猿聟 / 舎利

2020/12/12

国立能楽堂(千駄ヶ谷)の普及公演で、狂言「猿聟」と能「舎利」。

今月の国立能楽堂の月間特集は「所縁の能・狂言―勧進能―」。四回ある12月公演は、開演順に糺河原勧進猿楽(1464年)、粟田口勧進猿楽(1505年)、寛延勧進能(1750年)、弘化勧進能(1848年)でそれぞれ演じられた曲をそのときの演者に所縁のある能楽師が演じるという趣向で、この日は粟田口勧進猿楽三日目の「舎利」が鬼役・金春禅鳳、韋駄天役・七郎氏照(禅鳳の息子)によって演じられたことにちなみ現・金春流宗家父子により勤められます。

国立能楽堂に早めに着いてみると入場前の検温と手の消毒を行うための入場者の行列ができていましたが、見所に入れば以前のような市松模様の配置はなくされ、最前列だけが閉鎖された状態で客席が使用されていました。国立劇場の舞台では歌舞伎も文楽も感染者を出して公演の一部が中止となったことを考えると、これは稀有なことと思わないわけにはいきません。また、いつの間にか字幕スクリーンがボタン式ではなくタッチスクリーンに変わっていたのには少しびっくり。コロナ禍で上演を控えていた期間中に抜け目なく施設の近代化を図ったというところでしょうか。

定刻になってまず舞台上に登場したのは法政大学能楽研究所教授・宮本圭造氏で「能楽の新時代―勧進能の舞台空間を想像する―」と題した解説が行われました。その内容をかいつまんで記すと、次のようです。

  • もともと勧進能は収入から諸経費を引いたものを寺社仏閣の造営のための寄付としたものだが、粟田口勧進猿楽の頃は純粋に興行として行われた模様。粟田口勧進猿楽は真葛原まくずがはら=今の円山公園あたり、応仁の乱で無量寿院が焼けた跡の空き地で開催された。真葛原は桜の名所として知られるため、勧進猿楽が開催された時期は今の5月であるものの、曲目には「嵐山」「熊野」「西行桜」と桜に因むものが多く選ばれていた。
  • 勧進能の入場者数は国立能楽堂の定員600人の十倍以上であったとされ、舞台の前は庶民が地面に座る屋根なしの「芝居」、その後ろに貴賓層が席を占める「桟敷」。舞台上の声をよく聞くなら芝居の方が有利で、貴賓層は能を観るというよりその地位を誇示するために桟敷席に座ったのだろうが、この頃は応仁の乱を経て貴賓層が疲弊し庶民が観客の中心となった「新時代」だった。このため、橋掛リなどの舞台空間をフル活用したきらびやかな作風の「風流能ふりゅうのう」がもてはやされた。狂言「猿聟」を間狂言とする能「嵐山」(金春禅鳳作)も今日演じられる「舎利」も風流能の典型。
  • 西域における牙舎利信仰は玄奘三蔵の『大唐西域記』にも出てくるほど古くからあるが、唐・宋代に中国で発展した後に鎌倉の円覚寺に伝えられた。京都の泉涌寺にも13世紀半ば頃に中国から伝えられて今では辰年の9月8日に舎利会として開帳しており、そこには韋駄天像も祀られている。
  • 「舎利」の最古の演能記録は1464年、音阿弥により仙洞御所で演じられたと伝わっているので元は観世流の曲だったと考えられるが、江戸時代はもっぱら金春流で演じられてきた。金春家には聖徳太子から秦河勝に与えられたという舎利が大事に保持されていたためだが、金春流が経済的に豊かなときにはこの舎利は数が増えたらしい(今はわからない)。
  • ともあれ「舎利」が映えるのはやはり勧進能の大きな舞台空間である。その広大な空間をイメージしながら、この曲を観てほしい。

猿聟

上記の通り、本来は脇能「嵐山」の間として演じられる狂言。「嵐山」が吉野の桜を移した嵐山に蔵王権現が現れて春の盛りを寿ぐ(大和の金春座が京都で勧進能を行うという意味も重なる)という筋であることに呼応し、ここでは嵐山の舅猿のところへ吉野の聟猿が聟入り(結婚後に聟が初めて嫁の実家を訪れる儀式)するという内容ですが、登場人物(登場猿?)はけっこうリアルな作りの猿面をすっぽりかぶり、〈名ノリ〉と謡を除いてほとんど「キャキャキャキャ」と猿語で演じるという点が抱腹絶倒です。しかし狂言には聟入りを取り扱った演目が少なくなく(「二人袴」「岡太夫」「吟三郎聟」)、そうした演目を通じて聟入りの流れがわかっているので、舞台上でどんな会話が交わされているかすんなり理解できるのが面白いところです。

囃子方が切戸口から現れ、正先には満開の桜の作リ物が置かれて、まず現れたのは侍烏帽子を戴き長上下姿の舅猿(茂山七五三師)と太郎冠者猿(茂山逸平師)。舅猿は普通に〈名ノリ〉を終えた後に太郎冠者に聟を迎える準備を命じるのですが、重々しい声でいきなり「キャーキャ、キャキャキャキャ」。これに対し太郎冠者猿も長く語尾を上げるおなじみのイントネーションで「キャ〜ッ」と応じ、以下猿語オンリーの命令が続きました。ついで〔一声〕が入り、姫猿(茂山茂師)を先頭に聟一行が登場。列の最後尾の供猿は肩に酒樽と大きな鯛を担いでいます。体つきがすっきりしてハンサムに見える聟猿(茂山宗彦師)が唱導して舞台上で〈一セイ〉から道行の謡となり、〈着キゼリフ〉が終わるとここから「キャキャ」。いったん橋掛リに戻った一行の中から供猿の一人が案内を乞い、これを迎えた太郎冠者が舅猿に報告してから聟猿たちは舞台上(舅猿の屋敷)に招じ入れられます。

ここからは定番の流れ。聟猿は脇正に、舅猿は地謡前に座し、姫猿は舅猿(父)の左手、供猿たちは笛柱近くに居並んで、聟猿が舅猿に初対面の挨拶を行うのですが、お互い猿語で恐縮し、さらに盃を譲り合うのも猿語。盃をやりとりする間に聟が披露する謡は懸けて通えや岩橋の(「葛城」)と猿子を抱いて青松の蔭に隠れぬ(禅語に由来?)。さらに姫猿に盃が回ると今宵は花の下臥しして(「西行桜」)と謡われましたが、白い小袖に美男蔓も可憐な姫猿の飲みっぷりは見事。これを見て目を細めた舅猿に舞を所望された聟猿は、いったんは「私が?滅相もない」といった感じで大慌てになりましたが、重ねて求められて酒宴半ばの猿の興と朗々、立ち上がっての舞。喜んだ舅猿も立って拍子を踏み、一ノ松に出ていた聟猿が舞台に戻って祝言歌一の幣立て二の幣立て……俵を重ねて面々に楽しうなるこそ目出度けれをダイナミックに舞い、その高揚のうちに獣性を取り戻したか最後は「キャーキャキャキャキャキャキャキャ、キャー」と高らかに叫んでお開きとなりました。

舎利

まずは舞台上に一畳台が置かれ、そこに後見がうやうやしく捧げ持ってきたのは舎利と台座。台座は錦の布で覆われた直方体、その上に乗る舎利は金色の皿の上に火炎の装飾がついた団栗型の金の宝珠で、合わせて高さ30cmくらいと見えました。

〔名ノリ笛〕に導かれてワキ/旅僧(福王知登師)が登場し、思い立って出雲から京都へと向かう途上である旨を述べると道行の謡を短く終えて〈着キゼリフ〉。まずは東山の泉涌寺へ参り大唐から渡来した十六羅漢や仏舎利を拝もうと思うと述べると、案内を探し始めました。ちなみに泉涌寺は東福寺の東にあたり、南北朝時代から江戸時代にかけて皇室の葬儀を執り行い陵墓も境内に持つことから御寺と尊称された名刹。湛海が安貞二年(1228年)に南宋の白蓮寺から請来した仏牙舎利(釈尊の遺歯)と寛喜二年(1230年)に請来された韋駄天像を舎利殿に祀っています。それはさておき、ワキは折よく狂言座に控えていたアイ(茂山千五郎師)に声を掛けて舎利を拝みたいと頼んだものの、一旦は断られてしまいます。しかしそこをなんとか、とワキが重ねて頼み込むとアイはそれではそっと拝ませようと承諾し、「さらさらさら」と音を立てて舎利殿の扉を開きました。

これが(釈迦入滅のときに)足疾鬼が奪い韋駄天が取り返したという謂れの舎利かとワキは合掌して一心頂礼万徳円満釈迦如来と舎利礼文を唱え、そこに重なる地謡の初同も声明のような響きでワキの心情をなぞりましたが、その最中にひっそりと現れた前シテ/里人(金春安明師)は黒頭に漆黒の水衣着流出立、面は怪士あやかし。ブラックな雰囲気を漂わせながらからくり人形の如き歩み方で舞台に進み、安明師ならではの浮遊するような声音であら有難の御事や、仏在世の御時は、法の御声を耳にふれ……。仏在世のときに法の御声を聞いていたと言っている時点でこの世の者ではないことは明白ですが、ワキは共に舎利を拝む者の到来を喜び、一緒に拝みましょうとシテに声を掛けました。脇座に座すワキ、正中で舎利を正面に見るシテ。〈クリ・サシ〉と釈迦入滅後五百年の末世の到来が緊迫感を持って謡われた後、〈クセ〉は天竺での仏跡(霊鷲山・沙羅双樹の庭)の荒廃を嘆きつつも、日本に三如来四菩薩が移り来たって衆生を済度されることの有難さ、この寺にて舎利を拝むことの尊さをじっくりと謡う重厚な内容で、この間シテは居グセでじっと聞き入るばかりではなく時折ワキに向くときに扇をゆらゆら。〈クセ〉の最後のこの寺ぞ尊かりけるまではシテとワキの共通見解と思えましたが、ここでシテが本性を現すことになります。

にわかに空がかき曇り稲光が光り出すのをワキが訝しむと、シテは今は何をか包むべきとトーンを上げて自らが足疾鬼の執心であることを告げなほこの舎利に望みあり、許し給へや人々よと言う間にも鬼の姿をあらわにして、左袖を掲げ一回りすると扇を捨て一畳台(それまでは祭壇だったがここでは舎利殿を示す)に乗ってくるくると回転。放つ光で人の目を紛らわせつつ舎利を取り、台座を前に蹴落とし(天井を蹴破りに合わせ台座を踏み潰す演出もあるそう)て飛び降り虚空を飛んで行方も知らず失せにけりと橋掛リをさっさと下がって行ってしまいました。

この轟音を聞いたアイは「道成寺」の能力のように「くわばらくわばら」とごろごろ転げて驚きましたが、舎利がなくなっていることに気付いて犯人はワキであろうと激怒、股を開き腕まくりをして歌舞伎役者のような勢いで迫ります。しかしワキがかくかくしかじか(と説明する中で前シテのことを「童子一人来たり」と説明していましたが、室町期には前シテは里人ではなく童子だったそう)と事情を説明するとアイも天井の穴を見て納得し、足疾鬼と韋駄天の故事を語った上で数珠をすりながら南無韋駄天と祈ります。

太鼓が入って〔イロエ〕、浮き立つような旋律で囃子方が声を合わせる掛け声に誘われて登場した後シテ/足疾鬼は、赤頭に面は顰しかみ、法被半切の鬼神の出立。舎利を奪い取って悠々と空中を飛翔している様子ですが、突如早笛が鳴って場面が緊迫します。振り返り見て自分を追う者の接近を悟ったシテが一畳台の脇座側に進み右袖を被き身を潜める姿となったところへ颯爽と現れたのは、ツレ/韋駄天(金春憲和師)。輪冠を戴き髪を長く垂らし面は大天神、白い側次に白大口で手には打杖。そもそもこれは、この寺を守護し奉る、韋駄天とは我が事なりと声色高く名乗ると足疾鬼を外道呼ばわりしてその牙舎利置いて行けと迫りました。

ここから後は一気呵成。逃れられぬと悟ったシテは抵抗を示しますが、〔舞働〕となってツレが打杖で打ち掛り、シテは橋掛リへ逃げるも幕前でツレに追いつかれて舞台へ引き返し、一畳台の周りを回って脇座側で再び袖に隠れます。地謡が忉利天を舞台とする壮大なスケールの追跡を描写し遂に足疾鬼を下界へ追い下す場面では、ツレは一畳台(ここでは天上世界)に飛び乗り、台からシテを突き落とし、さらに一畳台の上で相手を探し求めて静かに回る〔イロエ〕を見せ、追い詰められて再び台上に登ったシテがくるくると渦巻い廻るところをまたしても突き落として一畳台の前にうずくまるシテを打杖で責めたてます。この辺りの詞章は疾鬼を大地に打ち伏せて、首を踏まへて牙舎利はいかに、出だせや出だせとバイオレント。勧進能の芝居(客席)を埋めた庶民層の喝采の声が聞こえるようです。

たまらず泣く泣く後生大事に持っていた舎利を差し出すと、ツレは背後からこれを取り上げてさっさと橋掛リを下がって行ってしまい、残されたシテは足弱車の力も尽きと膝を突き袖を被いて見せてから、常座で弱々しく留拍子を踏みました。

切能らしく鬼が出るわ神様が出るわ、天上世界での空中戦が出るわ。飛んだり跳ねたりといった動きの派手さは実はそれほどでもなかったのですが、後場で描かれる世界観のスケールとこれに呼応してダイナミズムを変化させる謡や囃子が見どころ聴きどころ。観る側も想像力の翼を目いっぱい広げて、舞台と一体化したい曲でした。もっとも足疾鬼が一方的な悪者に見えなかったのは、前場の〈クリ・サシ・クセ〉を通じて仏の教えへの帰依を示しているから。末法の世に舎利を拝んで安楽を得ようと願う心は誰しも同じですが、それを前世からの執心に負けてひとり我が物にしようとしたことが足疾鬼の罪と言えば罪。とはいえ夢破れて橋掛リを下がっていくシテの背中に哀愁と同情を感じた観客は、私だけではなかったのではないかと思います。

配役

狂言大蔵流 猿聟 シテ/聟猿 茂山宗彦
アド/舅猿 茂山七五三
アド/太郎冠者猿 茂山逸平
アド/姫猿 茂山茂
立衆/供猿 茂山千之丞
立衆/供猿 鈴木実
立衆/供猿 松本薫
立衆/供猿 茂山千三郎
地頭 茂山あきら
金春流 舎利 前シテ/里人 金春安明
後シテ/足疾鬼
ツレ/韋駄天 金春憲和
ワキ/旅僧 福王知登
アイ/能力 茂山千五郎
栗林祐輔
小鼓 幸信吾
大鼓 白坂信行
太鼓 中田弘美
主後見 金春穂高
地頭 高橋忍

あらすじ

猿聟

吉野山に住む聟猿が姫猿や大勢の供猿を伴って、嵐山の舅猿の処へ聟入りに出掛ける。舅との対面を果たした一行は、酒を振舞われたり舞を披露したりと祝いの宴になり、舅と聟が揃って「俵を重ねて面々に、楽しうなるこそめでたけれ」と舞い納める。

舎利

旅の僧が泉涌寺を訪れ、仏舎利を拝んでいると、そこに一人の男が現れる。二人は釈迦在世の跡を慕い舎利を拝んでいたが、そのとき男は鬼の姿となり舎利を奪って逃げてしまう。この男は、釈迦入滅の折にその遺骨を奪って逃げた足疾鬼の執心だった。驚いた泉涌寺の僧は、むかし足疾鬼から舎利を奪い返した神・韋駄天に祈り、舎利を取り返そうとする。祈りに応じて現れた韋駄天は逃げていく足疾鬼を天高くまで追い詰め、ついに舎利を取り戻す。