杜若

2021/04/17

矢来能楽堂(神楽坂)で金春流円満井会定例能。この日観たのは第2部「杜若」、シテは中村昌弘師です。能楽堂に足を運ぶのは、昨年12月の「舎利」以来実に四カ月ぶり。COVID-19の影響はこんなところにも出ています。

ところで、矢来能楽堂に伺うのはこれが初めてで、外も内もこじんまりとしたその佇まいは好ましいものではあるものの、何せ舞台と見所が近い!私の座席はまさに正面最前列中央だったのですが、これで仮に「翁」が前に出てきて目の前で拝礼したらこちらはドギマギするだろうなと思いました。ただ、この小ささにもかかわらず中正面や脇正面はほとんど観客が入っていない様子で、これで興行として成り立っているのだろうかと心配にもなりました。

まずは井上貴覚師による仕舞「春日竜神」。キリのダイナミックな動きが連続するところで、気迫に満ち、びしっと芯の通った舞が見られました。師の名前にも通じますが、まずこの仕舞で見所が覚醒させられた感じです。

杜若

中村昌弘師のシテによる「杜若」。この曲はこれまで宝生流観世流金春流(櫻間金記師)と三度観ているので、ここでは細かく詞章を追うことはしません。ちなみに、過去三回の「杜若」はいずれも5月中旬の鑑賞です。題材からして、それはそうでしょうなぁ。

素晴らしくよく通る声の持ち主である野口琢弘師のワキ/旅僧が都から三河の国の八橋にやってきて、今を盛りと咲き広がる杜若を愛でてあらうつくしの杜若やなと正面を見やり、これを受けて見所の自分が杜若の花の一株になったつもりでいるところにいつの間にか引き上げられていた幕の内から声を掛けたシテ/杜若の精の姿は、紅白段模様の唐織着流出立。白々とした美しい面は小面なのでしょうか?以下、伊勢物語第九段東下りを引いた問答の中に「かきつばた」の歌が中村師のいつもの柔らかい美声によって説明されて、簡明な言葉遣いながら王朝時代の雅びな雰囲気が漂います。その詞章の中に業平はとりわけこの八橋に心をかけたこと、その業平をシテは契りし人と呼んでいることが見えますが、『伊勢物語』古註によれば八橋とは業平が契った八人の女性であり、杜若の花は二条の后の形見なのだそう。一見平易な詞章も、古註の解釈を重ね合わせると景色の見え方が違ってきます。

誘われるままにワキはシテの庵に一夜の宿を求めることになり、〔物着アシライ〕のうちに姿を替えたシテは驚くワキの問いに答えて自らを杜若の精であると明かしましたが、その頭上に戴く初冠は在原業平、身にまとう紫地に業平菱の長絹はその思い人であった藤原高子(二条の后)にそれぞれ所縁の形見。さらに業平は歌舞の菩薩の化現でもあり、こうしてさまざまな人格・性が融け合わさった姿のシテははるばる来ぬる唐衣、きつつや舞をかなずらんの地次第(地取あり)から〔イロエ〕の後に業平の人格になって、〈クリ・サシ〉そして二段の〈クセ〉を通じてこの物語を講じつつ自らを衆生済度のために現れた仏(本地)であり、陰陽の神でもあると告げて、その〈クセ〉の最後で地謡に〈次第〉と同じ文句を繰り返させました。この間、シテは舞台上を角へ進み、回って大小前へ戻り……と複雑な軌跡を舞台上に描きましたが、しばしの間の後にそもそもこの物語から『伊勢物語』に描かれるさまざまな女が謡われる場面で、角に向かって身を傾けながら右手の扇を左肩に引き寄せる型が示されました。これは雲ノ扇で扇を右上へ引き上げるまでの一連の動作の一部のはずですが、扇を引き寄せた姿でのわずかな静止そのものにそこはかとない風情を感じて見入ってしまいました。

太鼓が入ってシテは杜若の精に戻ると、〔序ノ舞〕にかかります。流麗な舞の美しさ、その背景となる情景の美しさと不思議な対比を示す囃子方の力強さ。素早く二回転して〔序ノ舞〕を舞い納めたシテは、キリの中で蟬のからころものと謡いつつ膝を突いて左袖に見入ってから、扇をかざし舞台を回り常座で小さく回って背を向け留拍子を踏みました。

久しぶりの観能は短時間(開演14時40分・終演16時05分)でしたが、濃厚で貴重なひと時でした。劇として見るとどことなくとりとめのない「杜若」ですが、そもそもとりとめのない『伊勢物語』の空気感に杜若の色彩感と季節感を組み合わせたその情趣に浸るには、この矢来能楽堂の親密な空間は最適だったようです。なお「杜若」のシテを勤めた中村昌弘師はこの曲について上演頻度の高い人気曲ですが、とても難解な曲です。この杜若の精が何者なのか、稽古を重ねながらよくよく考えていきたいと思いますと番組に書いておられました。いかなる答をもって舞台に上がったのか、機会があればお聞きしてみたいものです。

配役

仕舞 春日龍神 井上貴覚
杜若 シテ/杜若の精 中村昌弘
ワキ/旅僧 野口琢弘
八反田智子
小鼓 鳥山直也
大鼓 大倉栄太郎
太鼓 林雄一郎
主後見 横山紳一
地頭 高橋忍

あらすじ

杜若

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