塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

遊園驚夢 / 貴妃酔酒 / 百花贈剣 / 貞蛾刺虎

Bunkamuraオーチャードホール(渋谷)で、梅蘭芳来日100周年記念 日中文化交流協定締結40周年 史依弘プレミアム公演。公演は、昆曲と京劇(それぞれおおむね上演時間1時間)の組合せが二夜連続で行われ、合計四演目がすべて史依弘の主演で上演されます。ちなみに昆曲(昆劇)とは元末から明の初め、江蘇省昆山一帯に生まれた演劇で、抒情性が強く、繊細な動作や節回しの優美さなどを特徴とするもの。京劇はその昆曲を取り入れながら清の時代に安徽省で生まれたもので、単純に言ってしまえばより高らかでダイナミック。日本の能と歌舞伎になぞらえることもできそうですが、京劇俳優はその修行の中で京劇のルーツにあたる昆曲の所作や歌い方も身に付けるものだそうです。

ところで、文戯と武戯のいずれもこなす上海京劇院のトップスター史敏の舞台を私が初めて観たのは、2000年の「昭君出塞」でした。そのときの王昭君の痛切な演技でいっぺんに彼女のファンになった私は、その後2002年の「白蛇伝」「貴妃酔酒」と史敏が来日するたびにホールに足を運ぶようにしたのですが、2006年の「楊門女将」を最後に彼女の姿を観る機会を失っていました。ところが、今回「史依弘」名義で来日した女優が実はあの史敏だと知って大いに驚愕。なにしろ、このことを知ったのが初日のオーチャードホールで買い求めたプログラムを読んだときだったからです。1972年生まれの彼女は現在47歳、どのようなステージになるのか?と期待と不安を共に抱きながら、開演を待ちました。

2019/08/13

第一夜は、昆曲「遊園驚夢」と京劇「貴妃酔酒」。

遊園驚夢

「遊園驚夢」は昆曲の代表的な演目である「牡丹亭」の一節で、2010年に坂東玉三郎丈によって演じられたことで日本でもおなじみです。

深窓の令嬢である杜麗娘が、うららかな春の日に夢の中で若い書生柳夢梅に出会い、目が覚めた後も夢見るような恋心にとらわれたまま……という乙女チックな演目で、侍女との穏やかな会話、たゆたうような唱、雅びな舞といった具合にゆったりとした時間が舞台上に連綿と流れていきました。その雰囲気は柳夢梅との出会いによっても変わらず、恥じらいを浮かべつつ恋心を隠せない杜麗娘が、やがて花神たちに祝福を受けて柳夢梅と楽しげに睦み合う姿がどこまでも上品に描写されます。最後に夢から覚めた杜麗娘は「春よ、心はまだあの夢のほとり」と歌い、侍女に支えられての去り際にわずかに力を失って足を止める様子を見せるのですが、これは、恋煩いが杜麗娘の命を奪うことの予兆を示したものであったのかもしれません。

貴妃酔酒

上述のとおり「貴妃酔酒」は過去にも観ていますが、「遊園驚夢」に続いてこの演目を観ると、賑やかな打楽器群の演奏や登場人物のはきはきとした所作にのっけから昆曲との違いを実感します。

百花亭で酒宴を張るよう言われて楽しみにしていたのに、皇帝は西宮の梅妃のところへ行ってしまい、そのことを知った楊貴妃は二人の宦官や女官たちを相手にやけ酒をあおる、という話。酒を過ごして目がすわった楊貴妃が二人の宦官が勧める酒杯を口で加えてぐるりと身体を回しえび反りになる場面は見どころの一つで、そうした楊貴妃の様子にすっかり怯えた宦官たちがビンタをくらうと笑いがおきました。しかし、この演目の眼目はそうした酒乱の描写にあるのではなく、皇帝の来訪をうきうきと楽しみにしていた楊貴妃が、皇帝が来ないことを知って覚えるショックをあらわには見せまいと酒に紛らわせる強がりの向こうの寂しさや悲しさ、その底にある女性としての可愛らしさにあります。ひとしき暴れたあとに一人残った楊貴妃が歌う独唱や、百花亭に心を残しながら女官たちに支えられて帰っていく楊貴妃の落胆した様子に、以前観たときにも増して深い同情を覚えたのですが、それはたぶんこちら側の感度が変わったからなのでしょう。

2019/08/14

第二夜は、京劇「百花贈剣」と昆曲「貞娥刺虎」。これらはいずれも初見です。

百花贈剣

こちらは文句なしに楽しい演目。企みによって酔わされ百花公主の寝所に放り込まれた海俊はあわや斬罪……と思いきや、一目惚れした百花公主は海俊の命を助けるばかりか、後日の結婚を誓うというハッピーな話。

武芸に秀でた百花公主が綸子に狐尾、華やかな刺繍の靠も勇ましく双剣を振るう颯爽とした姿と、庭に出て海俊と二人きりになってからの乙女らしい恥じらいの対比が見事です。いずれ海俊が功成り名を遂げたあかつきに父王に嫁ぐことの許しを求める、と言いながら離れがたい心を歌う百花公主には海俊と共に観客も惚れ惚れ。しかし、海俊と親密な様子の侍女江花佑に「お前は海俊の何なのか?」と一瞬嫉妬の様子を見せ、実は妹であると告げられてばつが悪そうに引き下がるコミカルな場面もあって楽しませてくれます。コミカルと言えば、海俊の妹である江花佑が最初に寝所で兄を見つけて大慌てし、なんとか助けようと兄を隠したもののその不自然な様子を百花公主に見咎められてさらにハマるという場面があって、この江花佑を演じた畢璽璽の可愛らしい演技にかつて「白蛇伝」で小青を演じた劉佳のコケティッシュさを連想しました。

なお、ストーリーからすると「百花贈剣」はより長い全幕物の一場面をとりあげたもの(折子戯)ではないかと思うのですが、そうであればこのあとどのようなストーリーが展開することになるのか興味が湧いてきました。プログラムに書かれたあらすじの朝廷に派遣された海俊は謀反軍の内部に潜り込んで重用され喇叭はそれに気付き海俊を殺そうと企みという記述からすると、単純にハッピーな話ではないのかも?

貞娥刺虎

昆曲の刺殺旦という役柄の代表的折子戯「三刺三殺」の一つとされる作品。「遊園驚夢」とは対照的に、悲壮な覚悟を固めて刺客となる宮女費貞娥をひんやりとした空気の中で演じる史依弘の存在感が際立ちました。

公主の華やかな装いを身にまとった費貞娥の最初の独唱は既に、ある覚悟をもって自らの企みを歌うもの。唱が終わり立ち尽くす費貞娥の姿に早くも拍手が湧きました。相手の目をえぐる、心臓を食らう、などの厳しい言葉を連ねたものの、ともすれば崩れそうになる心を必死に奮い立たせる様子がその演技から伝わります。続いて暗殺の相手=「虎」と異名をとる李過と向かい合う婚儀の場面。費貞娥の美しさに能天気に喜ぶ李過に対し表面的にはにこやかに振る舞いながら、ここで歌われる言葉も李過に対する黒い害意に満ち、だんだん観ているのが怖くなるほどです。すっかり酔った李過の鎧を脱がせて寝所に送り込んだ費貞娥がいったん下手に下がってから再び出てきたときには、華やかな装いはすべて取り払った白黒の質素な姿。殺気をみなぎらせた身のこなしで静かに寝所の幕を開け、胸元から短刀を取り出すとひっそり迫って、やおら李過の胸に突き刺しました。驚いて寝所を飛び出した李過にさらに迫る費貞娥の手は震えており、さらに刺された李過が崩れると費貞娥も腰を落とし、流れる血に目を背ける様子。続く立ち回りの中で短刀を飛ばされた費貞娥は、李過が寝所の外に掛けておいた剣を抜き、ついに李過の胸を貫きます。そして力を失った李過が背中から倒れたとき、費貞娥は李過の身体の上に突き立っている剣にぐっと力を込めてとどめを刺しました。

舞台上の照度が落ちて、費貞娥は李過に対する憎しみをこめた独唱。しかし、やがて緊張を解いて泣き笑いのような表情を見せた費貞娥は、ため息と共に自分の名を呼び、本当に殺したかったのはこいつではなかったが、今は笑ってあの世へ行こうと自分に言い聞かせます。そして李過の身体から剣を引き抜くと、自分の首に剣を当てて自刎の型を示し、その刹那にスポットライトの下で正面を向いた費貞娥の姿が浮かび上がると、幕が下りました。

夢見る深窓の令嬢、酔態に悲しみを紛らせる楊貴妃、勇ましくもうぶな公主、そして悲壮な覚悟を固め最後は従容と死に赴く刺客。それぞれに異なる性格の主人公を演じ分けた史依弘の繊細な演技に引き込まれ続けた二日間でした。とりわけ最後の「貞娥刺虎」でのリアルな心理描写は衝撃的ですらあり、この演目を見逃さずにすんだ幸運はこの上もなく貴重。史依弘の美貌はいささかの衰えもありませんでしたが、それよりも何かもっと深いところで、かつてとは違う彼女の魅力を感じた四演目だったと感じました。

なお演出面では、舞台装置は京劇の常道で一桌二椅を基本とし、必要に応じ帳子を足す程度の簡素なものですが、演目に応じた意匠の背景を効果的に配することで情景描写を豊かにし、さらに照明の明暗や色合いの変化(暖色と寒色の入り繰りなど)によって場面転換や道行を示すといった工夫がなされていて、とてもモダンな印象を受けました。

今回の公演は、出演は上海京劇院ですが、主催は上海弘依梅文化伝播有限公司という史依弘自身が設立した制作会社です。2016年に設立したこの会社を起点に、史依弘はここ数年積極的なプロダクションを中国国内だけでなく米国でも実現しているそうですが、今回の日本公演の反響を踏まえてまた遠くない時期に、意欲的なプログラムを組んで来日してくれることを期待しています。

配役

昆曲遊園驚夢 杜麗娘 史依弘
柳夢梅 陳東煒
春香 畢璽璽
京劇貴妃酔酒 楊貴妃 史依弘
高力士 虞偉
裴力士 李春
京劇百花贈剣 百花公主 史依弘
海俊 李春
江花佑 畢璽璽
昆曲貞娥刺虎 費貞娥 史依弘
李過 楊東虎

あらすじ

遊園驚夢

箱入り娘として両親に大切に育てられた杜麗娘は、春うららかなある日、両親の目を盗んで侍女春香と屋敷の裏庭の花園へ散策に出掛ける。荒れた庭園にもめぐり来た春爛漫の景色に乙女らしい感傷をおぼえ、眠りにいざなわれた杜麗娘は夢の中で若い書生柳夢梅に出会う。想いあう二人に別れの時が訪れ、ふと目を覚ましてしまう杜麗娘だったが、心は相変わらず夢の中。

貴妃酔酒

唐の玄宗皇帝は楊貴妃と百花亭で花を愛で酒杯を交わす約束をした。約束の日、楊貴妃は百花亭で酒宴を整えて待っているが玄宗はなかなか現れず、やがて皇帝は寵姫の一人梅妃の江妃宮へ行ってしまったと知る。もともと嫉妬深い楊貴妃は込み上げる感情を紛らわそうと酒を飲むが、かえって愁いが募り飲むほどに酔いが回り、ついには情念に火がついて抑えきれず苦悶する。

百花贈剣

王の屋敷の侍従長叭喇は海俊を妬み無理に酒を勧めて酔わせたあげく、無断で入った者は斬刑に処されるという百花公主の部屋に連れて行き公主の手により殺させようと企んだ。奇くしくも公主の侍女江花佑は海俊と生き別れになっていた妹だったので、誤って部屋に入った兄を助けようとする。そこへ公主が戻ってくるが海俊の凛々しい姿を見て心を奪われてしまう。公主は部屋に入ったことを咎めないばかりか生涯をともにする誓いとして宝剣を贈る。

貞娥刺虎

明末、李自成が都に攻め入り崇禎帝は自害に追い込まれる。宮廷に仕える費貞娥は公主に代わって崇禎帝の敵を取ろうとする。李自成の義兄弟で「虎」の異名を持つ李過に公主を装った費貞娥が嫁ぎ、婚礼の夜、寝室に入った費貞娥は李過に刃を向ける。

この公演を告知する楽戯舎からの案内の中に、こんなお知らせが同封されていました。

日本での主要な京劇公演の招聘元として大きな役割を果たしていた楽戯舎が、この公演を最後に招聘事業を終了するという内容です。決して鑑賞回数は多くなかったものの、それでも折々の京劇公演を楽しみにしていた身としてはとても残念。ともあれ、関係の方々にはこれまでの公演実現における尽力に改めて感謝したいと思います。