富士山 / ぬけから / 羽衣

2012/11/18

『金剛永謹能の会』を、国立能楽堂で鑑賞。お天気は抜けるような快晴で、まさに富士山日和。番組も能「富士山」、狂言「ぬけから」、そして能「羽衣」です。

最初に、法政大学名誉教授の西野晴雄氏による20分ほどの解説。そのお話は、かいつまんで書くとこんな内容でした。

  • 世阿弥は、富士の曲なら夏と書いているが、この「富士山」も時期は夏。
  • この曲は世阿弥の後に金春禅竹(世阿弥の娘婿)が手を加え、さらに金春禅鳳(禅竹の孫)が多武峯で演じるために手を加えている。
  • このときの謡本が金春流に残っているが、今日の金剛流はそれよりも古い形で、曲の流れが自然かつダイナミック。
  • 「竹取物語」の最後で、かぐや姫が残した不死の薬と手紙を帝が駿河の一番高い山で燃やさせ、その煙が今も立ち昇っているという話が、この曲に織り込まれている。
  • 今日は、夏の駿河を舞台とする「富士山」と春の駿河を舞台とする「羽衣」とを見比べてほしい。

富士山

珍しい曲なので、会場で配られたパンフレットの「観能の手引き」の一部を引用してみます。

「富士山」は金剛流と金春流にしかない稀曲で、『竹取物語』や不老長寿を求めた道教と富士山の名の由来を混ぜ、富士山を描く能独自に創作された曲です。現在、富士山は休活中ですが、何度も噴火を繰り返し噴煙が絶えなかったために「不死」の山と言われ、またその美しさと荒ぶること(噴火)を畏怖して神として祀られてきました。平安時代に神仏習合になり浅間大菩薩に、中世以後は「木花之佐久夜毘売命」であるとの思想が出現し、それぞれが祀られることで現在に至っています。木花之開耶姫が、能の上で、平安初期にできた最古の物語である『竹取物語』のかぐや姫に代わったと考えられます。

ワキ/昭明王の臣下(工藤和哉師)の〈次第〉は、倭唐(やまともろこし)吹く風のおとや雲路に通ふらん。ワキは紺の狩衣姿で唐冠を戴き、二人のワキツレは橙色の狩衣に烏帽子姿。臣下系の約束事(cf. 松尾氷室)で、ワキは舞台に出たところと正面に立ったところで両手を広げて沈み込む型を示しましたが、相変わらず工藤和哉師の味わいのある声には聞き惚れてしまいます。ワキは唐の昭明王に使える臣下で、昔唐の方士が日本に渡り駿河国富士山に到って不死の薬を求めた例があるので、自分もその跡を尋ねようと言うのですが、その前に詞章がワキに日本のことを山海草木土壌までも、さながら仙境かと見えて誠に神国の姿を顕せりと言わせるのはかなり我田引水のような。

ともあれ道行、着きセリフと続いて裾野に来てみれば富士山の姿に仰天。ちょうどそこへ海人がいたので話を聞いてみようということになり、ワキとワキツレは脇座へ下がって前シテ/海人女(金剛永謹師)の〈次第〉となります。真砂長ずる山川や富士の鳴沢なるらんと謡う華麗な縫箔腰巻姿のシテの面は、優美な名品「雪の小面」。金剛永謹師の朗々と深く重く響く謡が駿河の海のたゆたうような情景を示すところへ、ワキが語り掛けて不死の薬にまつわる問答となりました。このとき、常座に立つシテと地謡前・脇座の前に立つツレ/海人女二人(廣田泰能師・元吉正巳師)という立ち位置から、ツレ二人が角に移りシテが笛座前に立つポジション変更が、魔法のように滑らか。そしてここからの詞章はちょっと難しくて十分には聴き取れなかったのですが、不死の薬を燃やした煙が今も立つところから不死山、あるいは6月でも雪を戴くので時知らぬ山などと説明されており、ここで再びスムーズな立ち位置の入れ替えがあってシテは正先へ、ツレ二人は笛座前へ。地謡が三保の松原田子の浦から〈クリ〉を謡う間に短いシテの舞、さらにシテの〈サシ〉が頂上は八葉にして、内に満池を湛へたりと火口の様子を描写した後は地謡が富士の白雪のことを謡う間シテは正中に下居しての居グセ。舞台上に動きはなくても、地謡と囃子方の力比べが見所に高揚感をもたらします。

最後に、かつて方士がこの山に登って不死の薬を手に入れたことが述べられたところで、ワキが愛鷹山、さらに浅間大菩薩について問うと、シテは立ち上がって自分が浅間大菩薩であることを明かしました。不死の薬を与えるからここで暫し待てというシテの姿は舞台上を回り始め、その動きも囃子方のテンポも徐々にスピードアップして神性が露わになり、常座で回ったところで静止。太鼓が入って〔来序〕が奏される中、極めてゆっくりとした歩みで中入となりました。

入れ替わりにやってきた間狂言は、浅間大菩薩に仕える末社。この間語リは大変見応え、聞き応えのあるもので、富士山の謂れを滔々と述べ、かなり長い舞を伴い、めでたやなと朗々と謡いながら舞台を回って、最後に拍子を踏んでもとの社に帰りけりとなりました。石田幸雄師、good job。

〔出端〕の囃子でまず出てきたのは、不死の薬が入った金の箱を捧げ持つ天女(宇髙竜成師)。前シテの海人が本当の姿を現したのがこのかぐや姫ですが、ここでは後シテではなく後ツレということになります。紫地に金の藤紋をあしらった美しい長絹、緋大口、まばゆいほど白い面を掛け、日月の天冠が華やか。箱を脇座のワキに授けると、勢いのある囃子に乗って大らかな天女舞を見せ、どんどんスピードアップしていって、ほとんど唐突といってもいいタイミングで地謡前に下居しました。いや、これは凄い。

さらに急調子の勇壮な早笛が奏される中、さっと揚幕が上がって今度は後シテの登場です。黒い狩衣、煌びやかな半切の上にダイナミックな赤頭、そして是閑作の大飛出という異形の姿で橋掛リに出ると、一ノ松で抑(そもそも)是は、富士山に住んで代を守る、火の御子とは我が事也。「船弁慶」の知盛も圧倒されるであろう低音の大音声は、ドンドンと繰り返される足拍子と共に凄い迫力です。のしのしと舞台に進んだシテの働キは、赤頭を靡かせながら大きく回り、両手を広げて拍子を踏み、飛んで膝を突くと膝行……と激しい動きが続きます。ワキが一礼して箱を持ち去ろうとするところを、まるで睨みつけるような視線で追ったシテは、地謡に乗ってさらに激しい飛び返りなどを交えながら舞い続け、最後に虚空に消えて行くさまを示しながら一気に橋掛リに出て二ノ松で回り、囃子方一斉の合頭と完全にシンクロしたジャストタイミングでの留拍子!最後に太鼓が長く引く掛け声と共に留撥を打って終曲となりました。

さすが金剛流、後場での天女舞の流れるような美しさに加え、後シテの圧倒的な舞は富士山の噴火のエネルギーがそのまま再現されたかのような迫力がありました。囃子方・地謡陣も激しい舞を支える力奏でシテを支え、ダイナミックな中にも一体感のある舞台でした。

ぬけから

肴を求めにやらされるのにいつもの振舞い酒が出ないので、太郎冠者(野村万作師)はこれが先例になっては困ると遠回しに酒を要求。さすがに主(野村萬斎師)もすぐに気付いて後ろを向いて仕方ない、酒をやろうと独白するのですが、これを聞き耳をたてて聞いていた太郎冠者はしめしめ。ここから狂言では定番の、主が太郎冠者に酒を注いで飲ませる場面に入るのですが、御酌、慮外にござります苦しうない、飲め飲めのやりとりのうちに太郎冠者に酒が回ってくる様子が絶妙に表現されてきます。他人が主のことを、冠者に酒を飲ませてくれる慈悲深いけっこうな主だと褒めていますよ、とかなんとか調子のいいことを滔々と独り語りで話しながら酒を重ねる太郎冠者の声はひっくり返り気味で、何やら目も座ってきた様子。むせながら三杯目を飲み干して立とうとしたところ腰が上がらず、しかし酔っていないと強弁しながらさっきと同じ話を繰り返していて、この辺り、酔っぱらいの生態は今も昔も変わらないのだなと妙に感心しました。ついに早く肴を買いに行けと主に言われて外に出た太郎冠者、気持ち良く酔って「ざざんざ、浜松の音は」と小謡を謡いながら舞台を回りますが、石仏を人と見間違えるほどの酔い具合に、ちと寝て行こうと正先にごろん。

ぼやきながら後を追ってきた主は太郎冠者に蹴つまずき、起こそうとするものの酒臭さに閉口。そこで後見から受け取った面は茶色・鉤鼻の異形の面で、抜き足差し足太郎冠者に近づき、その顔に面を掛けるとまず帰って様子を見ようと存ずる。やがて目を覚ました太郎冠者は何やら顔が腫れぼったいので清水で顔を洗おうとするのですが、そこに映る鬼の顔にびっくり仰天して一ノ松まで逃げてしまいます。しかし、勇気を振るってもう一度清水に近づき、水面を覗き込んで再び動揺。ところが、上を見上げても何もいないし、自分が手を振り上げれば鬼も手を振り上げるので、これは自分だと気付いた太郎冠者は、後ろへ下がってぺたんと胡座をかきおいおいと泣き出してしまいました。こうなると頼れるのは主だけ、歩きながら深酒を反省する太郎冠者でしたが、屋敷に戻って袖を隠しながら主を呼んだものの、出てきた主に顔を見せると主はわざとらしく驚いてみせてあっちへ行け!もうし、声で分かってくださいと泣きながら弁明してやっと太郎冠者だと認められはしても、鬼を雇ったなどと外聞が悪いから出て行けとにべもありません。せめて門番でも、それがダメなら台所で、などとあの手この手で主にすがりつく太郎冠者。深酒に仕事を忘れた報いとは言えこれでは太郎冠者がちょっと可哀想ですが、主はおそろしやおそろしやと引っ込んでしまいました。

主に見捨てられておいおいと泣いていた太郎冠者は、清水に戻って飛び込むのですが、ジャンプから連続してごろりと横に回った刹那に面を外します。その一瞬の手際の見事なこと、狂言師の体術の凄さを見せつけられました。ともあれ、鬼の面がとれて喜んだ太郎冠者は主を呼び「ここに鬼の抜け殻が」と見せると、主は「やくたいもない、しさりおれ!」。太郎冠者が「は〜」と平伏し、主が「え〜い」と威圧しておしまい。

羽衣

「羽衣」を観るのはこれが三度目ですが、前二回は観世流で、金剛流の「羽衣」は初めて。金剛龍謹師が舞う曲を観るのは、一昨年10月の「道成寺」の披き以来です。

羽衣が一ノ松近くの勾欄に掛けられ、強いヒシギから始まる囃子方の演奏に導かれて登場したワキ/白龍(野口敦弘師)は茶の絓水衣に白大口、ワキツレは青い縷水衣にやはり白大口。衣をとって舞台へ戻ろうとするところで幕の内からシテ/天人(金剛龍謹師師)が声を掛けましたが、「道成寺」でも聞いたとおりの深く声量のある声で、まだ二十代前半の若さなのにこの美声は、本人の鍛錬もさることながら、やはり天賦のものでもあるのでしょう。橙系の幾何学的な模様がモダンな縫箔腰巻に、頭上には白蓮天冠(観世流では鳳凰天冠が常)。すらっとした立ち姿が美しく、いかにも天人の雰囲気を醸し出しています。問答があり、いや疑ひは人間にあり、天に偽りなきものをという有名なシテの言葉を受けてどこまでも淡々とした口調のワキが羽衣を返してくれることになって、物着。金茶地に大きく鶴のような羽がリアルに描かれ、ところどころに緑の孔雀羽紋が入った大胆な意匠の長絹を着て立ち上がったシテは、ゆったりと〈クセ〉を舞い始めましたが、拍子を踏むために片足を上げた姿も安定して宙に浮くようでしたし、大らかに衣を広げた姿は羽が生えたよう。颯爽と袖を返して太鼓一発で空気が変わると、小書《盤渉》によって〔序ノ舞〕が〔盤渉序ノ舞〕になり〔破ノ舞〕が略される演出の中でも舞に徐々に力がこもり、ついにシテが橋掛リに移動して滑るような舞を繰り広げるところへ入ってきた地謡の詞章は中空から見下ろす視点になって、このとき橋掛リの松は三保の松原に、見所は駿河湾に見立てられています。最後に左袖を返したシテの姿は、ゆっくりと巻き上げられた揚幕の奥=天空の霞の中へと消え、脇留にて終曲。

これまた「舞金剛」の本領発揮といった趣の一曲で、美しく、清らかで、それでいて高揚感を伴う舞を堪能できました。なお附祝言は、金銀珠玉は降り満ちての「岩船」でした。

配役

富士山 前シテ/海人女 金剛永謹
後シテ/富士の山神
前ツレ/海人女 廣田泰能
前ツレ/海人女 元吉正巳
後ツレ/天女 宇髙竜成
ワキ/昭明王の臣下 工藤和哉
ワキツレ/従者 野口能弘
ワキツレ/従者 野口琢弘
アイ/末社の神 石田幸雄
一噌庸二
小鼓 曽和正博
大鼓 安福建雄
太鼓 小寺佐七
主後見 松野恭憲
地頭 今井清隆
狂言 ぬけから シテ/太郎冠者 野村万作
アド/主 野村萬斎
羽衣
盤渉
シテ/天人 金剛龍謹
ワキ/漁夫白竜 野口敦弘
ワキツレ/漁夫 工藤和哉
ワキツレ/漁夫 野口琢弘
一噌幸弘
小鼓 鵜澤洋太郎
大鼓 亀井洋佑
太鼓 小寺佐七
主後見 宇髙通成
地頭 松野恭憲

あらすじ

富士山

中国から渡来した昭明王の臣下が富士の裾野にやってきて、海人の女に不老不死の薬について尋ねる。その女は自ら浅間大菩薩、かぐや姫だと伝え、不老不死の薬を与えると約束し、雲間に姿を消す。やがて再び雲が開き、かぐや姫が現れ、臣下に薬を与え再び空に上がっていく。

ぬけから

主人は太郎冠者を使いに出す。太郎冠者は使いの前の振舞い酒を主人が忘れているので催促に戻る。十分に飲んだ太郎冠者は改めて出掛けるが、酔いのあまり道端に寝込んでしまう。心配して後をつけてきた主人はこの態を見て懲らしめのため、太郎冠者に鬼の面をかぶせて帰る。目を覚ました太郎冠者は水を飲みにいき、水鏡で自分が鬼になったことを知る。あわてて家に戻ると、鬼は内におけぬと主人に言いわたされ、絶望のあまり清水に身を投げようとし、その拍子に面が脱げ、これは鬼の抜殻だと主人に告げる。

羽衣

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