冥途の飛脚

2021/02/14

新型コロナウイルス感染症の蔓延に伴う緊急事態宣言が当初予定されていた2月7日に解除されず1カ月延長となったため東京都を出ることができない日曜日、国立劇場からのお誘いメールに乗って文楽を観に行くことにしました。場所は国立劇場小劇場、演目は近松門左衛門「冥途の飛脚」です。

長らく歌舞伎・文楽に親しんでいたものの、やがて世話物の義理人情、時代物の忠義の世界観が徐々に重く感じられるようになり、人間の感情をよりピュアに描く能楽を鑑賞の中心に据えるようになってほぼ10年。こうして文楽を観るのも実に5年ぶりのことで、久しぶりに配役表を見たら太夫の芸名表記「○○大夫」が「○○太夫」に変わっていました(変更されたのは2016年4月)。

「冥土の飛脚」は実説「梅川忠兵衛」に取材した人形浄瑠璃(近松のいつものパターン……)で、その後歌舞伎に移植されて「恋飛脚大和往来」となりました。自分も「恋飛脚大和往来」の方は観ていますが「冥途の飛脚」を観るのは意外にもこれが初めてです。


淡路町の段
みをづくし難波に咲くやこの花のから始まる淡路町の段、「亀屋飛脚 為替」と大書された暖簾が下がる飛脚屋の店先のセットで手代が忙しげに働く内にそこにはいない主人公・忠兵衛の出自などが手際良く語られ、武家からの支払督促には慇懃に、町人(後で登場する八右衛門の使い)の督促には上からの物言いで対応するのも飛脚屋の日常。黒い頭巾をかぶった母・妙閑が客からの督促の多いことを心配し愚痴をこぼして下がるところへ(ここから奥)下手から腕組みして忠兵衛(遣うのは桐竹勘十郎師)が登場しました。
冒頭の語りによれば忠兵衛の年齢はまだ24歳で大和から養子に入り今は店を差配する立場ですが、留守の内に催促は入っているであろうことは察していて、ちょうどそこへ出てきた飯炊き女に色仕掛けで様子を聞こうとするものの相手がすっかりその気になっておかしな方に話が進み失敗。そこへ今度は友人の八右衛門がやってきて、顔を合わせたくない忠兵衛は逃れようとしたものの見つかってしまいます。江戸から届いているはずの五十両をなぜいつまでも届けないのかと詰め寄る八右衛門に、忠兵衛はその五十両を遊女・梅川を請け出すための手付に使ってしまったと涙の告白。されども遅うて四五日中ほかの銀も上るはずだから損はさせないと絞り泣く忠兵衛を遣う勘十郎師も肩を震わせていましたが、よう言うた、了簡して待ってやると男気を見せた八右衛門もこれが滅茶苦茶な言い分であることには気づいたはずです。妙閑に呼び止められてやむなく店内に入った八右衛門は律儀な妙閑の手前、とっさの悪知恵で鬢水入れを紙に包み五十両に見立てて渡す忠兵衛と顔を見合わせて「一ツ、金子五十両受け取り申さず候」と偽の受取証文を返しましたが、ここで八右衛門が物わかりの良さを示さなければ本当の悲劇は防げたのかも知れません。
安心した妙閑が奥に下り八右衛門も帰宅して夜になったところに、シャラーンと鈴が鳴って荷駄を背負った馬が到着。ここで手代が冒頭の武家からの督促のことを報告したため、忠兵衛は自ら三百両を懐中に入れて客の屋敷に出向くことになります。ここで店舗のセットが引き上げられ、場面は堀端の道。忠兵衛は上手から下手へと歩き、遠景の町屋は逆に左から右へと動いていきますが、ふと足が止まったところで気づくと北の堂島に行かねばならないのにいつもの癖で南へ向かっています。ここまで来たからには梅川の顔を見に行こうか、いやこの金を持っていては使ってしまうから先に届けようかと悩むところ、太夫・三味線・人形の息がぴったり合って身悶えします。ついに梅川を訪ねることに決心した忠兵衛が羽織の脱げるのも気づかず足を速めるとそこにいた犬に蹴つまずいて吠えかけられますが、石を投げつけて犬を追い払い下手へ。詞章の最後に一度は思案二度は不思案、三度飛脚。戻れば合はせて六道の、冥土の、飛脚と引き返せない道に入ってしまったことが語られて幕となります。
封印切の段
この段を語る太夫は竹本千歳太夫師、三味線は豊澤富助師。ここからは歌舞伎でもおなじみの段になりますが、上記の通り八右衛門の人格が歌舞伎とは異なるので進行にも違いが出てきます。舞台上のセットは新町の揚屋越後屋(歌舞伎では井筒屋)で、下手四分の一ほどが屋外、格子戸を入って右側が屋内。さらに屋内は三段構造になっており、一段上がった中段が花車(女主人)が丸火鉢で手をあぶる場所、そこから上手へ小さく一段上がったところが障子で閉め切られる独立した部屋になっていて遊女たちが詰めている「二階」です。
下手から現れた遊女・梅川(吉田勘彌師)は、田舎客の身請話が進んでいることに憂鬱になって島屋を抜け出し花車の元へやってきたところ。二階の障子が開くと女郎たちが拳に興じており、一人が負け続けて酒を飲まされていましたが、そこへ混じった梅川が忠兵衛の手付の期限も切れてこのままでは本意を遂げることができないとしみじみ嘆くと、一座の女郎たちは自分の身の上にも思い合わせてもらい泣きをします。ここで気分を変えようということになり、竹本の師匠に浄瑠璃を習っているという禿が三味線を持ってきて「夕霧文章」の一節を弾き語り。少女らしい高い声ながらとかくただ恋路には偽りもなく誠もなし、縁のあるのが誠ぞやと遊女の恋のままならぬ定めを歌う禿の撥は富助師の三味線に見事にシンクロしていますが、この間下の階の花車は何をしているのかと見れば草子物を熱心に読み時折ページをめくっていました。ともあれ梅川と二人の女郎は禿の浄瑠璃にさらにどんよりとなってしまいますが、これを聞きつけた八右衛門が越後屋に入ってきて下段の位置で煙管を使い始めました。
来たのが八右衛門だと知った梅川は会いたくないと二階の障子を閉めましたが、二人の女郎が座敷に降りたところで八右衛門は、梅川も忠兵衛もいないうちに耳打っておくことがあると一同を集めたちょうどそのとき、気ぜわしげな様子の忠兵衛が下手から現れて中に八右衛門がいることに気付き思わず立ち聞きの形。梅川も二階から階下の様子に聞き耳を立てています。そうとは知らない八右衛門は忠兵衛が梅川の身請のために手付の五十両を出したことから方々の届け銀が不埒になり、当たる所が嘘八百、いかう鐺が詰まつて来たことを明かした上で獄門の種ご覧あれとくだんの鬢水入れを示したため一同驚き、二階の障子も一枚開いてそこに顔を畳に摺り付けて声を隠して泣いている梅川の姿が見えました。忠兵衛はと言えば、自分が恥をかかされていると思って身悶えしながら懐の三百両、五十両引き抜いて面へぶち付けてやろうかと考えるものの、これは「武士の銀」だと一度は思いとどまって越後屋の軒先の水槽の陰に隠れます。しかるに八右衛門の説明は、このままでは忠兵衛は盗みにも走ろうし聖徳太子が直に教化しても直らないだろうとやや暴走気味ですが、それでも忠兵衛を寄せ付けてくださるなと一同に頼み込みました。ここが歌舞伎の「封印切」と大きく違うところで、歌舞伎では八右衛門はあくまで敵役。忠兵衛を徐々に追い詰めてのっぴきならない仕儀に至らせるのですが、こちらの八右衛門は淡路町の段でも見られたように忠兵衛を友達と思い、それゆえにこれ以上の罪を重ねさせないよう廓の人々に事情を明かすといういわば善人です。
しかし忠兵衛元来悪い虫、怒りに我を忘れ髪を乱して越後屋の中に入ると八右衛門に五十両や百両、友達に損かける忠兵衛ではごあらぬわいの、八右衛門様、八右衛門め、サア銀渡す手形渡せと激昂。これに対し八右衛門は一度は驚いたものの忠兵衛の手を押さえたっぷり間をとって短慮を戒めましたが、このやりとりは二人の男のそれぞれが乗り移ったような千歳太夫師の熱演が圧倒的。しかしすっかり頭に血が上っている忠兵衛は懐から小判を次々に落とし、床に当たるガチャーンと言う音にそこにいる全員がビクっと身体を震わせて舞台上にはのっぴきならない緊張感が走りました。十・二十・三十……ついにまとめて五十両(棒の先に房のように小判がついた作り物)を八右衛門に投げつける忠兵衛。これに怒った八右衛門との間に五十両の投げ合いがしばらく続くところへ梅川が割って入って八右衛門の言うことが道理だとその場を収めると、顔を背ける忠兵衛の膝に手を置き、廓で金に詰まるのと人の銀の封を切って縄にかかるのとどちらが恥か、あと二年の年期が明ければ大坂の浜で客を引いてでもあなた一人は養ってみせると健気なクドキを聞かせて泣き伏しました。
もはや引く道のない忠兵衛は、これは養子に来たときの持参金だと言い放って花車に身請の金を払うばかりかその場の者たちに金銀降らす邯鄲の夢の間の栄耀。喜ぶ花車、得心いかぬ様子の八右衛門以下一同がその場を去って梅川と二人きりになったところで、忠兵衛はわっと泣き出して真相を明かし、これを聞いて愕然とした梅川もなぜに命が惜しいぞ、二人死ぬれば本望と健気に応えます。生きられるだけはこの世で添おうと抱き合う二人。手続も済み、震える声でさらばとその場を立つ二人に花車はめでたいと申さうか、お名残惜しいと申さうか、千日言うても尽きぬ事と声を掛けますが、今の忠兵衛には千日前の刑場が思われるばかり。二人のたうつように越後屋を後にします。
道行相合駕籠
この日は演じられない「新口村」へと人目を避けての道行(野澤松之輔補綴版)。どろどろと太鼓が鳴り、柝が入って浅葱幕が落ちるとそこは寒々しい大和路の景観。遠くに山や五重塔、近景にはすっかり刈り取られたあとの田やススキが侘しい風情です。下手から登場した駕籠の中から現れた梅川と忠兵衛は、駕籠舁を帰らせて二人きりになると互いをいたわり合います。門に立ちたは忍びの夫かえ、野風身の毒こち入らんせと艶めいた詞章が笛・鳴物入りで歌われるうちに背景が動いて背後には案山子、遠景の山の端には雪。睦みあった廓での思い出を語り、互いの親に思いを馳せ、抱き合って泣く二人の上に雪が降りかかり、一枚しかない忠兵衛の羽織を譲り合った後に案山子の笠を取り上げて忠兵衛が差し掛け、その下で震えながら抱き合う二人を隠すように雪が本降りになったところでしみじみと余韻を残しながら幕が引かれました。

久しぶりの文楽鑑賞でしたが、三業が真っ向勝負で作り出す舞台の濃密度はやはり歌舞伎とも能楽とも異なるもの。わずか数行の詞章の中に膨大な情報をこめる言葉の凝縮度も堪能しました。本を正せばこの濃密さとがんじがらめの不自由な人間像に息が詰まりそうになって文楽から離れたのですが、こうして見ればこれはこれで確かに偽りのない人間の姿です。

今月の国立劇場での文楽公演は三部構成で、第三部「冥途の飛脚」の前に第一部「五条橋 / 伽羅先代萩」と第二部「曲輪文章 / 菅原伝授手習鑑」が上演されています。チケットがとれるようなら、この感覚が残っているうちにいずれかもう一演目観ておこうという気になってきました。

配役

冥途の飛脚 淡路町の段 竹本小住太夫
鶴澤清𠀋
竹本織太夫
竹澤宗助
封印切の段 竹本千歳太夫
豊澤富助
道行相合駕籠 梅川 竹本三輪太夫
忠兵衛 豊竹芳穂太夫
  豊竹亘太夫
竹本碩太夫
竹澤團七
竹澤團吾
鶴澤友之助
鶴澤清允
〈人形役割〉
手代伊兵衛 桐竹紋臣
国侍甚内 桐竹亀次
母妙閑 吉田勘市
亀屋忠兵衛 桐竹勘十郎
下女まん 吉田玉佳
丹波屋八右衛門 吉田文司
宰領 吉田玉峻
花車 吉田蓑一郎
遊女梅川 吉田勘彌
遊女千代歳 吉田玉翔
遊女鳴渡瀬 吉田玉誉
禿 吉田蓑悠
太鼓持五兵衛 吉田玉延
駕籠屋 吉田玉路
駕籠屋 吉田和馬
仲仕 大ぜい
八右衛門の使い 大ぜい
馬方 大ぜい
仲居 大ぜい
     
囃子 望月太明藏社中

あらすじ

淡路町の段 大坂淡路町の飛脚屋亀屋の養子で跡取りの忠兵衛は、近頃入れあげている新町の遊女・梅川が他の客に身請けされそうになったため、何とか自分の方へ身請けしようと、金策に悩んでいる。実は忠兵衛は、友人・丹波屋八右衛門宛てに亀屋へ届いた金五十両を、梅川の身請けの手付金として使い込んでいた。事情を話して許しを請う忠兵衛に、八右衛門はしばらく待ってやろうと約束する。その後忠兵衛は、武家屋敷へ届ける急ぎの金三百両を懐に持ったまま、つい梅川のいる新町へと向かってしまう。
封印切の段 梅川のいる新町越後屋に八右衛門が訪れる。八右衛門は、忠兵衛を梅川と別れさせるよう人々に頼むが、これを聞いていた忠兵衛は座敷へ駆け入り、懐の三百両の封印を切って八右衛門に五十両を投げ返す。梅川は忠兵衛を諌めるが、忠兵衛は、これは養子に来たときの持参金と偽り、残りの金で梅川を身請けしてしまう。一旦は身請けを喜んだ梅川だったが、忠兵衛から事実を聞いて嘆き悲しみつつ、生きられるだけは共に生きようと二人で越後屋を出る。
道行相合駕籠 二人は、忠兵衛の実父・孫右衛門の住む大和国新口村へと逃げてゆく。