ハプスブルク展

2019/12/22

国立西洋美術館(上野)で「ハプスブルク展」。

この展覧会の開催趣旨は、フライヤーによれば次の通りです。

数世紀にわたり、ヨーロッパの歴史の表舞台で脚光を浴びてきたハプスブルク家。同家はまた、絵画や工芸品、武具など、世界屈指のコレクションを築いたことでも知られます。その重要な部分を所蔵する美術館の一つが、彼らによって建造され、1891年に開館したウィーン美術史美術館です。オーストリアと日本の国交樹立150周年を記念する本展は、同館の協力のもと、絵画を中心に、版画、工芸品、タペストリー、武具など約100点から構成されます。個性的な同家の人々を紹介しつつ、コレクションの歴史を軸として、時代ごとにその特色やあり方を浮き彫りにする企画です。

ハプスブルク家については世界史の授業などでよくよくおなじみですが、私はオーストリアに行ったこともなければスペインに行ったこともないので、いまひとつその実態を把握しきれていません。そこで、今度は「ハプスブルク展」の公式サイトから「ハプスブルク家とは」という説明部分を引用します。

ライン川上流域の豪族として頭角を現し、13世紀末にオーストリアに進出。以後、同地を拠点に中東欧、ネーデルラント、スペインなどに支配を広げ、カール5世(1500-58)の時代には中南米やアジアにも領土を獲得し、「日の沈まない世界帝国」を築き上げた。15世紀以降、神聖ローマ帝国の皇帝位を代々世襲。ナポレオン戦争による神聖ローマ帝国解体後は、後継のオーストリア帝国の皇帝となった。第1次世界大戦後に、帝国が終焉を迎えるまで、数世紀にわたり広大な領土と多様な民族を統治したヨーロッパ随一の名門家。

そうそう、16世紀のヨーロッパの地図でフランスの西と東の両方が同じ色に塗られていたのを見た記憶が蘇りました。もっとも、昨年5月に「プラド美術館展」を見たときにベラスケスを見出した国王フェリペ4世の事績についても学んでいたのでスペイン・ハプスブルク家については多少の予備知識はありましたが、ウィーン・ハプスブルク家の動向に接するのはこれがほとんど初めてとなります。

展覧会の構成は、次の通りです。

  1. ハプスブルク家のコレクションの始まり
  2. ルドルフ2世とプラハの宮廷
  3. コレクションの黄金時代:17世期における偉大な収集
    1. スペイン・ハプスブルク家とレオポルト1世
    2. フェルディナント・カールとティロルのコレクション
    3. レオポルト・ヴィルヘルム:芸術を愛したネーデルラント総督
  4. 18世期におけるハプスブルク家と帝室ギャラリー
  5. フランツ・ヨーゼフ1世の長き治世とオーストリア=ハンガリー二重帝国の終焉
ハプスブルク家のコレクションの始まり
ハプスブルク家で本格的な収集が行われるようになった15世紀後半から16世紀にかけての時代、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(1459-1519)とオーストリア大公フェルディナント2世(1529-1595)に着目。マクシミリアン1世はブルゴーニュ公の娘を妻に迎えたことで同公国の文化を継承して芸術の庇護者となり、フェルディナント2世はインスブルック近郊のアンブラス城内に設けた「芸術と驚異の部屋」に自身のコレクションを集めたと言います。このコーナーの冒頭にはマクシミリアン1世の肖像画があって、軍事に秀でた皇帝の強い意思を示す面立ちを見ることができますが、それよりも息を呑むのはずらりと並ぶ甲冑のコレクションでした。顔面と全身を覆う金属の甲冑は確かに防御力には秀れていそうですが、同時にかなり重そう。こんなものを着て戦えるのか?と首をひねるものの、後で調べると訓練された騎士であれば十分自由に動け、泳ぐことすらも可能であったそうです。
ルドルフ2世とプラハの宮廷
稀代のコレクターとして名高い神聖ローマ皇帝ルドルフ2世(1552-1612)は、1583年に宮廷をウィーンからプラハに移し、城内に「芸術の部屋」と呼ぶ部屋を設けて工芸品・彫刻・版画・書籍を始め百科全書的なコレクションを構築しました。上述の甲冑が置かれた広い部屋にはルドルフ2世のコレクションである綱模様が美しい甲冑や巨大なタペストリーも展示され、さらにルドルフ2世が熱心に収集したアルブレヒト・デューラーのいくつかの宗教画や《ヨハネス・クレーベルガーの肖像》(1526年)も展示されていましたが、このお世辞にも美しいとは言えない男性の胸像風の肖像画よりもヨーゼフ・ハインツ(父)による小さな《神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の肖像》(1592年頃)に見られるルドルフ2世自身の姿の方が、どことなく浮世離れした存在感を示していて興味深いものでした。他にも多くの神話画や工芸品が展示されていて、ルドルフ2世のコレクションの豊かさを思わせます。
スペイン・ハプスブルク家とレオポルト1世
17世紀における偉大な収集の冒頭はスペイン・ハプスブルク家。ディエゴ・ベラスケスの《スペイン国王フェリペ4世の肖像》《スペイン王妃イサベルの肖像》《青いドレスの王女マルガリータ・テレサ》の3点セットが白眉。これらの肖像画はいずれも、ウィーンの宮廷にマドリードの人々の近況を知らせるために贈られたもので、《マルガリータ・テレサ》の贈り先は婚約者である神聖ローマ皇帝レオポルト1世(1640-1705)です。フライヤーの表紙やチケットを飾り今回の展覧会を代表する作品とされている《青いドレスの王女マルガリータ・テレサ》(1659年)の近くにはベラスケスの弟子にして女婿であるデル・マーソの《緑のドレスの王女マルガリータ・テレサ》(1659年頃)も置かれていましたが、どうして?と思うほどに出来栄えが劣っており、翻ってベラスケスの練達の技が際立ちます。また、ヤン・トマス《神聖ローマ皇帝レオポルト1世と皇妃マルガリータ・テレサの宮中晩餐会》(1666年)はやや暗めの大広間の中でそこだけ白く光を反射するU字形のテーブルの上の膨大な量の料理と大勢の参会者の姿を描いて一種異様。なお、マルガリータ・テレサ(1651-1673)は夫に愛されたものの、若くして亡くなってしまいます。
フェルディナント・カールとティロルのコレクション
ティロルを拠点とするハプスブルク家傍系のフェルディナント・カール(1628-1662)は、妻がメディチ家出身であることもあり16-17世紀のフェイレンツェ派の作品の収集に力を注ぎ、その中のラファエロの《草原の聖母》はウィーン美術史美術館を代表する作品になっているとのこと。今回の展覧会ではこの作品は来日していませんが、フランス・ライクス《オーストリア大公フェルディナント・カールの肖像》(1648年頃)はフランス風に金色のリボンや刺繍を伴う赤い柔らかなマントと衣装をまとった大公の洗練されたファッションセンスを示しています。
レオポルト・ヴィルヘルム:芸術を愛したネーデルラント総督
17世紀のコレクターの最後は、オーストリア大公レオポルト・ヴィルヘルム(1614-1662)。30歳で総督として赴任したブリュッセルでの10年間で絵画だけでも1,400点を収集したと言うから驚きです。当時はピューリタン革命で解体された英国王侯貴族のコレクションが競売にかけられることもあり、そうした作品が大陸に流れてくることも多かった模様。ティツィアーノの暗く重厚な《ベネデット・ヴァルキの肖像》(1540年頃)やマンフレーディの劇的な《キリスト捕縛》(1613-15年頃)はそうした経緯でハプスブルク家のコレクションに加わったものです。他にもティントレットやヴェロネーゼといったルネサンス期ヴェネツィアの巨匠の作品や、ルーベンス工房の神話画、フランス・ハルスの肖像画、レンブラント《使徒パウロ》(1636年?)、ロイスダールの風景画、ヤン・ステーンの風俗画、さらにはいくつかの静物画などのオランダ絵画など、質量共に充実したコーナーでした。
18世期におけるハプスブルク家と帝室ギャラリー
女帝マリア・テレジア(1717-1780)と、その娘でフランス革命に命を落としたマリー・アントワネット(1755-1793)、そしてナポレオン戦争で解体された神聖ローマ帝国の最後の皇帝にしてオーストリア帝国初代皇帝であるフランツを取り上げるコーナー。この時代に帝室コレクションがウィーンに集められ、さらにベルヴェデーレ宮殿内の画廊に体系的に展示して一般大衆にも公開するようになった点が歴史的には重要ですが、このコーナーに置かれた作品群の中で目を引くのはやはりマリア・テレジアとマリー・アントワネットの肖像画です。右手に笏を持ち左手の台上にはオーストリア、ハンガリー、ボヘミアの三つの王冠。ボリュームのある体躯を緑のビロードのドレスに包み、大きく手を広げて包容力と威厳を示すマリア・テレジアの表情は、実に威厳に満ちたもの。かたやマリー・アントワネットの肖像は、パリの宮廷でファッションリーダーとなった彼女の姿を腰から大きく横に張り出した形状が特徴的なサテン生地のドレスのなめらかな光沢や、頭上高く結い上げられた栗色の髪の上の羽飾り、そしてピンクに染まる頬と赤い唇が見る者を惹きつけますが、もちろんこの肖像画もパリからウィーンの母のもとへ贈られたものです。また、これらとは画風を異にして神話的な雰囲気をたたえる《神聖ローマ帝国皇妃マリア・ルォヴィカの肖像》の、やや半身ながら正面を向いて鑑賞者と対峙するその穏やかな眼差しとすっきりと細い面立ちにも強く心を奪われました。
フランツ・ヨーゼフ1世の長き治世とオーストリア=ハンガリー二重帝国の終焉
最後は、第1次世界大戦での敗戦をもってその栄華の終焉を迎える時代の「最後の皇帝」フランツ・ヨーゼフ1世ゆかりの品々です。このコーナーにおいてまず目を見張るのはフランツ・ヨーゼフ1世自身の肖像画ですが、そこに描かれた軍装(胸にはいくつかの勲章)の老皇帝は、謹厳にして意思の力を失わない表情をこちらに向け、ハプスブルク家の命運をひとりで支える覚悟を感じさせます。同じコーナーにはフランツ・ヨーゼフ1世の愛用のフリントロック式ピストルも展示されており、その装飾性と実用性の融合が皇帝の性格を反映しているようにも見えてきます。かたや、ヨーゼフ・ホラチェク《薄い青のドレスの皇妃エリザベト》は、その自信に満ちた美貌と豪華な装飾を散りばめたシルキーなドレス、徹底的なダイエットによって維持したとされる腰のくびれをもって、皇帝とは違った意味での存在感に溢れていました。欧州宮廷一の美人、破滅的な浪費家、放浪の皇妃、その悲劇的な死(暗殺)などのシシィの伝説については、かつてモーリス・ベジャールがシルヴィ・ギエムに振り付けたバレエ作品「シシィ」を通じてかすかに知っていましたが、こうしてその肖像画を目の当たりにすると感慨もまたひとしお。この絵の前からしばらく動くことができませんでした。

図録の見開きの写真はウィーン美術史美術館。この美術館とスペインのプラド美術館を訪れることが、目下の夢の一つになりました。

マクシミリアン1世神聖ローマ帝国皇帝
“中世最後の騎士”。武勇に秀で、生涯に27の戦を戦った。語学に才を発揮し、芸術の愛好家でもあった。
ルドルフ2世神聖ローマ帝国皇帝
統治者としてのセンスは皆無、しかし学問や芸術への造詣の深さは抜きん出ていた“変人”。ヨーロッパ史上における稀代の芸術愛好家、コレクター。
フェリペ4世スペイン国王
若くして即位、文化や芸術に情熱を注ぎ、若きベラスケスを宮廷画家に採用し厚遇したことで知られる。
マルガリータ・テレサスペイン王女
幼い頃からウィーンの宮廷に嫁ぐことが決まっていたスペイン王女。この作品は許嫁に彼女の成長ぶりを伝えるべく描かれたもの。
マリア・テレジア神聖ローマ帝国皇妃
天性の政治的手腕で国難を切り抜け、民を導いた“女帝”。当時としては珍しく恋愛結婚したフランツ・シュテファンと16人もの子供をもうけた。
マリー・アントワネットフランス王妃
母マリア・テレジアの取り決めで、フランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)と政略結婚。フランス革命でギロチンの露と消えた。
フランツ・ヨーゼフ1世オーストリア帝国(1867年以降はオーストリア=ハンガリー二重帝国)皇帝
68年間もの長きにわたって在位した“最後の皇帝”。今日のウィーンの街の姿を整備し、ウィーン美術史美術館を建設させた。
エリザベトオーストリア帝国(1867年以降はオーストリア=ハンガリー二重帝国)皇妃
美貌を見初められフランツ・ヨーゼフ1世のもとに嫁ぐも、ウィーンの宮廷に馴染めず、各地を放浪。身内の不幸にも見舞われ、自身も変死した薄幸の皇妃。愛称「シシィ」。