ジーザス・クライスト=スーパースター in コンサート

2021/07/19

東急シアターオーブで「ジーザス・クライスト=スーパースター in コンサート」。「in コンサート」とあるように舞台上の立体的なセットのあちこちにミュージシャンがいてライブで演奏し、キャストもマイクを手にして歌うのですが、オペラの演奏会形式とは異なりキャストはちゃんと演技します。

実はこのステージは2019年にも同様のフォーマットで上演されているのですが、そのときは上演期間が短く都合が合いませんでした。しかるに今回はCOVID-19の中でありながら東京2週間・大阪2日間と規模が拡大しており、テレワーク下での仕事場である自宅からシアターオーブまでは歩いていける距離ということもあって、問題なくチケットをゲットすることができたというわけです。

事前に自分の中で注目ポイントとしていたのは、次の点です。

  • 冒頭の "Heaven on Their Minds" でのユダの絶唱。
  • 民衆が歌う "Hosanna" の歌詞。
  • ジーザスによる "Gethsemane" のシャウト。
  • "Superstar" でのソウルガールズの弾けぶり。

ステージ上には鉄パイプが複雑に組まれたセットがおおまかに4段ほどの左右非対称な階層を作って、手すり付きの廊下と何箇所かの階段でつながっています。楽器の配置は、床面に近いところは上手にティンパニ他の打楽器群・下手にギター、二段目は上手側にドラム・中央やや上手寄りの客席側に張り出したブースが指揮者・下手端の2階と3階の間がギター、3段目は上手側に2人のキーボード・下手側に2人の管楽器、4段目は上手端にキーボード・中央やや上手寄りに赤紫の照明を浴びる玉座・下手側にベースと管楽器(主にフルート)といった具合です。

一方客席を見ると、2階席は前2列程度に客が集約されている感じですが、1階席はおおむね埋まっている感じ。7月12日からの緊急事態宣言発令によってシアターオーブも50%以上の席が売れている上演回はその時点でチケット販売を止める措置が講じられていますが、これくらい客が入っていれば舞台上のキャストたちも歌い甲斐があることでしょう。ちなみに私の席は2階席最前列のほぼ中央という絶好の位置です。

指揮者とミュージシャンが位置に着き、ピアノがポロロンと鳴ったのを受けて管楽器が音合わせ。そして客席が暗くなり、指揮者のタクトと共に地を這うような重低音が響き出しました。以下、舞台の進行に合わせてポイントごとの説明を。

Overture
重低音の上に妖しい短調のエレクトリックギターの旋律。そしてブラス音から全楽器が参加してこの作品の中に散りばめられているさまざまなメロディーが演奏され、途中からアンサンブルたちが登場して刺激的なギターの音をバックに客席を煽ります。最後にメインテーマが演奏されるところで主要キャストがセットの上に勢揃いし、拍手喝采。
Heaven on Their Minds
ユダ役のRamin Karimlooののっけからの見せ場・聴かせ場。ウエスト・エンド史上最年少で『オペラ座の怪人』の主役に抜擢され、以後もAndrew Lloyd Webber作品に多く起用されて高い評価を受けているテヘラン生まれのシンガーですが、そうした経歴を知らなくても苦悩するユダの姿を描く彼の役者としてのオーラと凄い音圧・声の伸びには圧倒されます。そしてこれは前にも書きましたが、この曲の歌詞の中にジーザスの死に至る理由とユダの動機が書き込まれていることに注意する必要があります。ジーザスを神の子と崇めた民衆がやがてジーザスを十字架にかけよとピラトに迫るに至る変貌ぶりがこの作品のテーマのひとつであることは間違いなさそう。
What's the Buzz
ジーザスの教団の様子をリズミカルかつ賑やかに描く場面。ジーザスを演じるのは韓国系アメリカ人Michael K. Lee。冒頭では伸びのある声を駆使して、人々に祭り上げられて少々能天気な感じを巧みに出しています。
Strange Thing, Mystifying
娼婦であったマグダラのマリアにジーザスが親しむことをユダが非難する場面。ここで「罪のない者だけが石を投げよ」(ヨハネ福音書8章3-11節)が引用されていることに今回やっと気付きました。
Everything's Alright
マグダラのマリア役Celinde Schoenmakerの最初の聴かせ所。美声だな〜(おまけに美人)と聞き惚れましたが、ここではClose your eyesと繰り返すあたり少々蠱惑的な雰囲気を漂わせていて、彼女がジーザスをダメにしたのか?とユダに共感してしまいました。
This Jesus Must Die
セットの高いところに現れてジーザスへの嫌悪を露わにするカヤパとアンナス。恰幅のいいAaron Walpoleの赤いポケットチーフがお洒落ですが、残念ながら(?)He is dangerousでパイプをぺたぺたすることはしませんでした。
Hosanna / Simon Zealotes / Poor Jerusalem
人々が歓呼の声をもってジーザスを迎え入れる"Hosanna"は、民衆の身勝手さ、残酷さが如実に現れる場面。Hey JC, JC won't you FIGHT for me?(戦って下さいますか?)がHey JC, JC won't you DIE for me?(死んで下さいますか?)にすり替わる魔法を生かしてくれました。これを聞いたときのジーザスの表情に動揺が走る様子にも要注目。この辺りから民衆と乖離するジーザスという構図が鮮明になり、シモンが人々を扇動する"Simon Zealotes"を経てジーザスの孤独が前面に出る"Poor Jerusalem"につながります。
Pilate's Dream
セットの最上段下手寄りにじっと腰掛けていたローマ総督ピラトが、ジーザスに引導を渡すことになる自分の運命を夢に見る場面。映画版のピラトは青年と壮年の中間くらいの印象でしたが、こちらのピラトは貫禄十分。カナダ人俳優Robert Marienがじっくりと歌い込み、その声と表現力の深みに引き込まれます。
The Temple / Everything's Alright (Reprise) / I Don't Know How to Love Him
7拍子の不安定なリズムで神殿を穢す商売人たちを追い散らしGet out!とシャウトしたものの、続いて目が見えない、足が悪いなどと訴えながら奇跡を示すことを求める群衆に囲まれ翻弄されて、遂にHeal yourselves!と絶望的に叫ぶジーザス。これを慰めたマリアが、でも自分にもあなたをどう愛したらいいかわからないとじっくり歌い上げる名曲 "I Don't Know How to Love Him"。満天の星をバックに、ところどころに効果的なフェイクも交えつつ心の底から歌う姿に感動しました。
Damned for All Time / Blood Money
メタリックなギターの独奏を冒頭に置いて、ユダが自分で自分を弁護しながらカヤパとアンナスから銀貨を受け取る場面。はっと気が付くと、最上段中央の玉座にひっそりとヘロデ王が足を組んで座り、頬杖を突いて下界を見下ろしていました。最後にコーラスがWell done Judas.と遠くから歌って暗転。

ここまで約50分。ここで20分間の休憩です。

再びピアノがポロロンと鳴って管楽器が音合わせ。そして後半(55分間)へ。

The Last Supper
不穏な持続音を前奏に置いて、アコースティックギターの伴奏による使徒たちの牧歌的な合唱、The end is just a little harder.から始まるジーザスによるしみじみとした独唱(ワインとパン)。続いて「Take Five」のリズムに乗って使徒たちの裏切りを指摘し、使徒たちの合唱からユダとの争論へとめまぐるしくモチーフが変わる中で、神殿から商売人を追い出したときに発せられたGet out!のシャウトが今度はユダに向けられると、ユダもWhy you let the things you did so get out of hand.とシャウトで返したものの舞台上に力なく跪きます。するとジーザスはユダを立たせ、その肩を抱き首に巻いていたストールをユダに託しました。いよいよここから "Gethsemane" へ。
Gethsemane
アコースティックギターのコードカッティングを主たる伴奏としつつ、ジーザスがゲッセマネの園でただ1人、死に向かう葛藤を神に対して打ち明け、遂に運命を受け入れる決心をする歌。途中からドラムやキーボードが入り、リズムのトリックも交えて曲調を盛り上げていく、本作のクライマックスと言ってよい場面です。その最高潮となる箇所はジーザスによるWhy should I die!というシャウト。ここを私はどうしても映画版のTed Neeleyを基準値として観てしまうのですが、Michael K. LeeのシャウトはTed Neeleyのような金属質の超高音に突き抜けるというより、ややしゃがれ気味に声量と音程を上げWhy, oh why should I die, oh why should I die!とひとつのセンテンスの中にいくつものピークを作る行き方でした。さらに自分が死ぬ理由を神に問い続けたジーザスが一転して死を受け入れるAlright, I'll die.を、Ted Neeleyは再びシャウトで強く宣言していましたが、Michael K. Leeは一瞬全楽器が音量を下げた中で呟くように歌い、その代わりそのすぐ後に出てくるSee how I die.やこの曲の最後のBefore I change my mind.で信じがたいほどのロングトーンを聴かせてくれました。
The Arrest / Peter's Denial
"The Last Supper"(ジーザスの動機)、"What's the Buzz"(使徒たちの動機)、"The Temple"(民衆の動機)といったモチーフを目まぐるしく繰り出しながらジーザスの逮捕を見せて、聖書にも描かれる「ペテロの否認」へ。ペテロが三度否認した後のペテロとマリアの会話がジーザスの動機により歌われるのは、ここで信仰が受け継がれたことを暗示しているのでしょうか?
Pilate and Christ / Herod's Song
エルサレムの二重権力を象徴する高みの一つに立つ総督ピラトの下に連行されたジーザス。しかし関わりたくないピラトはジーザスを軽くあしらってヘロデ王の下へ送り出す。民衆の"Hosanna"の合唱がジーザスを揶揄するうちにもう一つの高みにある玉座から立ち上がり、一段降りてきたヘロデ王の藤岡正明は、腕をぶんぶん回して客席の拍手をコントロール!ついで皮肉な口調でジーザスに呼び掛けてから1階へ。ディキシーランド調の音楽に乗って歌うヘロデ王は期待通りキレてるなーという感じですが、お付きの者を伴った群舞ではないのでややゴージャスさには欠けたかも。その代わり、曲の間奏部分で客席に向かってHellow everyone! Glad to see you! Oh, gorgeous!とさんざん持ち上げておいて、指差し相手がアンナスになったとたんにYou are not gorgeous.。しかし一向に動じないジーザスに苛立ちを覚えたヘロデ王は、最後は本当にブチギレ気味に。もともとヘロデ王は出番は短時間でも強烈な印象を残すおいしい役ですが、期待通りのまさに怪演です。
Could We Start Again Please? / Judas's Death
このミュージカルの自分にとってのクライマックスは "Gethsemane" ですが、最も好きな曲はマリアとペテロの美しいコーラスが聞かれる "Could We Start Again Please?" です。映画版では二重唱の構造が強調されていませんが、この舞台ではCelinde Schoenmakerの伸びやかなボーカルがTelly Leungのパートに自然に重なり、うっとり。ところが、その余韻に浸るゆとりを与えず間髪入れずに激しいリズムが入って "Juda's Death" へ。指揮者の立ち位置の下のパイプに囲まれた空間に入牢しているかのようなジーザスが背を向けて立ち、舞台上では後悔に苛まれるユダがカヤパからひどい侮辱を受けてしまいます。そして激情に任せて自分を罵ったユダが、楽器演奏が止まった中で絞り出すように呟いたのは、マグダラのマリアと同じI don't know how to love him.という言葉でした。以下、マリアのこの歌をユダからのジーザスへの思いにつなげた後に、一転 "Heaven on Their Minds" のモチーフを用いて神への憤りを歌うユダは赤い光の明滅の中で舞台上を彷徨い、ギターの激しいソロを聞きながらYou have murdered me!(「You」は神のこと)と叫び続けた末に、首にかけたストールを引き絞ります。金を受け取ったときにWell done Judas.と歌ったコーラスがここではSo long Judas. Poor old Judas.と静かに歌って、ユダがぐっと息を呑み込んだ瞬間に暗転。
Trial by Pilate / 39 Lashes
カヤパとアンナスによって総督ピラトの元に引き出されたジーザスは、ピラトがさまざまに助け舟を出そうとするのに応えようとせず、周囲から舞台上の2人を見下ろす群衆のCrucify him!という叫びに気圧されたピラトはジーザスを39回の鞭打ちの刑に処します。鞭の響きと共に頭上から稲妻のように光るスポットライトに打たれるジーザスは舞台中央に立って微動だにせず、むしろカウントを続けるピラトの方が徐々に苦しそうな口調になっていきます。しかし群衆はこれでは満足せず、ついに口を開いたジーザスがEverything is fixed, and you can't change it.と言い放ったときにピラトはHow can I help you?と悲痛な声を上げ、その瞬間ジーザスの白いTシャツは赤いライトに照らされて血の色に染まりました。民衆がさらにCrucify him!と繰り返し、遂にDie if you want it, you innocent puppet!と絶叫したとき、音楽は荘厳なメインテーマへ。
Superstar
黒い衣装に身を包みシニカルな笑みを浮かべたユダとパッパラパーなソウルガールズたちによる "Superstar" は最高。その能天気な曲調と歌詞のおかげでミュージカルとしてのカタストロフィーとジーザスへの冒涜すれすれのリスクを併せ持つこの曲は、何度聴いても不思議な興奮をもたらしてくれます。その興奮はあるいは、死によってジーザスへの執着からも神の軛からも逃れられたユダが感じているであろう解放感に由来しているのかもしれません。
Crucifixion / John 19:41
色彩を失った舞台上に白色光が四角い領域を描き、この光に導かれてジーザスが舞台から階段を登って中段の回廊へ。十字架上での苦悶から解き放たれたジーザスはIt is finished. Father, Into your hands, I command my spirit.と語り、管楽器とアコースティックギターによる静かな演奏の中を戻ってきたマリアたちがジーザスを見上げるうちに、舞台上は徐々に暗転しました。なお、ヨハネ福音書19章41-42節は次の通りです。
41イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。42その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。

最後は "Superstar" の演奏をバックにキャストが挨拶、これに対し客席は手拍子をとりながらのスタンディングオベーションで応えました。

映画『ジーザス・クライスト・スーパースター』(1973年)に衝撃を受けてから既に半世紀近くがたち、この間に劇団四季の日本語版舞台を2回(2014年2018年)観てはいるものの、自分はもともと映画版からこの作品に入っているので(劇団四季の努力はもちろん尊いと認めるものの)本来の英語で歌われるこの公演はどうしても観て…というより聴いておきたいところでした。そして、こうして実際に聴いての印象は、やはり英語で書かれたミュージカル作品は英語で聴くに限るということ。メロディーに対する言葉の乗り方がやはり違います。

キャストの歌唱については、とりわけジーザスのMichael K. Lee、ユダのRamin Karimloo、マグダラのマリアのCelinde Schoenmakerの3人の歌がいずれも素晴らしいものでしたが、それ以外のキャストも誰をとってもそのポジションを見事に演じていたと感じました。さらにまた、ライブで演奏されるロックミュージックのパワーに久しぶりに触れたことにも強く心を動かされました。とは言うものの、あくまでボーカル優先なので楽器群の中でも打楽器の音量がいくぶん控え目。ゲーテ風に言うなら「もっとドラムを!」と言うところですが、これはいずれ純粋なロックコンサートに足を運ぶ機会を作ることで欲求を満たすつもりです。

プロダクション面では、舞台上のセットや照明もシンプルでありながら効果的で、完成されたショウを観ることができた満足感に浸れます。映画版も劇団四季版も共に2000年前のエルサレムを思わせる舞台設定が施されていましたが、もともと1971年にブロードウェイで初演されたときのこの作品では現代的な演出が採用され、Andrew Lloyd Webberも映画版のような史実に接近しようとする演出は嫌っていたそうですから、今日の舞台は「ジーザス・クライスト=スーパースター」の本来の姿(のひとつ)と言ってよいのでしょう。

ところで、こうして最後まで観てこのショウの観劇体験に満足した上で「それにしても」と思うのは、ジーザスに破滅の道を歩ませ、ユダには裏切り者を汚名をも与えておきながら、誰に対しても救いの手を差し伸べようとしない「神」の動機の希薄さです。ユダにYou have murdered me!と叫ばせ("Judas's Death")、ジーザスにはMy God, why have you forgotten me?と呻かせ("Crucifixion")、それでも沈黙を貫く「神」はいったい何をしたくてこの2人に苛烈な運命を与えたのか。もしAndrew Lloyd WebberとTim Riceが、ジーザスとユダを殺したのはあくまで民衆であって、この物語には「神」の存在は不要だと考えていたのだとしたら、これはこれで恐ろしい話です。Michael K. LeeとRamin Karimlooの2人には、この点をどう理解して自分の役柄に取り組んだのか聞いてみたいものです。

配役

ジーザス・クライスト Michael K. Lee
イスカリオテのユダ Ramin Karimloo
マグダラのマリア Celinde Schoenmaker
ヘロデ王 藤岡正明
カヤパ 宮原浩暢
ペテロ Telly Leung
ピラト Robert Marien
シモン 柿澤勇人
アンナス Aaron Walpole