痩松 / 二人静

2020/01/30

国立能楽堂(千駄ヶ谷)の企画公演で、狂言「痩松」と能「二人静」。

まず最初に「おはなし 演じる・教える・作る」と題して、武蔵野大学教授・三浦裕子氏を聞き手に野村万作氏の芸談を伺う時間がありました。おしゃべりでは「初舞台」だ、と言いつつ巧みな話術で語って下さった万作師の話の内容をかいつまんで紹介すると、次の通りです。

  • 修行の仕方について
    • 劇団民藝の大滝秀治は「思えば出る、思わぬことはするな」とよく言っていた。また、民藝の公演で木下順二『子午線の祀り』の義経役を演じたとき、宇野重吉は「行間に意味がある」と語っていた。書いてあることと共に書いてないことを自分で探究してセリフにしろということ。
    • ところが狂言の方は、初めは師匠から言われたとおりにやらなければならないので、自分の思いとか個性とか創意とかは邪魔になる。やがて自分で何度も語っているうちに言葉の意味を知りたくなり、最後は「思えば出る」というところに一緒になるが、それは師匠がいなくなってから。父に習っていた頃は「思えば出る」どころではなく型にはめこまれていた。ところが一方で父は「俺と同じことをやっていても俺以上にはなれないぞ」とも言っていた。父もそうだったが、長男は父親から離れたいもの、次男は父親を追いかけるもの。
  • 美しい狂言とは
    • 狂言は、余計なものをそぎ落とした抑制された演技の中で客に想像力を発揮してもらうもの。その美しさには、姿かたちの美しさ、動作の美しさ、言葉の美しさがある。かつて観世寿夫と一緒にシェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」を武智鉄二演出で演じたことがあるが、動きや姿が観世寿夫と区別がつかないと言われた。単なる笑いではなく、能と共に歩んでいることでの様式美がある。狂言は謡や舞も持っており、能の美しさを身体に取り込んでいる。
    • 一方、狂言と能に対するお客の見方は違っていていい。能は謡を聞く、舞を見るという感覚的なもの。狂言は言葉の芸なので、頭で理解するもの。
  • 能のアイについて
    • 能にもいろいろある。たとえば「安宅」の強力は狂言的に演じる。能の候、狂言のござる、その間に存ずるがあり、アイ狂言は幅をもって演じ分けなければならない。
  • 芸の柔軟さについて
    • 外国人の弟子からも芸を学んだことがある。「鎌腹」で主人公が自殺するために鎌をくくりつけた柱にとびかかることを繰り返す場面があるが、従来のやり方では変化に乏しいと思っていたところ、その弟子は恐れの盛り上がりを示す所作をしてみせた。なるほどと思ってその動きを取り入れたが、これも父親がいなくなってから。
    • 自分は柔軟だった時期もあったが、今は頑なで守り一方。三世山本東次郎が「(乱れて盛んになるよりもむしろ)堅く守って滅びよ」と言われた気持ちがとてもよくわかるようになってきた。
  • 新作狂言について
    • 最初に演じた新作狂言はフランス笑話「唖のユミユリュス」を狂言にして岸田今日子と共に演じたもの。笑いの価値を上げるために若い頃はいろいろ試行錯誤した。それは今でも続いており、たとえば中島敦の「山月記」を能舞台の上でやってみたい。

この話の中で紹介されていた昨年発売の『狂言を生きる』も読んでみようかと思ったのですが、Amazonで検索したらけっこうなお値段だったので断念しました。それにしてもこの日配布された野村万作師の略歴を見ると、万作師が若い頃から壮年に至るまで、武智演劇やギリシア悲劇、新作狂言など、伝統狂言の枠を飛び越えて幅広い活躍をしてきたことに改めて気付かされました。そのDNAが、今の萬斎師にも受け継がれているということなのでしょうか。

ともあれ、この日の公演は実は野村万作師の「おはなし」を聴きたくてチケットをとったようなもの。そして続く狂言「痩松」と能「二人静」は共に観たことがある演目なので、さらっと触れる程度にしておきます。

痩松

「痩松」とは山賊言葉で略奪品がないこと。獲物に恵まれない山賊がやっと通りがかった女を脅してその品々をせしめたものの、品定めをしている間に女に長刀を奪われて逆襲されるという話で、2013年に今回と同じ和泉流の小笠原匡師の山賊、吉住講師の女で観ています。この日の山賊は石田幸雄師、女は野村萬斎師。萬斎師が出演している割には比較的淡々と話が進みましたが、女が長刀で山賊を脅すたびに慌てた石田幸雄師が「あぶない!」とどぎまぎするのが素のように見えて面白く、見所に笑いが広がりました。最後は頭巾をとった山賊の顔を見て女が「盗みをせいでかなわぬ奴じゃ、あのいたずらな面わいやい」と萬斎流のねっとりした口調でけなしましたが、おっとりした山賊は長刀を返してくれと懇願。しかしこれを手厳しく脅して女がさっさと下がっていくと、さすがに山賊も「あの女山賊やまだちめ!」と気を取り直してやるまいぞと後を追いました。

二人静

二人静は直近では昨年6月に金春流・中村昌弘師の会(静御前:高橋忍師 / 菜摘女:中村昌弘師)で観ていますが、観世流では2014年(静御前:観世芳伸師 / 菜摘女:藤波重彦師)と2013年(静御前:谷村一太郎師 / 菜摘女:藤波重彦師)に観ています。今回は小書がないのでオーソドックスな2014年の演出に従うこととなり、憑依の場面と相舞とが見どころとなります。

ツレ/菜摘女(松木千俊師・面は小面)が前シテ/女(武田尚浩師・面は若女(洞白作))に出会いあら恐ろしの事を仰せ候ふやと震え上がらされてから、ワキ/神主(江崎欽次朗師)の前で真しからず候ふ程に、申さじとは思へどもと口を滑らせたために静御前の霊に憑依されてなに真しからずとやと声音を変えるまで緊迫感が緩むことがなく、後シテが出てからの相舞はシテ・ツレいずれも金色の静烏帽子・紫地に金文様の長絹をまとって共に舞いながらときにツレがシテに従い、あるいは互いに位置を替え巡り合い、シンクロの精度よりもシテとツレとがそれぞれに時を越えて静御前と同化している様子に感銘を受けました。ついには思ひ返せば古もとシテが左手をツレの右肩に掛け、最後はツレを一ノ松に送り出して、常座に立ったシテが留拍子を踏みました。

配役

狂言和泉流 痩松 シテ/山賊 石田幸雄
アド/女 野村萬斎
観世流 二人静 前シテ/女 武田尚浩
後シテ/静御前の霊
ツレ/菜摘女 松木千俊
ワキ/神主 江崎欽次朗
アイ/従者 中村修一
杉信太朗
小鼓 鳥山直也
大鼓 河村大
主後見 武田宗和
地頭 武田志房

あらすじ

痩松

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二人静

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