塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

佐渡狐 / 屋島

2021/11/03

観世能楽堂(銀座)で観世流能楽師・武田宗典師の会。仕舞三番、狂言「佐渡狐」、能「屋島」という番組です。

武田宗典師の会はこれが第四回ですが、私が師の会を拝見するのは2012年の「道成寺」の披き以来です。この会は本来昨年6月に上演されるはずだったそうですが、御多分に洩れずCOVID-19の影響で一年以上延期してこの日の上演となりました。

自宅から徒歩圏内だったこともあって松濤の旧観世能楽堂には何度も足を運びました(私自身が松濤に住んでいるわけではありません……)が、銀座に移った現観世能楽堂を訪れるのはこれが初めてです。見ればGINZA SIXの表には確かに「観世能楽堂」と書かれていますが、その後ろの「(多目的ホール)」という記述に違和感を感じました。

しかし、脇正面が極度に圧縮されたこの長細いレイアウトを見て納得。このホールは、能楽公演以外に邦楽・洋楽のコンサートや演劇、講演会などにも利用されているのだそうです。開演時刻が近づくにつれ見所はどんどん埋まっていきましたが、ハンサムでノーブルな宗典師の会とあって、心なしか若めの女性の姿が多かったような……。

定刻になって、まず仕舞は「嵐山」「采女キリ」「富士太鼓」の三番。「嵐山」は武田祥照師の蔵王権現がきりりと力強く国土守護の誓いを示し、「采女」は後に地頭を勤める武田宗和師が采女の霊が美しくも寂しく猿沢池に沈むさまを見せ、そして松木千俊師の「富士太鼓」は不慮の死を遂げた夫を思い太鼓を打っての悲しいカタストロフィ。それぞれに異なる味わいがありました。

佐渡狐

「佐渡狐」は私が初めて能楽というもの観たとき(2005年)に上演された狂言。人気曲とされる割にはなぜかそれ以来上演機会に接することがなく、16年ぶりの鑑賞です。初見のときは大蔵流で、善竹十郎師がシテ/佐渡の百姓、大藏吉次郎師が越後の百姓、大藏彌太郎師が奏者という布陣でしたが、今回は和泉流。野村万作師(90)の奏者がシテで、越後の百姓を孫の野村裕基くん(22)、佐渡の百姓を裕基くんのまたいとこにあたる野村太一郎師(31)が勤めます。

ストーリーは、越後の百姓と佐渡の百姓が年貢を納めるために連れ立って都に向かう道すがら、佐渡に狐はいるかいないかで口論の末に互いの腰の刀を賭けることになり、佐渡の百姓は一足先に都の奏者に賄賂を贈り本当はいない狐の姿かたちを教えてもらっていったんは賭けに勝つものの……という話。越後の百姓に佐渡には狐はおるまいと言われて引き下がれず「おる、たーくさんいる」と意地を張る佐渡の百姓の軽みはいかにも太一郎師らしいものですが、裕基くんの声色・口調が父の萬斎師にそっくりなことにも笑みがこぼれてしまいました。まだ10歳だった裕基くんが「舟ふな」で万作師の主をやり込める太郎冠者を堂々と演じたのを観て「すごい少年だ!」と思ったのを昨日のことのように覚えていますが、その裕基くんももう身長180cm・9頭身の立派な若者です(ただし、能舞台の寸法に照らすと身長が高いことが良いとは限らないとのこと)。

しかし、やはり舞台を締めるのは万作師。百姓が近づいたときにまずは扇で床をばしっと叩いて「何者じゃ」と威圧し、恐縮した百姓からの貢納の言上を聞いて「御蔵の前へ納めませ」と命じる奏者の貫禄。へらへらと近づいて賄賂を贈ろうとする佐渡の百姓を二度三度と追い返していたのに、最後にそっぽを向きつつ扇を広げて袖の下で「寸志」を受け取る俗っぽさ。しからばと懇切丁寧に狐の体つきや顔つき、目・口・尾の特徴、毛色を指南したのに、いざ越後の百姓から問われるとしどろもどろになる佐渡の百姓の頼りなさに顔をしかめてやきもきしながら身振り手振りを送るに至っては、最初の奏者の威厳はどこへやら。そうした表向きのおかしさの奥で、既に卒寿を迎えている万作師が次代を担うであろう若い二人を相手に自在の舞台を勤めていることに圧倒されると共に、目の前の舞台上で祖父から孫の世代へと芸の伝承がなされていることにも感動を覚えます。

ともあれ、途中からこれはおかしいと気付いた越後の百姓が佐渡の百姓と奏者との間に割って入り袖を掲げ膝立ちで左右に動いて邪魔をするどたばたも空しく、いったんは佐渡の百姓の勝ちとなるのですが、どうにも納得できない越後の百姓は、奏者が去った後に狐の鳴き声を問いただします。ところが、それは教えられていなかった佐渡の百姓は「犬よりは小さい」だの「狐色」だのと頓珍漢な回答を重ね、ついに刀を二つとも取り上げられてしまい、せめて自分の分は返してほしいと懇願しながら走り去る越後の百姓の後を追っていきました。

屋島

修羅能「屋島」はそのタイトルの通り『平家物語』で知られる屋島の合戦跡を訪ねた旅の僧が源義経の亡霊と出会い、死後においても闘争から逃れられずにいる義経の苦悩を垣間見るという話ですが、この日は小書《弓流ゆみながし》《那須與市語なすのよいちのかたり》がつくことで、シテは海に流してしまった弓を敵に取られてはならじと命を賭して取り戻す型、アイは那須与一が扇の的を射抜くエピソードをそれぞれリアルに演じます。この日配布された小冊子には宗典師の挨拶と番組に加えて演目解説が掲載されていたのですが、ことに「屋島」については簡単なあらすじだけでなく、詳細な舞台展開やその中での小書に関する解説、さらには見開きカラーの漫画版「屋島」(登場人物が全部ネコ)までも掲載されていて、懇切丁寧にこの演目の理解を助けようとする宗典師の人柄が感じられました。

なお、この曲を観るのは二度目で、前回(2010年)はシテが梅若玄祥(現・梅若実)師、アイが野村小三郎(現・野村又三郎)師、小書は《弓流》《語掛》《継信語》でした。

囃子方・地謡とも肩衣袴の裃姿で凛とした空気が漂う中、哀感漂う名ノリ笛と共に登場したワキ/旅僧(森常好師)。いったんワキツレ二人を橋掛リに着座させて常座で名乗リを謡うと、舞台上に三人で向かい合い道行から〈着キゼリフ〉となって脇座に納まります。ついで〔一声〕と共に、熨斗目の上に水色の水衣と腰蓑で直面のツレ/漁夫(武田文志師)と茶系のほぼ同装で尉髪・尉面の前シテ/漁翁(武田宗典師)とが肩に釣竿を担げて登場し、橋掛リでまずシテ面白や月海上に浮かんでは波濤夜光に似たりに続き、シテとツレの同吟で格調高く漢詩を引用。シテは老体ではありますが、その本性が義経であるためか謡にはむしろ若々しさを感じます。ついで舞台に歩を進め、さらなる同吟で夕暮れの海ののどかな情景を描写し春や心を誘ふらんと謡った後、釣竿を後見に渡して二人揃って脇正あたりに着座(《弓流》に伴い床几は不使用)しました。

ここで立ち上がったワキは塩屋に宿を借りたい旨を申し出、これと向き合って立ったツレがその旨をシテに取り次ぐと、一度は粗末に過ぎるからと微動だにせず断ったシテでしたが、ワキが都の人であることを知ったシテはワキを見やって宿を貸すことにします。ここで初同となり、立ち上がったシテはワキの方に手を差し伸べてから、正中に下居。ツレもワキツレの並びに位置を変えると、地謡の都と聞けばなつかしや、われらももとはとて、やがて涙にむせびけりを聞きながらシテはシオリます。

ここからワキの所望に応え、中啓を膝の前に構えての合戦物語が最初の見どころとなります。

いでその頃は元暦元年三月十八日の事なりしに以下のシテの〈語リ〉では、海上の平家と汀の源氏が対峙する情景と共に大将軍義経の出立ちを語り、鎧を踏ん張って(と腰を浮かし)源の義経と名乗る場面を義経その人がそこにいるかのような強い声色で再現します。ついで、ツレがその時平家の方よりもと高揚した様子で加わり、ここからは源氏方の三保谷四郎と平家方の悪七兵衛景清の錣引き。同時に入ってくる大小の鼓によってこの場が源平の将兵たちの鬨の声に埋め尽くされた戦場と化す中、兜の錣に見立てて広げた扇を左手でぐいと前に突き出したシテとツレとの掛合いによって二人の強者の力比べが勇壮に描かれ、錣が引きちぎられた瞬間に体を落として左右を見回したシテが立ち上がると、そのまま脇正に移り間髪入れず佐藤継信が義経の身代わりとなって能登守教経の矢に射倒され落馬するさまが足拍子で示されました。

ここまで一気呵成に進んだところで舟は沖へ、陸の者は陣へと引いて鬨の声が絶えるまでを語ってシテが中央に着座すると、後見二人が出てきてシテの肩を下ろすうちに地謡があまりに詳しい物語をするとは不思議、名乗り給えとワキに代わって求め、これに対し修羅の時になる明け方には名乗ろうと告げて立ったシテはよし常の憂き世の、夢ばし覚まし給ふなよと言い残し、ツレを伴って下がっていきました。

入れ替わりに狂言座から舞台に進んだアイ/屋島ノ浦人(野村萬斎師)は、自分の塩屋に勝手に入り込んでいるワキたちを見咎めてクレーム!しかしそこは堂々たる恰幅の森常好師のことなので(?)動じる気配もなく、かえって那須与一が扇の的を射たところを仕方で見せてほしいと所望するとアイもこれに応えて正中に居住まいを正しました。《那須與市語》によりここからアイは源義経、家臣・後藤兵衛実基、那須与一、語り部としてのアイ自身の四役を演じ分け、義経のときには正中で居丈高に、実基と与一のときは素早く角に移って義経に対し平伏する姿で、語り部としては正中で淡々と、といった具合に瞬時に立場と心持ちを変えつつ語り続けます。日が暮れて合戦の続きは明日と思えたときに沖の小舟に乗った遊君が扇を高く掲げ(アイは扇を開いて見せ)て挑発し、これを見ての義経の下問に実基が与一を推挙したところ与一は一度は辞退しますが、義経の逆鱗(顔を紅潮させ左手の一本指を立てて「この義経の命に背く輩は鎌倉へ帰れ」と激怒)に触れやむなく主命を受諾すると正面に座を変えて、手綱をとり馬を進める姿を脇座への膝行で、舟の揺れで的が定まらない様子を水平に開いた扇を上下させることで示し、南無八幡大菩薩と両目を押さえてから左肩を脱いで閉じた扇を弓の形に構えて再び膝行、素早く戻って扇を三度振って海へ落ちるさまを見せて、最後は喜んだ義経がユウケン。

およそ15分にわたり続いたすさまじい熱量の一人語りを終えたアイは、何事もなかったかのように肩を戻してワキとの会話に戻り、先にワキが出会った老体は義経の亡心であろうからしばらく逗留するようにと勧めると、狂言座に下がっていきました。この間に鼓方は床几に掛けなおしていますが、これも《弓流》のために小鼓方は相引ではなく鬘桶(間狂言が始まるときに持ち込まれていたもの)に掛けています。

重ねて夢を待ちゐたりと待謡が謡われて、激しい大小の鼓の競演のうちに後シテ/源義経登場。梨打烏帽子を戴き、面は常の通りなら平太、法被肩上げに半切で完全武装の武将の姿。常座に進み落花枝に帰らず、破鏡再び照さずしかし自分は生前の罪業のためにこの世に対する執着を捨てられないと大音声と共に足拍子。ワキの問いに対し自らを義経の幽霊と名乗ったシテは、ワキとの対話の中にも空を見上げては執心のためにかつての戦場であるこの屋島に帰ってきたのだと重ねて告げると、地謡の〈クリ〉のうちに大小前で相引に腰掛け、〈サシ〉でいよいよ弓流し。ここは波間に取り落とし敵船の近くに流れた弓を義経が自ら単身で馬を泳がせて取り返しに行くエピソード(『平家物語』巻十一「弓流」)を常の演出では床几に掛かったままシテと地謡の掛合いで語りますが、小書《弓流》によって写実的に演じられます。すなわち地謡がうち入れうち入れ足並みに、轡を浸して攻め戦ふと謡ったところで謡が止み囃子がいったんスローダウン。シテは立ち上がってゆっくり角に向かい、さらにそろそろと脇座前に進んだところではたりと扇を落とします。ここで囃子が一瞬高揚し、素早く常座に戻ったシテはその時何とかしたりけん、判官弓を取り落とし、波にゆられて流れしに。引き潮に流されゆく弓を追って手綱を操り馬を波間に泳がせたシテは、寄せてきた平家方が伸ばす熊手をものともせず右手左手と差し伸べて弓(扇)を拾い上げると、再び大小前で相引に腰掛けました。

この義経の危険な振舞いを諌めた増尾兼房に対していやとよ弓を惜しむにはあらずと地謡が朗々と謡うときシテはワキの方を見やりましたが、そのシテの目にはワキではなく兼房以下の麾下の将兵が見えているはず。さらに一語一語噛み締めるように謡われる〈クセ〉を通じて、この弓が(と手にした扇に見入り)敵の手に渡って義経は小兵なりと言われるのは無念、武士の名は末代まで残るのだから当然の行動ではないかと説いて一同を感激させたシテは、『論語』(子罕「子曰、智者不惑、仁者不憂、勇者不懼」)を引用した上ゲ端の後に立って常座に移り、ワキに向いて留めました。

ところが、このときシテの耳に修羅道の鬨の声、矢叫びの音が押し寄せ、シテは足拍子を踏むと舞台を狂おしく回る〔カケリ〕。大小の前でさらに足拍子を踏み、正先に出てから激しい囃子を聞きつつ橋掛リに移動して一ノ松で二回転。今日の修羅の敵は誰そ、なに能登の守教経とやと扇を開いたシテはあらもののしや、手並は知りぬと闘争の虜となり、その回想が壇ノ浦の舟戦に移ると共に地謡・囃子はワキの夢が覚める夜明けの近いことを予感させるじっくりとしたテンポに変化します。残された時間を惜しむように足拍子を踏んで二ノ松から舞台に戻ったシテは、左手の扇を楯とし、右手に抜き身の太刀を構えて脇座前でこれを振るい突く激しい戦のさまを見せたものの、浮き沈むとせしほどにの中で中央に膝を突いて太刀を捨てて一ノ松へ。春の夜の浪より明けて、敵と見えしは群れゐる鷗、鬨の声と聞えしは浦風なりけりと急速に情景が変化していく中、力なく数歩後ろずさったシテは足早になった地謡に追われるように橋掛リを下り、終曲に向けて再びテンポを落とした地謡が朝嵐とぞなりにけるとキリの最後を謡ううちに常座に進んだワキが留拍子を踏みました。

武田宗典師は金春流能楽師の中村昌弘師が主催する流儀横断の講座(たとえば〔これ〕)で何度かその素顔を拝見しており、この講座の講師陣の中でもひときわ柔らかく上品な語り口が印象的だったのですが、この日の舞台上で見られた水際立った所作の数々と一貫して重厚で力強い謡には、圧倒的な気迫を感じました。シテの出から終曲まで、中入の20分間ほどを除いてほぼ70分間、しかも終わりが近づくにつれますますその気迫を高め凝縮して舞台上から発し続けた宗典師に、見所ではしなかった拍手をここで送ります。

ところで、同じ《弓流》でも以前観た梅若玄祥師の場合とはいろいろなところが違っていて(扇を落としてからどこまで下がるか、熊手を払い弓を拾うさまをどう示すか、など)、そこも面白く拝見しました。小書が同じでも細かい演じ方にはそれぞれに主張があるはずなので、機会があれば宗典師に自身の工夫とその意図を聞いてみたいものです。

小書という点では《那須與市語》ももちろん、野村萬斎師の語りの緩急や仕方のダイナミックさに引き込まれました。そしてこのときには後見座に裕基くん。自身も昨年この《那須與市語》を披いたばかりではありますが、師であり父でもある萬斎師が本番で演じる姿を舞台上で見るのは、伝承の機会としてことのほか大事であるに違いありません。ちなみに萬斎師の語りを聞いていて、自分はつい文楽の太夫の時代物での語り口を連想してしまったのですが、その伝でいけば後見座に座る裕基くんはさしずめ白湯汲みということになるのでしょうか。

なお、この曲は「勝修羅」とは言われるものの主人公の源義経はこの世に執着を残したために修羅の戦いの虜となっているのですが、では義経はこの運命からの救済を求めているのかと言えばそういうわけではなさそうですし、ワキにも弔おうという気持ちはさらさら見えず(ただし後場の冒頭でシテに対しおろかやな心からこそ生死の海とも見ゆれ(自分の心によって生死の海と見えるだけなのに)と諭してはいますが)シテが戦いに没頭する様を傍観しているだけです。この曲は世阿弥作と言われていますが、世阿弥は自分のスポンサーである室町の武将たちに何を言いたくて修羅の苦しみを見せるこの曲を作ったのか。これまた本人に聞いてみたいところですが、さすがにそれは無理な話です。

配役

仕舞 嵐山 武田祥照
采女キリ 武田宗和
富士太鼓 松木千俊
狂言 佐渡狐 シテ/奏者 野村万作
アド/越後の百姓 野村裕基
アド/佐渡の百姓 野村太一郎
屋島
弓流
奈須與市語
前シテ/漁翁 武田宗典
後シテ/源義経
ツレ/漁夫 武田文志
ワキ/旅僧 森常好
アイ/屋島ノ浦人 野村萬斎
一噌隆之
小鼓 鵜澤洋太郎
大鼓 亀井広忠
主後見 観世清和
地頭 武田宗和

あらすじ

佐渡狐

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屋島

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