里に再び立ち返ったと謡います。解説によると、もともとこの曲は子を失った夫婦が物狂いとなる演出だったのを、世阿弥がふと思い付いて父親だけを出す演出にして有名な曲となったとありますが、このところの詞章には元の夫婦物狂いの名残が残されているのかもしれません。ともあれ、子を失って文殊に恨みすら覚えたシテはせめてわが子の沈みし一つところに身を投げて、浄土の縁となりなんと正先の階段の最上段に左足を落として沈み込み、扇を上げて立ち上がると我が跡弔ひて賜び給へと常座から説教僧に向かって平伏。

ここまで聞いてワキは全てを察したのでしょう、花松に向かってさらば急いで因縁説法を御述べあらうずるにて候と促します。これを受けて語り出した説教僧の話は、シテにとっては意外にも花松入水とその後の筑紫での学問、そして丹波に帰ってはみたものの父母は行方知れず親のために七日の説法を説き、その後身を投げ空しくなるべしと思ひ切ったという話。してみると、この説教僧は花松か?子方の話の途中で身じろぎしたシテは花松の方に向き直り、その顔を見上げますが、あれは我が子の花松と感極まった声をあげつつも、言はまほしくは思へども、姿に恥じてかなはずと背を向けて立ち去ろうとします。しかし花松がシテの後を追って高座の上をこぼれ落ちるると、シテははっと振り返ってあれは我が子か、花松も父御前か。ついに再会した二人は、正中で抱き合い下居。見所で観ている方ももらい泣き……。最後は、後見に渡された鞨鼓付きの松枝をシテが花松に持たせ、後ろから支えるようにして二人で角へ進む(上の写真の左下の姿)と、合掌。これも思へば橋立の、大聖文殊の利生なりと地謡が謡い納める中、シテと花松はゆっくりと橋掛リを下がっていきました。

素晴らしくドラマティックな現在能を、各演者の好演を得て存分に堪能しました。観世清和師のシテを観るのは「井筒」に続いて二度目でしたが、圧倒的な表現力はその端正な容姿と相俟って劇能でも存分に発揮されていました。三郎太くんも凄い!絶対にいい能楽師になることでしょう。そして、こうした物狂能ではこれまでに「歌占」「柏崎」「隅田川」「班女」といったところを観ていますが、「丹後物狂」はこれらと比べても、劇的な運び、多彩な舞事(カケリ・鞨鼓・クセ舞)、冒頭のアイによる語りの芸など見どころ満載でまったく遜色ない魅力を備えていました。

なお、パンフレットに掲載されていた解説に心に残る記述があったので、最後に引用しておきます。

「丹後物狂」は、父は子を、子は父を一度視界から見失わなければ、両者の再会、人間としての出会いは果たされないという、父子の普遍的テーマを内に含んで進行する一種のホームドラマですが、これを包むもう一つ大きな枠組が存在しています。天橋立の文殊菩薩のはからい、という神仏の目の枠組です。

平成21年(2009年)の智恩寺での上演では、キリの大聖文殊の利生なりでシテと子方が仏前に礼拝すると、御堂内陣の宮殿に照明が当てられ、金色に輝く文殊菩薩が出現したそうです。

こちらは、ロビーに設けられていた宮津市の物産販売コーナー。右手前はオイルサーディンですが、失礼ながら曲趣との間にギャップがあるような……。

配役

復曲狂言 浦島 シテ/浦島 野村小三郎
アド/孫 野村信朗
アド/亀の精 松田高義
復曲能 丹後物狂 シテ/岩井某 観世清和
子方/花松 観世三郎太
ワキ/筑紫の男 福王和幸
ワキツレ/従者 永留浩史
ワキツレ/従者 喜多雅人
アイ/岩井の下人 山本東次郎
アイ/里の男 山本則重
杉信太朗
小鼓 鵜澤洋太郎
大鼓 亀井広忠
主後見 観世芳伸
地頭 岡久広

あらすじ

浦島

浦島老人は、久しぶりに天気がいいいので、孫を連れて浜辺へとやってくる。孫が釣り糸を垂らすと大きな亀がかかり、これを酒の肴にしようと言うが、浦島は亀についての恐ろしい昔話を聞かせ、孫から亀をもらうと、放してやるかわりに年寄って腰が痛むのを治してくれと言い含めて海に放す。すると沖から亀の精が浦島に語り掛け、命が助かった御礼に若返り長寿になる不思議な箱を置いていく。蓋をとると、煙が上がったと見る間に浦島の姿が若返り、浦島は箱を押し頂いて、孫と共に喜んで我が家へと帰っていく。

丹後物狂

智恩寺近くの白糸の浜の領主岩井殿の一子で、橋立文殊の申し子花松は、少年となって成相寺の稚児として勉強に励んでいた。ところが、実家に帰って勉強の進み具合を報告していたとき、「簓八撥」のような雑芸も上手だと口をはさんだ下人の言葉を聞いた二日酔いの岩井殿が腹を立て、花松を即座に勘当してしまう。花松は悲しんで海に身を投げ、それを聞いた下人はあわてふためくが、結局は筑紫舟の船頭に助けられていた。花松はその後、九州彦山の寺に登り学問に励んで大成し、説教僧として船頭とともに故郷に帰り、文殊堂で説法を始める。そこに、子を失って物狂いとなりさすらっていた父親が行き合わせ、過去を語り合った後、めでたく再会となる。