素袍落 / 求塚

2021/04/25

宝生能楽堂(水道橋)で、観世流能楽師・柴田稔師主宰の「青葉乃会」。番組は仕舞二番、狂言「素袍落」、能「求塚」です。本来は一年前に上演されるはずだったこの会でしたが、COVID-19の影響を受けて延期となり、今年も東京では通算三度目の緊急事態宣言がまさにこの日から発令される中、それでも無事に開催に漕ぎ着けました。苦渋の決断だったと思いますが、拝見する側にとってはうれしい決断です。この間の柴田稔師はじめ関係者の方々の苦労はいかばかりだったかと思いつつ、水道橋を目指しました。

最初に清泉女子大学准教授・姫野敦子先生によるこの日の番組全般についての解説があり、ついで仕舞はいずれも春にちなんだ「笹之段」(百万)と「笠之段」(芦刈)。「笹之段」は野村四郎改メ幻雪師で、拝見しながら能楽師にとっての円熟と身体能力との関係ということについてあれこれと考えていたのですが、「笠之段」の観世銕之丞師はそうした雑念を吹き飛ばす気迫のこもった仕舞で、圧倒されました。

素袍落

歌舞伎舞踊「素袍落」を観たことはあるものの、もとの狂言を観るのはこれが初めてです。能「求塚」が暗い話であるだけに、この「素袍落」のお伊勢参りを下敷きにした祝祭感は気分が引き立てられてうれしいもの。また、山本東次郎・則俊のお二人の舞台を拝見するのも昨年7月の「月見座頭」以来なので、これもまた楽しみなことです。

初めて観た狂言なので、以下ストーリーを細かく追っていきます。

明日は日柄が良いからと急に思い立って伊勢参りに行くことにした主(山本則孝師)。太郎冠者(山本東次郎師)を呼び出して伊勢参りの供をするよう命じると共に、伯父の家に行って誘ってくるよう命じますが、この誘いは「付け届け」、すなわち前からの約束があるので儀礼的に声を掛けているだけです。また供は誰かと聞かれたら決まっていないと言えとも指示しますが、これは太郎冠者が供だと知れば心配りのきく伯父のことなので餞別を下されるだろうから、参拝を終えて帰るときに伯父の家のために土産物を求めなければならなくなるので、これを避ける意図。何やら打算的な主の命令を眉をへの字にしながら承っていた太郎冠者でしたが、伯父の家へ向かう道行では伊勢参りができるうれしさに足も軽やかな様子です。

伯父の家に着いて案内を乞い、出てきた伯父(山本則俊師)に主から言われた通りの伝言をして予想通り伯父は行けないという回答を引き出したのですが、ここでの太郎冠者は主の伯父である相手に対して恐縮している様子が身振りにも声にも出ています。しかしあまり物事を深く考えることをしない性格なのか、主が「付け届けまでに」伯父に声を掛けるように命じたことを太郎冠者がしゃべると、伯父もどうやら甥の性格を知っているらしく鷹揚に(内心苦笑いしながら)主への復命の際の説明の仕方を太郎冠者に伝授します。ついで主の予想通り供は誰かという話になりましたが、伯父には嘘は通じず、太郎冠者は固辞も虚しく門出祝いの酒を振る舞われることに……とは言っても元々酒好きらしい太郎冠者は大盃を前にして喜色満面です。

ここからいよいよ太郎冠者の酔態へと入っていきます。伯父が酌をしてくれるのには驚き恐縮しながらも「ソレソレ」「オウオウ」と波なみ注いでもらって「ウムウム」と飲み干しました。その飲みっぷりが見事で見ているだけで楽しくなってきますが、一杯目は一気に飲んだので風味がわからないからともう一杯を所望。いつにも増して結構な味だと言う太郎冠者に、それは「遠来」(遠国の名産地から来た酒)だと説明する伯父。それを聞いて三杯目を求めた太郎冠者でしたが飲み始めた途端にむせてしまい、「許させられい」と足を崩していったん寛いでから伯父を褒めそやしにかかります。それは追従ではないか?と言われて追従など言う自分ではないと見得を切る太郎冠者。

改めて勧められて盃に酒を継ぎ足してもらい三杯目。どうやらこの辺りから太郎冠者は酔いが回ってきたようで、伯父が「これはちと飲み振りが悪しうなった」と言うように姿勢が崩れ始めます。ここで太郎冠者が伯父に返杯しようとするものの、伯父は下戸。「なに飲まぬ?」それならば御名代にとまた一杯を所望し、こうして飲む気分は「月にも花にも替えられたものではござらぬ」と柄にもなく風雅なことを言ったところで、太郎冠者は盃を置いて今度は主の悪口を言い始めました。曰く、人使いが悪い、ケチだ、ついては伯父から意見をしてほしい。伯父に対しては言葉遣いこそ丁寧ですが、当初の恐縮気味だった態度はすっかり影を潜めています。「折を見て意見のするであろう」とかわした伯父にまた勧められ、先ほど注いでもらった盃を手にした太郎冠者でしたが、飲み方がますます崩れてぐらぐら揺れ、飲み干した盃を床の上に滑らせて伯父に返しました。さらに勧められてもさすがに「もう嫌でござる」。

盃を片付けて戻ってきた伯父に声を掛けられた太郎冠者は見もせずに「もう酒は嫌でござる」と再び返しましたが、伯父が持ってきたのは酒ではなく餞別の素袍。酔ってはいても主の言葉を思い出した太郎冠者は必死に辞退します。なぜ受け取らぬのかととの問いに対して太郎冠者がためらいながら事情を明かしたところ伯父は、それならば素袍のことは隠しておき宮巡りのときに着て自分(伯父)の名代を勤めてくれればよいと知恵を授けました。どんと床を叩き「伯父後様の御分別は格別でござる」と感心した太郎冠者は素袍をありがたく頂戴し、それでは土産おみやを進じましょうと並べたてたのは伯父にお祓い(小箱に入った神符)、奥様には伊勢白粉、子供たちには笙の笛。これらはいずれもこの曲が作られた頃の代表的な伊勢土産だったようです。

さて、戻らぬか?と伯父に問われた太郎冠者はひと呼吸の間をあけて「……どこへ?」。明日が参宮なので早く戻って準備をしなければならないことを伯父に思い出させられた太郎冠者は、立とうとしたもののふらつき後ろにすさって尻餅。足がしびれたと言い訳をして伯父の手助けにより何とか立ち上がりましたが、立ち上がってみればやはりしたたかに酔っていて「明日は伊勢へ?」「行くまいということじゃ」「土産を進じましょう」とリピートします。しかも土産と相手の組合せがずれており、子供たちにお祓い、伯父に伊勢白粉、奥様に笙の笛。あのいささか武骨なお顔立ちの則俊師が白粉を塗ったらどうなるのか、しかし則俊師の美男蔓姿も見たことはあるからな……などとこちらが考えているうちに、さすがに少々持て余した風の伯父にせかされて太郎冠者は伯父宅を辞し、帰路に就きました。

しこたま酒を飲ませてもらった上に餞別の素袍までもらってすっかり上機嫌の太郎冠者が「ざざんざ」を謡いながらふらふらと橋掛リへと歩み去るのと入れ替わりに、太郎冠者の戻りが遅いので様子を見に来た主が舞台前方に進み出ると、二ノ松でUターンして一ノ松辺りに差し掛かった太郎冠者を呼び止めました。怒り心頭の主に対し太郎冠者はあくまで飄々、伯父は伊勢へ行くと言ったか行かぬと言ったかと訊ねられても「どこへ?」。行こうでもなし、行くまいでもなし、はっはっはとすっかり太郎冠者ペースです。太郎冠者の腕をつかまえて問い詰め、どうにか伯父は行かないという返事を引き出しはしたものの怒りが収まらない主は、太郎冠者に酒を飲ませた伯父に対してもあんなに酒を飲ませるなんてとぷりぷり。しかし構わず太郎冠者は、明日はめでたい参宮なのだから機嫌を直して謡ってはどうかと主に絡み、断られると主の腕をとって「あの山見さい、この山見さい」とまた謡い始めました。主に「放しおれ()」と腕を払われても舞い続ける中で、謡に出てくる小原木(大原女が頭に載せて売る薪)に見立てて頭上に載せた素袍を落としてしまい、これを見て主は太郎冠者の機嫌が良い理由を察します。

素袍を拾って隠す主と、素袍がないことに気付いた太郎冠者。ここで攻守逆転し、太郎冠者はおろおろとしながら素袍を探し、かたや主の方は(内心にやにやしながら)機嫌を直したのでひとつ謡わぬか?と太郎冠者に呼び掛けました。不機嫌もろ出しの様子で断る太郎冠者に主は「漕ぎ出だいて釣するところに釣ったところが面白いとの」(宇治の晒)と「釣り」に素袍を拾ったことを掛けて謡います。重ねて主から呼ばれた太郎冠者は「何事じゃというに」と言葉遣いも荒くなり「朝から晩まで機嫌の良い者ばかりは、ござらぬわ!」と返しましたが、何か落としたのか?と問われたところでふと気付いて、何か拾いはなさらぬか?

最後は頼み込まれた主が太郎冠者と共に舞台正面に出てさっと素袍を見せると、素早くこれをひったくった太郎冠者が笑いながら「許させられい」と橋掛リへ逃れ、主に「やるまいぞ」と追い込まれました。

盃を重ねるにつれて酔いが進む姿の面白さがまずは眼目ですが、その太郎冠者の酔いを引き出す伯父・則俊師の絶妙の間合いも観ていて気持ちの良いものでした。最初は主に対しても伯父に対しても恐縮の態を見せていたのに、酔いが回るにつれて打ち解けた態度になって盃を受け、追従を言うかと思えば主の悪口を言い、さらには話がくどくなり、かたや機嫌の悪い主に出会ってもどこ吹く風だったのが素袍をなくした途端におろおろとして主への態度もぞんざいになるといった具合に次々に変わる太郎冠者の心理を示す山本東次郎師の酔態は、たとえ身体が揺れたりしても呂律が回らないということはなく、折目正しく明るい酒です。

この太郎冠者だけでなく、太郎冠者に陰口を言われる吝ではあっても素袍を見つけて遊び心も発揮する主や、できた人ではありつつも最後には太郎冠者をちょっと持て余してしまう伯父と、どの登場人物をとっても面白く、あなたは三人のうちの誰に似ているのかと舞台上の太郎冠者から問い掛けられているようにも感じました。

求塚

この曲はちょうど10年前に木月孚行師のシテで観ており(このときのツレの一人が柴田稔師)、元は観阿弥の曲を世阿弥が改作したものと見られるそうですが、江戸時代には宝生流・喜多流でのみ伝えられ、金剛流では昭和六年(1931年)、観世流では昭和26年(1951年)、金春流に至っては平成三年(1991年)になってようやく復曲されたとのこと。観世流における復曲は観世華雪(六世観世銕之丞)師が当時の宗家・観世元正師の依頼により行い、以来「求塚」は銕仙会で大事に受け継がれてきたのだそうです。

事前の柴田稔師のブログ解説によれば、この曲は①古代の妻争い伝説(大和三山の桜子・桂子、真間の手児奈)→②莬原処女伝説→③求女塚伝説(②に既存の三基の古墳を当てはめる)→④『万葉集』(大伴家持ほか)→⑤『大和物語』147段「生田川」(水鳥を射る話が加わる / 男二人は入水した処女を追って水死 / 男たちの死後の闘争が描かれる)→能「求塚」という推移を経て成立していますが、後場で菟名日処女が地獄に落とされるくだりは能における創作。ここをどう理解するかが、この曲を鑑賞する上でのポイントになってきます。

頂上に葉を茂らせ茶系の引廻しに覆われた塚の作リ物が大小前へ据えられて、鋭いヒシギから〔次第〕。ワキ/旅僧が二人のワキツレと共に舞台に進み鄙の長路の旅衣、都にいざや急がん。森常好師の舞台を拝見するのは二年ぶりですが、その美声は変わっていません。西国から旅をしてきた三人が摂津の国・生田の里に着いて脇座に落ち着いたところで再びヒシギから、今度は少し華やいだ感じの〔一声〕と共にツレ/里女たちが常より一人多く三人登場します。いずれも白い水衣を肩上げにして、裾に見える縫箔の紅入が眩しいほど。そして三人が一ノ松辺りにかたまって振り返ったところ、揚幕の前に立つ前シテ/里女(柴田稔師)の腰巻にした縫箔だけは地色が若草色。若菜摘む、生田の小野の朝風に、なほ冴えかへる袂かな。木の芽も春の淡雪に、森の下草なほ寒しと謡われて、まだ雪残る早春の明るく爽やかな生田の里に現れた菜摘女たちの声が遠くから聞こえてくるような情景が目に浮かびます。そして、この若菜を摘む行為は生きるものの命を奪うという罪を示すと共にその代償として若い人が命を落とすことの暗示でもあり、雪の白さと寒さとは後場の火焔地獄の描写と対比をなします。

舞台上に進んだ里女たちの配置は塚のやや向かって左にシテ、そのさらに左(脇正)に一人、塚をはさんで地謡側に二人。ワキが女たちに生田とはこの辺りかと問うと、ツレ三人とシテとが交互につれない返事を返します。続いてさて求塚とは何處ぞやと聞くワキに対しツレ三人が求塚とは名に聞けども真は何處の程やらん、我等は更に知らぬなりと答えたところで、シテがその話題を遮るようになうなう旅人よしなき事をな宣ひそ。この辺りは詞章を読んだだけではわからない「間」の巧みさです。そして初同の間に脇正側のツレは立ち位置を地謡側に移して三人で三角形を作り、以下、若菜摘みの少々寒々しい情景が舞台をさまざまに回るシテと地謡との掛合いで謡われた後、一同は下がっていきましたが、シテだけは常座に立ち止まりました。

ワキがあなた一人はなぜ残ったのかと問うと、シテは前に求塚の事を尋ね給ひて候ふよなうと逆に問い返して此方へ御入り候へとワキを案内。塚の前でワキと向かい合い下居したシテは、口調を深く低いものへと改めて菟名日処女の物語を語ります。始めは昔この所にいたという菟名日処女の話を三人称で語っていたシテは、しかし処女に懸想する二人の男の放った矢が同じ鴛鴦の翼を貫いたときに其の時わらは思ふやうと一人称になると共に面が曇り、表情に絶望が漂いました。住みわびぬわが身捨ててん津の国の 生田の川は名のみなりけりと咽ぶように謡ったシテがこれを最期の言葉にて入水し塚に葬られたことを地謡が謡うところでシテの姿は塚を訪ねてきた二人の男となり、互いに刺し違える場面では地謡の強拍さしと同期して一歩出て、そして左手を胸にあてて空しく下居。再び菟名日処女に戻ったシテはそれさへ我が科になる身を済け給へとワキに求め、ワキがその視線を受け止めるうちに塚の内に消えていきました。

長大な間語リをまだ二十代の山本凛太郎師が立派に勤め、そして待謡からワキは少し進んで数珠を手に南無幽霊成等正覚、出離生死頓證菩提。すると塚の中からおう曠野人稀なり、我が古墳ならでまた何物ぞとシテの声が響きます。御法の聲はありがたやと感謝するかと思えばあら閻浮戀しやと未練を示し、そして埋れも果てずして苦しみは身を焼く、火宅の住處御覧ぜよと地謡が謡ううちに引廻しが下されると、そこには苦悶を湛えた表情の面(痩女?)の後シテ。壺折にした小袖は白地に薄く土の色が掃かれた上に草葉が控えめに散らされ、下は淡い水色の大口。そのいたわしい姿に驚いたワキが一念翻せば無量の罪をも免るべしと語り掛けてさらに読経を続けると、祈りが届いたシテはありがたやとしみじみ合掌したものの、次の刹那、おそろしや、おことは誰そと怯えた声をあげました。右を見れば小竹田男子、左を見れば血沼丈夫。この二人に両手を引かれる形を示した後に、今度は鴛鴦が鉄鳥になって襲いかかりシテは両手で頭を覆いました。こうした苦しみの描写の後に、シテは沈んだ声で次のように言ってしまいます。

こはそもわらはがなせる科かや。あら恨めしや。

この一言を発してしまったためにこの苦しみをば何とか済け給ふべきと求めたワキにげに苦しみの時来ると突き放されたシテは、地獄の苦しみを味わうことになります。前後左右を水火に囲まれ、縋り付いた柱は火焔となってその耐え難い熱さに思わずこれを手放し身を沈めて両手で胸を抱く形。ついで立ち上がったシテが胸から取り出した扇は獄卒の笞となって振り下ろされ、追い立てられて塚から出たシテが正中に進めば地謡が謡うのは八大地獄。その底へ足上頭下と落ちていく様子が扇を振り下ろし左膝を突く姿で示され、三年三月の苦しみが果てて少し苦患の隙となり暗闇となったところで立ち上がり数歩前に出たシテは、道を探すように舞台上を回りながら今は火宅に歸らん。塚の中に戻ったシテは安座し亡者の影は失せにけりで左手の扇で面を隠して留めとなりました。

説明の順番が後先になりますが、4月15日に銕仙会能楽研修所(南青山)で行われた事前講座に参加しました。登壇されたのは、姫野敦子先生と柴田稔師のお二人です。

姫野先生の説明は、「求塚」のあらすじを見た後に詞章を一通り追い、その中に読み込まれている和歌や詩句を読解していくもの。その解説の最後に姫野先生は『大和物語』では語られなかった菟名日処女の死後の状況を仏教的な文脈に載せて語るのが能「求塚」。八大地獄を巡らざるを得ない菟名日処女の罪は何だったのかと謎を投げ掛けておられましたが、柴田稔師の解説の眼目もまさにこの点にありました。

後場で菟名日処女はワキの読経に一瞬安寧を得かけたかに見えたものの、小竹田男子と血沼丈夫の霊に左右の手をとられ、鉄鳥に頭をつつかれてその辛さにこはそもわらわがなせる咎かや、あら恨めしやと漏らします。前場の最後に鴛鴦と二人の男の死に対する罪を認めて懺悔したはずの処女が、実はやはり納得できていない。ワキに一念ひるがえせば、無量の罪をも逃がるべしと言われたのに、その「一念」を捨てきれていないことが明らかになったために、のうのう御僧、この苦しみをば何とか助け給うべきと救いを求めたときにワキからげに苦しみの時来たる、すなわち「あなたは地獄に落ちても仕方ない」と突き放されてしまいます。このように、どんなに罪を悔いてみせても苦しみに苛まれれば不満を抱いてしまう人間の性さが・弱さを描き出すことが作者の意図なのだろう、というのが柴田師のお話でした。

さてこの日の演能では、すべての瞬間のすべての所作に柴田師の意思が込められた揺るぎのない舞台に圧倒されたのですが、それにしても現代の感覚では、菟名日処女に対する作者の仕打ちはあまりに苛烈かわいそうと思わないわけにはいきません。そして観世流で長く上演が絶えていたという事実は、この感覚が昔の観客にとっても同様だったのかもしれない、などと想像させてくれます。

配役

仕舞 笹之段 野村幻雪
笠之段 観世銕之丞
狂言 素袍落 シテ/太郎冠者 山本東次郎
アド/主 山本則孝
アド/伯父 山本則俊
求塚 前シテ/里女 柴田稔
後シテ/菟名日少女ノ霊
ツレ/里女 浅見慈一
ツレ/里女 観世淳夫
ツレ/里女 青木健一
ワキ/旅僧 森常好
ワキツレ/従僧 舘田善博
ワキツレ/従僧 梅村昌功
アイ/所ノ者 山本凛太郎
松田弘之
小鼓 大倉源次郎
大鼓 原岡一之
太鼓 小寺眞佐人
主後見 野村幻雪
地頭 観世銕之丞

あらすじ

素袍落

急に伊勢参宮を思い立った主は、かねて同行を約束していた伯父を形ばかりに誘おうと、太郎冠者を口上に遣わす。伯父は急のこととて辞退するが、太郎冠者が主の供をするであろうと察して門出の酒をふるまう。酩酊した太郎冠者は伯父をほめそやし、主の愚痴を言いつらねたうえに、祝儀に素袍までもらい、上機嫌で帰途につく。太郎冠者の帰りが遅いので途中まで迎えに出た主が伯父の返事を問いただしても、要領を得ない。主は腹を立てるが、そのうち、ふらふらしながら太郎冠者が素袍を落としたので、主はそれをそっと拾い、太郎冠者をからかう。あわてた太郎冠者は素袍を奪い返して逃げていく。

求塚

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プログラムに寄稿されていた上智大学・小倉博孝教授の「『三界火宅の住みか』が示すもの」という一文は、ヒロインの激しい情念を火焔として表現するフランス古典悲劇と対比させながら「求塚」を検討し、『求塚』前場をおおう初春の冷たさと後場の火焔地獄のコントラストが浮き彫りにするのは、情念ではなく、人間存在自体の哀しさである。純粋無垢に生きることがすなわち火焔地獄にあたいする罪業だという存在の哀しさであるとした上で、「三界火宅の住みか」とは、「生田」すなわち現生そのものの写しではないだろうか。菟名日処女の亡霊は「いまは火宅に帰らんと」出てきた塚を求めて消える。救いが与えられたわけではないと結んでいます。

帰宅してからこれを読んだ後、久しぶりに川本喜八郎の人形アニメーション『火宅』(1979年)を観ました。

「求塚」を原作とするこの作品の締めくくりで、塚の前で夜明けを迎えた旅僧(語りは観世静夫(後の八世観世銕之亟)師)もまたあの哀れな菟名日処女が昨夜、私に示した火宅というのは、実はこの世のことではなかったのかと述懐しつつ、僧の目に燃え立って映る生田の里を去っていました。

この日「笹之段」を舞うと共に「求塚」の主後見を勤めた野村幻雪師は、この年の8月21日に84歳で亡くなりました。よって、これが師の姿を拝見した最後の機会となりました。