塾長の鑑賞記録

フェイクスピア(NODA・MAP)

2021/07/06

東京芸術劇場でNODA・MAP「フェイクスピア」。

フライヤーにも書かれている野田秀樹の言葉に「やっちゃあいけない事」と書いてある通り、本作はある音声記録を最後の10分間でそのまま引用するために2時間の芝居に仕立てた作品です。あらかじめ戯曲を読んだとき「この題材をとりあげたのか」と意外に感じましたが、実際に観てみると演劇としてしっかり成立していました。

どんより曇り空の下の東京芸術劇場に入って座席表を確認すると、最前列のほぼ中央であることにびっくりしました。近いのはいいのですが、役者たちの汗やつばが降りかかってきそうだなと少々不安を覚えつつ舞台上を見渡すと、恐山をイメージさせる暗い色調の床の奥側がスロープになっており、舞台最前部の上手と下手に装飾的に小さな四角柱、舞台中央の左右に役者が寄りかかれるほど大きな木の四角柱(その上部に梵字が各一文字。おそらく下手が日光菩薩のア字・上手が月光菩薩のシャ字)、下手奥に三本の小さな柱が立っているだけのシンプルなセットです。そして頭上中央には半円形に「FAKESPEARE」の文字(Rだけが反転している)が配され、さらに中空に舞台を横切る二組のワイヤーが通っていて、これはブレヒト幕が左右に行き来するための装置でした。

以下、引用部分は『新潮』(1398号)に掲載された戯曲等によりますが、記憶に基づき実際に舞台上で発せられたと思われる言葉に修正している箇所(白石加代子の最後の挨拶)もあります。

定刻の19時を少し過ぎて場内に流れていたスウィング「Sing Sing Sing」のジャングルビートが大きくなると共に劇場内が暗転した後、音楽が消えて舞台が照らされるとそこには小さな匣を抱えた高橋一生、そしてその背後にアンサンブルが森の樹々を模して立っています。幻想的な効果音が流れ、やがて大きな衝撃音。

ずしーんとばかり、とてつもなく大きな音を立てて大木が倒れてゆく。けれども誰もいない森では、その音を聞く者がいない。誰にも聞こえない音、それは音だろうか。そして私は誰もいない森でこの話をしている。誰にも聞こえない言葉、それは言葉だろうか。何のために誰もいない森で倒れる大木は音をたてるのだ、何のために誰もいない森で私は言葉を紡いでいるのだ。

この後にマイクを手にした白石加代子が登場して女優をやっておりますと自己紹介(客席から拍手)。女優になる前に恐山でイタコの修行をしていたとフィクションの説明を始めてからシームレスに2時間余りの芝居が展開するのですが、この作品はたとえば「エッグ」のように時系列を行き来しながら徐々に主題が明らかになるという複雑な構造は持っておらず、恐山を舞台にさまざまなヒントを伏線的に散りばめながら最後の10分間へとつないでゆくという比較的シンプルな構成なので、ストーリーを仔細に追うことはここではしません。

想像するに(まったくの想像ですが)、この戯曲のアイデアは音声記録を出発点とし、これを舞台上で再現するためには誰かに聴かせるというシチュエーションがほしいことから息子を登場させ、亡くなった父が息子に言葉を伝えるというストーリーからハムレット(復讐を求める父王の亡霊)に結びつき、しかし舞台を日本にする必要があるので恐山のイタコを持ってきた……という経緯ではないでしょうか。

そんなわけで恐山でイタコ見習いを50年続けて51回目の昇格試験を目前に控えている皆来アタイ(白石加代子)の目の前に、若々しい男mono(高橋一生)と老年の男・楽たの(橋爪功)が登場。二人とも記憶を失っているかのように自分がなぜここにいるのか理解しかねている様子で、monoはときどき憑依したように頭下げろ!などと乱暴なセリフを発するし、楽もイタコに呼び出して欲しい相手が娘だったり妻だったりとあやふやですが実は楽には娘も妻もいなかったりします。この二人が皆来アタイの誰を呼びたいのかという質問をきっかけに突然シェークスピア悲劇の登場人物になってリア王とコーディリア、オセロとデズデモーナ、マクベスとマクベス夫人を演じ、そのたびに本来自分が口寄せをしなければならない立場の皆来アタイはおろおろ、女形を勤めたmonoはこちらの目の前(舞台前縁)でなよなよと失神。

しかし皆来アタイにも伝説のイタコ(前田敦子)が取り憑く瞬間が訪れたり、monoが持つ匣を狙う神様からの使者としてアブラハム(川平慈英)と三日坊主(伊原剛志)、皆来アタイの先輩イタコで実は三日坊主の女房でもあるオタコ姐さん(村岡希美)が絡み、おまけに著作権料を請求しに中世風の衣装でやってきたシェイクスピア(野田秀樹)とその息子で黄色い野球帽をかぶったラッパーのフェイクスピア(同)、星の王子様(前田敦子)までも加わって混迷の度合は深まるばかり。彼らは誰で、なぜ恐山にやってきたのか、monoが大事に抱えている匣には何が入っていて、神様からの使者たちはなぜこの匣を取り返そうとしているのか……という謎解きがこの芝居の縦軸です(いつものように、その謎が解けたところから観客は感情の坩堝に放り込まれることになるのですが)。

「ハムレット」の亡霊の場面をきっかけにmonoは楽の父であることがわかり、一方の楽は地下鉄職員としての職業人生を終えた後のある日、飛込み自殺を図ったところで命を断つ前に父と会っておけと誰かに背中を押されて恐山にやってきたことを思い出します。さらにmonoが死者の夢と目覚めを繰り返すにつれて、匣の中にはmonoが「マコトノ葉」(真実の言葉)と呼ぶものが納められていること、monoは息子・楽にその「マコトノ葉」を聴かせるために現れた霊であり、死んだときの年齢の姿でいるので現在の楽よりもずっと若く見えているということが明らかになっていきます。そして、匣から漏れてくるがんばれがんばれどーんと行こうやといった言葉、金属探知機を持つ捜索者の一群、山にぶつかりそうに危うい飛び方をする白い烏、To be or not to be(飛べ)、スロープを一斉に滑り落ちるたくさんのスーツケース、妄想の飛行機に乗り移るための滑走路……といった結末につながるセリフやイメージが散りばめられて、これらを注意深く観察していれば徐々に本作の核心部が見えてきます。

楽のために父親(mono)を口寄せしようとした皆来アタイのイタコ昇格試験は失敗に終わりましたが、それでも同級生だった楽をmonoに再会させたいがために伝説のイタコの力を借りた皆来アタイは楽と共に気球に乗って過去へと時間を遡り、舞台は神から「マコトノ葉」を盗んだmonoを被告人とする裁判へ。ここで「マコトノ葉」が神から盗んだ言葉ではなく神(運命)と闘ったときのmono自身の言葉だと判明したとき、匣はボイスレコーダーであることが金属探知機を操る捜索者たちによって明かされ、コックピットクルーの制服姿になったmonoから別れの言葉と共にその匣が楽の手に渡されると、mono(機長)・アブラハム(副操縦士)・三日坊主(航空機関士)・オタコ姐さん(客室乗務員)は神様からのシシャ=「死者」として烏たち(乗客)と共にキャスター付きの椅子に座った姿で機上の人となりました。

下手の舞台最前部に座った楽が匣の蓋を開くと、聞こえてきたのは空港での最終搭乗のアナウンス。皆来アタイへの感謝の言葉を残して飛び立ったmonoたちの背後に立つ飛行機の尾翼には星の王子様とシェイクスピア。私の言の葉はフェイクなんかじゃ……と叫びながらも抵抗虚しく爆発音と共にシェイクスピアが振り落とされてフィクションがノンフィクションに敗北したところから、日本航空123便墜落事故の機内での様子の再現が始まりました。なんか爆発したぞ、スコーク77から始まる修羅場の描写は迫真。頭下げろパワーあげろなどと叫びながら力を合わせ必死に機体の安定を図ろうとする三人のクルー、乗客に対して安全確保のための指示を出し続ける客室乗務員(音声記録が聴取不能な部分はセリフでも「……」と飛んでいる)、これはだめかもわからんね……という機長の悲痛な声。中には飛行機が前方に飛び出してくる動きもあり、役者たちが舞台から客席へなだれ落ちるのではないかと息を呑むと際どく足でブレーキをかける瞬間も。機体が大きく振られるたびに客室の椅子が左右へ弾き飛ばされて、最後には乗客全員が絶望の表情を顔に浮かべながらクルーたちの肩にしがみつくかたちになり、monoが頭上げろ……パワーという最期の言葉を発したときに匣は楽からmonoに投げ渡されて、墜落場面の再現が終了しました。

午後6時58分28秒に「声」になり誰もいない森で目を瞑ったmonoが息子のために遺した「生」は神様が人間にくれた無限のコトバだという教え、そして頭を上げろという言葉を噛み締めてわかった、生きるよと答える楽の独白。この息子の言葉を聞いて笑みを浮かべたmonoの姿が舞台後方のスロープの向こう側に消えた後、舞台上に残された皆来アタイと楽とが飛行機雲が一筋走る青空を見上げたところで、皆来アタイの姿は白石加代子に戻り白石加代子です……本日は、大変ありがとうございましたと客席に挨拶をして終演となります。

何度目かのカーテンコールが終わって舞台上が無になり、エンディングの音楽を聞きながら観客が順次退出してゆく中、劇中で内部から光を発していたあの匣は今は蓋を閉じられ、舞台中央の最前部に置かれて上方からの光に照らされ続けていました。


以下の表(私が観劇した作品の中からピックアップ)のように、これまでたびたび現代史の中のイベントを芝居にしてきたNODA・MAPですが、今回、日本航空123便墜落事故が取り上げられたことは少々意外でした。

初演年 演目 題材
2000 カノン あさま山荘事件
2006 ロープ ソンミ村虐殺事件
2010 ザ・キャラクター オウム真理教
2011 南へ 脱北者
2012 エッグ 731部隊 / 満州引揚
2016 逆鱗 人間魚雷「回天」
2019 Q : A Night At The Kabuki シベリア抑留

ちなみに私自身は、そのときたまたまNHKのニュースを見ていて「日航機がレーダーから消えた」という第一報を目の当たりにしたことを覚えています。よって予習がなくても芝居のそこそこ早い段階で本作の題材には気付いたことと思いますし、実際には事前に戯曲を読んでから劇場に足を運んでいたので筋書きはわかった上での観劇でした。ただ、それにしてもあの場面をこれほどの迫力で再現できるとは想像できていませんでした。事前に検索して感想サイトなどを見たところでは、この場面を15分にも20分にも感じている人が少なからずいたのですが、実際にはなんか爆発したぞから最後のパワーを経て静寂に戻るまで7分もありません(無粋ですが腕時計で確認していました)。このことも、この場面のインパクトを如実に物語っています。

ブレヒト幕を多用して繰り返される人格の切替えが芝居にもたらしたスピード感はまさに空を飛ぶようでしたが、それ以上に、クライマックスとなる舞台上でのリアルな墜落場面の迫力は(ありふれた表現ですが)ジェットコースター並に凄まじいものでした。そして役者たちが演じているこの修羅が1985年8月12日に日本航空機の中で現実に起こったことであることに戦慄し、心を強く揺さぶられました。524の魂と、地に落ちるぎりぎりまで、空の高みを目指して発せられ続けた言葉の重みは、役者の肉体と声を通じて再現されることによって、再び命を得たようです。

フライヤーに書かれた言によれば、30年ほど前にこの音声の記録に触れた野田秀樹はいつの日かこのコトバの一群が舞台にのれるような芝居を思いつきたいものだと不謹慎にも思ったとあります。野田秀樹もシェイクスピアも、戯曲として書き連ねる言葉は基本的に虚構(フェイク)ですが、フェイクではないこのコトバの一群を舞台に乗せるタイミングが今だと考えられた理由は不明です。ただし「死」に向かう飛行機の中で交わされた言葉の一群、とりわけ本来は「機首を上向かせろ」という意味の頭を上げろを息子に贈る「生」への言葉に変換してみせたその手腕は、やはり劇作家ならではのものでした。つまりこの戯曲は、ノンフィクションに対する敗北宣言では決してないのです。

以下、主要キャストについて。

高橋一生
初めて観ましたが、全体を通して端正な役者振りが際立ちました。コーディリアやデズデモーナ、マクベス夫人を演じるときは女らしく、皆来アタイに頭下げろと言い放つときは傲慢に、さらには絶叫を続ける場面もありますが、それであっても品を失わず。ところが、終盤で机の上に仰向けに横たわった彼の頭から舞台上へ雨のように汗がしたたっているのを見たとき、この端正さが膨大な運動量をこなした上でのものであることに気付き、感動を覚えました。
ところで、彼の役名「mono」とは何なのか?アブラハムと三日坊主に問われたmonoはくせ者のモノ?と聞かれて一つの音ってことだよ、monoと答えています。この芝居の冒頭の独白monologueで語られる通り「誰もいない森で紡がれた言葉」のイメージを端的に示す名前ですが、終盤で飛び立つ直前のmonoは3歳の息子に戻った楽に別れを告げながらパパは神様からの使いの『mono』だとも説明して、オタコ姐さんから神様からの「死者」。死人だろ?という言葉を引き出していました。そして匣の中にあったものは「monoの言葉」=「物語り」?でもそれではあの言葉が虚構になってしまうから、どうやらこれは違いそうです。
白石加代子・橋爪功
芝居の中でも高校の演劇部の同級生という設定でしたが、実際にも同じ79歳。この年齢でこの動きと声とこの膨大なセリフの量というのは、さすがというよりまさかという感じです。本作はこの二人がいて初めて成り立った芝居だったと思いますし、この二人の存在によって全体のテンポが落ち着き、舞台上で発せられる言葉が客席に無理なく届くようになっていたとも思います。
橋爪功は直近では2015年の「エッグ」(再演)、その前には2012年の「エッグ」、2010年「ザ・キャラクター」と2009年「パイパー」で観て毎回その演技に唸らされてきたのですが、今回も予想に違わぬ名優ぶりでした。その役名「楽たの」については、最後に皆来アタイがタノ死んで、タノ生きていこうと呼び掛けた通り、自分の中で何かが死んで新たに生きる決意を得る役柄を象徴する命名だったのでしょう。きっと。
かたや白石加代子さんの方は、1994年の「虎〜野田秀樹の国性爺合戦〜」以来でした。冒頭の自己紹介で自ら説明していた通り「百物語」シリーズで観る者を震撼させる憑依の女優、それなら確かにイタコに適役と思わせておいて、実際にはイタコ名代に昇格できずに見習生活50年という微妙な立ち位置を可愛らしく演じていたのがまさにツボです。なお、白石加代子さんが冒頭とラストでリアルな女優と架空の劇中人物との間を行き来するのも本作のモチーフである「虚実」の視覚化かと思われますが、そのときはアンサンブルの一人が舞台に現れて白石加代子さんと向き合い互いに腰を折って伸ばした手をつないだ状態から、もう一人のアンサンブルが片方の着ているイタコの衣装をくるっとひっくり返してもう一人の身体に移し替えるという手際の良い変身手順を見せてくれていました。
川平慈英・伊原剛志
川平慈英は三谷幸喜の作品によく出ているそうですが、NODA・MAP初参加となった本作でも熱量の高い役柄を巧みにこなしていました。探知機の音源を探るアブラハムが三日坊主に片腕を持たせて身を客席へとせり出してきたとき、最前列に座っている私は2メートルくらいの距離で一瞬その目ヂカラと対することになってドギマギ。一方の伊原剛志は、もともと三日坊主の役を演じるはずだった大倉孝二が体調不良のために降板した後を受けての急遽の代役(来年?え、今月?)でしたが、そうした舞台裏の気配は微塵も見せず、川平慈英とのペアも自然で相性が良かったと思います。彼の芝居を観るのも(映画を除けば)上述の「虎〜野田秀樹の国性爺合戦〜」以来27年振り。
ところで「アブラハム」は預言者=神の言葉を預かる者だとすんなり理解できますが、「三日坊主」はどこから来たネーミングなのでしょう。墜落が起きたのが8月12日で、ボイスレコーダーが回収されたのが14日=三日目だったから?
前田敦子・村岡希美
前田敦子さんはこんなに声が通る人だったのか、という驚きがまず立ちました。イントネーションが少々単調ではありましたが、伝説のイタコの毒のある口調と星の王子様や白い鳥のピュアな少年ボイスの使い分けは見事ですし、登場した途端に客席の視線を引きつける力はさすが元センター。そして村岡希美さんは「贋作 罪と罰」「キル」「贋作 桜の森の満開の下」で既におなじみ、今回もきっぷのいいオタコ姐さんをきりりと演じて絶対の安心感。なお彼女はナイロン100℃の所属俳優でもありますが、ケラ作品にはトラウマがあるのでそちらで観ることはあり得ません。
野田秀樹
説明は不要でしょう。

そして最後に、小ネタを含む備忘。

  • 舞台上の柱の配置は能舞台を模したもの。手前の小さい二本は目付柱と脇柱、舞台上の大きな二本はシテ柱と笛柱、下手だけにある小さい三本は橋掛リ(一ノ松〜三ノ松)。
  • 開演少し前に相方が「懐かしい♫」と反応したBGMは大瀧詠一「夢で逢えたら」。なるほど。
  • 皆来アタイが口寄せでリア王の娘(コーディリア)を呼び出そうとするときのセリフ娘よ娘よ娘さんは1960-70年代の子供向けTV番組「ロンパールーム」からの借用(「鏡よ鏡よ鏡さん」)。
  • アブラハムと三日坊主が匣を追いかけていた期間は、戯曲では永遠プラス66年となっていますが舞台では永遠プラス36年になり、戯曲冒頭に明記されている2051年8月12日の物語という設定が変更されていました。おかげで今年(1985年+36年=2021年)この芝居を観る者には理解しやすくなりましたが、3歳のときに母を亡くした皆来アタイが高卒で恐山に来てからイタコ見習いを半世紀続けて今年が51回目の試験だというセリフ((18歳ー3歳)+51年=66年)とは整合しなくなっていますし、同じく3歳で父を失った楽が仕事(地下鉄職員)を勤め上げて老年に達しているという基本設定も無理なものになっていました。
  • 三日坊主とアブラハムが登場したすぐ後に烏女王の口から、神様からの使いだった魂たちは永遠プラス36年の間神様のコトノ葉を取り返すためにmonoを追いかけ続けている内に彼ら二人を除いて烏になってしまったと説明されており、ここで烏たちも死者(乗客)であったことが暗示されています。その烏たちが人形振りも交えた浄瑠璃口調で交わすセリフは「マクベス」の三人の魔女の会話からの引用です。
  • シェイクスピアが現れたときにmonoは舞台の袖に引っ込もうとする烏の群れの一人を捕まえ柱の陰で彼を盾にして身を隠しましたが、困り果てつつ苦笑するその不運な烏に「じっとして!なんで笑ってるの?じっとして!」。さらにブレヒト幕でシェイクスピアと入れ替わった皆来アタイがTo be or not to be...(発音は「とべぇ」)と素っ頓狂に腕をひらひらさせている様子に高橋一生は素で(?)笑いながら芝居を続けましたが、皆来イタコにシェークスピアが憑依していたことを指摘する際に「とべぇ、なっとべぇとやりたい放題やって……」と自分も阿呆口調を使ったところで笑いが止まらなくなってしまい、客席は爆笑と拍手喝采。しかもこれに当てられたのか白石加代子が高橋一生に近づいて「セリフ忘れちゃったよ」(←推定)と囁き、すかさずどこからかプロンプトを受けて演技がつながりました。実はこの公演の開幕(5月24日)後しばらくは白石加代子にセリフが入り切らず、途中から台本片手に芝居を続けるということもあったそうですが、この日引っかかったのはここだけでした。
  • さらにmonoが憑依して語る「ハムレット」の父王の亡霊のセリフには深いエコーがごく自然にかかっていましたが、monoがこちらを向いてみるとそれは彼自身の語りによるリフレイン(たとえば「私の話に耳を傾けるのだ、のだ、のだ……」)だと判明。こんな具合に高橋一生による笑いのポイントが中盤に用意されていて客席は大喜びでしたが、まさかその1時間後にあの愁嘆場に向き合うことになるとは、このとき無邪気に笑っていた観客のほとんどが予想していなかったことでしょう。
  • 僕らは、本当には呼吸していないという星の王子様の言葉を楽が確かめようとする場面、ト書きでは「(星の王子様に近づいて)」とさらりと書かれているだけですが、舞台上では橋爪功が自分の顔を前田敦子の顔すれすれに持っていって約10秒間静止。なんとも言えない微妙な空気が劇場内に漂いました。
  • 大切なものは目に見えない。そしてイタコはかつて盲目の者がなることが多かったそう。
  • 江の島海岸の弁当箱は、いつもトンビに狙われています。
  • シェイクスピアが言及するローゼンクランツとギルデンスターンは「ハムレット」の登場人物ですが、「足跡姫」でも引用されたことがあるくらいなので、野田秀樹はこの二人によほどこだわり(?)があるらしい。
  • 楽のセリフの中の時事ネタ二つ。
    • 地下鉄で飛込み自殺を図っていた楽は、ベンチの隣に座っていた男に先を越されてしまう。ところが駅員のアナウンスは「只今、人身事故が発生いたしました。たいへんご迷惑をおかけしております」、これを聞いた客たちも舌打ちをして「電車が遅れちゃうよ」。この小さな挿話で笑える人は、芝居というものを二度と観ない方がいい。誰一人、その男の「死」を思わないんだ
    • 子供の頃、父のことを人殺しと呼ぶ人が家に押しかけてきたことがあります。また実際にも、日本航空123便の機長宅には遺族に罵声を浴びせるための電話が相次いだと言います。現代の誹謗中傷問題に通じる、浅ましい出来事。
  • アンサンブルの中で一人、とりわけその存在を感じさせる女性演者がいました。誰だろうと思って終演後にプログラムを見てみたところ、花島令さん。近年さまざまな舞台に立ち女優・ダンサーとして活躍しているそう。今後一層の活躍を期待したいと思います。

配役

mono 高橋一生
アブラハム 川平慈英
三日坊主 伊原剛志
星の王子様 / 伝説のイタコ / 白い鳥 前田敦子
オタコ姐さん / 烏女王 村岡希美
皆来アタイ 白石加代子
シェイクスピア / フェイクスピア 野田秀樹
橋爪功