特別展 ポンペイ
2022/01/16
東京国立博物館で「特別展 ポンペイ」。同じ題材の展覧会は2006年に「ポンペイの輝き」というタイトルでも見ていますが、今でも続けられている発掘作業と研究との最新の成果が見られるはずと期待をもって上野に足を運びました。
まずは例によって展覧会の公式サイトの惹句の引用から。
紀元後79年、イタリア、ナポリのヴェスヴィオ山噴火により、厚い火山灰の下に埋もれた都市ポンペイ。約一万人が暮らした都市の賑わいをそのまま封じ込めたタイムカプセルともいえる遺跡は、1748年の再発見以来、多くの人びとを魅了しています。
本展はポンペイから出土した多くの優品を所蔵するナポリ国立考古学博物館の全面的な協力のもと、日本初公開を含む約150点の名品を紹介。ポンペイ最大の邸宅「ファウヌスの家」などの一部を再現するほか、遺跡の臨場感あふれる高精細映像など、2000年前にタイムスリップできる空間演出もお楽しみいただけます。高度な文明と豊かな暮らしを今に伝える貴重な出土品や映像を通して、ポンペイの繁栄とそこに生きた多様な人びとの実像に迫ります。
この展覧会は出展されている全作品が撮影可能で、喜んで山ほど写真を撮ったために以下とりとめのない説明になってしまいますが、簡単な注釈を添えながら会場の様子を紹介しようと思います。ただし、写真の一つ一つについてキャプションを付けることはしません。
序章 ヴェスヴィオ山噴火とポンペイ埋没
ヴェスヴィオ火山はイタリア半島西岸のやや南寄り、ナポリの東にあって海に近く、ポンペイはこの山からほぼ真南に10kmほどに位置します。右のフレスコ画にはたわわに実ったブドウを身にまとうバックス(ディオニュソス)が描かれていますが、火山灰土壌が果物の栽培に適していたため、ワインやオリーブ油の産地として有名だったそう。しかし西暦62年の地震で大きな損害を受けたポンペイは、その復興が成らないうちに79年(おそらく10月24日)の噴火を迎え、噴火の翌朝の火砕サージと火砕流によって埋め尽くされました。
上の写真は平成館1階で上映されていた記録映像の一部。恐ろしい火口の向こうにポンペイが面していた湾が驚くほど近くに見えています。この距離で噴火されたらそれはひとたまりもないだろうと実感させられる映像です。そして展示会場には犠牲者の石膏像も展示されていましたが、そのうつぶせの姿には結われた髪や身に纏った衣服の形がはっきりと残されていました。彼女がどんな気持ちで最期の瞬間を迎えたのかを想像すると、胸が痛みます。
1 ポンペイの街-公共建築と宗教
12の塔と7つの市門を持つ全長3.2kmの市壁に囲まれたポンペイの町は1万人ほどの人口を擁し、内部は3本の大通りと多数の細い道路によっていくつもの街区に分けられていました。ローマ化以前から存在する神殿、劇場、体育施設が公共広場(フォルム)を中心とする町の南側に、ローマ化以後に建設された円形闘技場や大パラエストラ(体育施設)が町の東端にそれぞれ配置され、残りの部分には住宅が広がります。このコーナーには、フォルムの様子を示すフレスコ画やそこにも置かれていたであろうアウグストゥスの胸像(出土地はポンペイ外)、体育施設と公共浴場での道具・設備類、さらにポンペイの人々の信仰や娯楽の様相を示す出土品が展示されていました。
紀元前5世紀のギリシア彫刻家ポリュクレイトスのブロンズ像「槍を持つ人」の大理石によるコピー、擬アルカイック様式のアポロ、ビキニのウェヌス。いずれも見事な大理石の彫像はいかにもキリスト教以前の豊かな地中海文明の精華という感じですが、エジプト由来の女神イシスを祀る神殿も存在したそう。「地中海」という言葉の持つ意味が、現代の語感よりも広がりを持つものだったのかもしれません。
男女の俳優像(土製)はポンペイが属するカンパニア地方を発祥の地とするアテラナ劇(仮面笑劇)の様子を示していますが、出土したのは劇場ではなく住宅の庭園の入口。演劇が住宅の装飾美術における重要なモチーフとして扱われていたことを示しています。またモザイク画は辻音楽師を描いたものですが、デフォルメされたその表情は彼らが演劇用の仮面をかぶっていることを表しており、これも演劇の一場面を描写したもののようです。
2 ポンペイの社会と人々の活躍
貧富の差の激しい格差社会だったポンペイ。しかし紀元前80年のローマ化以後にローマ人植民者が上位に立っても従来の支配層であったサムニウム人の富裕層は存在し、さらに奴隷の身分から解放されて財をなす者もおり、階層間の流動性は高い方だったとされています。
まず目を引くのは、上流階級の豪奢な暮らしを如実に示す家具調度の数々。とりわけ素晴らしいのは通称「青の壺」と呼ばれる小アンフォラで、青ガラスの上に白ガラスの層を作って壺の形にしてから外装を削ってブドウ摘みの図像をかたどっています。
黒曜石の杯も漆黒の表面に鮮やかな色彩の色石を嵌め込んで絵を描き出していますが、そこに描かれているのは礼拝所の中でスフィンクスによって支えられた卓上のウシ(アピス)と左右にハヤブサ。エジプトのモチーフであるのも道理で、これはアレクサンドリアの職人の作品だそうです。
ライオン形3本脚付きモザイク天板テーブルも素晴らしい出来栄えだと思われたのですが、実はモザイクの方はもともと舗床の一部だったものをブルボン王朝時代にテーブルの天板に作り替えられたもので、脚部の方もこの天板と組み合わせる際に高さを増すための台座が付け加えられています。ポンペイの発掘は18世紀の中頃から始まっていますから、現代の学術調査の厳格なルールに則さず宝探しの感覚で出土品が扱われていたとしても不思議はありません。
マケドニアの王子と哲学者を描くフレスコ画やギリシャ風の賢人たちを描くモザイクは、上流男性の知的生活を象徴するもの。図録の中には小プリニウスがヴェスヴィオ山の噴火時の様子を説明するタキトゥス宛の手紙が紹介されていますが、そこにも小プリニウスが噴火の混乱の最中にあって避難せずに勉強していたためにそこにやってきた大プリニウスの友人に叱られる様子が書かれており、当時の上流階級の勤勉ぶりが窺えます。
しかし女性がすべからく社会的下位に置かれていたわけではなく、フォルム東側に巨大な回廊を建造し毛織物業者組合の保護者として顕彰されたエウマキアの像や、62年の地震後に自分の家を賃貸に出してしたたかな経営者の才覚を示したユリア・フェリクスの賃貸広告文からは、ポンペイの既婚女性(マトローナ)たちが辣腕を振るう自由を享受できていたことが窺えます。
スプリウス・フェリクスの娘ユリウスの屋敷では、品行方正な人々のための優雅な浴室、店舗、中2階、2階部屋を、来る8月13日から6年目の8月13日まで、5年間貸し出します。S.Q.D.L.E.N.C.
でも、このかわいらしい若妻(通称「サッフォー」)のフレスコ画の方がいいなと感じるのは、自分が男性だからでしょう……。
一方、奴隷は主人の遺言により、あるいは金を支払って奴隷身分から解放され、中でもルキウス・カエキリウス・フェリクスとその息子のユクンドゥスは銀行業を営んで富裕層にまで昇り詰めたことが知られています。大理石のヘルマ柱に組み合わせた写実的な顔の胸像(となぜか陰部)はおそらく父フェリクスのもの。いろいろな意味で、その意志の強さと上昇志向を見てとることができます。
身分の違いにかかわらず平等に訪れる死に対して、ローマ社会は「memento mori」(死を忘れるな)、だからこそ「carpe diem」(今を楽しめ)と現世の楽しみを享受することを美徳としたそうです。ちなみに、この日の展示の中ではその色彩は希薄でしたが、ポンペイからは性の楽しみを表わす壁画を多く備えた娼館なども発掘されています。
3 人々の暮らし-食と仕事
富裕層が家に台所を持ち折に触れて饗宴を開いており、その際は食堂に置かれた臥台に寝そべって奴隷たちの給仕を受けながらワインを飲み、卵料理、オリーブ、レタス、チーズ、ソーセージなどからなる前菜、肉や魚の主菜、果物やケーキといったデザートからなるコース料理を楽しんでいたようです。
一方、一般人の家には台所がなく簡単なものか外食に頼っていた模様。ポンペイには34のパン屋が活動しており、さまざまな種類のパンが製造・販売されていました。
炭化したキビ、イチジク、干しブドウと共に展示されていた黒いパンは直径20cm。焼く前にナイフで放射状の切れ目を入れて分けやすいようにしてありますが、溶岩性の石臼で挽いた粉で焼かれていたためにパンに含まれる微小な砂粒がポンペイ市民の歯を蝕んでいたことが噴火犠牲者の歯の分析からわかっています。
この見た目のインパクト満点の炭化したパンは、外の売店でクッションに姿を変えて販売されていました。また、同じコーナーでは外科医が使う器具や各種大工道具、農具などが展示されていましたが、その多くは現代でも使われる用具とほぼ同じ形状をしていることに驚きます。
4 ポンペイ繁栄の歴史
オスキ語を話す先住民→前8世紀に南イタリアに植民を開始したギリシャ人→前7世紀に進出したエトルリア人→前5世紀に山岳地帯から降りてきたサムニウム人→前80年のローマによる植民市(コロニア)化という歴史の中でその時々の体制により築かれ、あるいは一新された市街と公共建築物は62年の地震によって大きく毀損し、噴火時にも機能を回復しきれてはいなかったものの、富裕層の住宅では修復が進み現代にその豪奢の跡を残すことになりました。これらポンペイの繁栄をリアルに示す豪邸の再現が見られるこのコーナーが、今回の展示の白眉と言えるかもしれません。
約3000m2もの広さ(まるまるひとつの街区)を占める「ファウヌスの家」はポンペイ最大の邸宅で、ローマ化以前の前180〜170年に建設され、壁面を化粧漆喰で立体的に装飾すると共に、床に細密技法のモザイクを敷いていた点が様式上の特徴となっています。
とりわけ目を引くのが、エクセドラ(談話室)の床を飾るこの「アレクサンドロス大王のモザイク」です。アレクサンドロスがアケメネス朝ペルシアのダレイオス3世を圧倒した前333年のイッソスの戦いと前331年のガウガメラの戦いに題材(前者からは戦車に乗って戦場を離脱するダレイオス、後者からは王の盾となって死ぬ戦士や乗換え馬)をとったこの大きなモザイク画は教科書などでもおなじみ。さすがに本物を日本に持ってくることはできませんでしたが、そのレプリカと映像が紹介されていてスケールの大きさと緻密さとを実感するには十分でした。
他にも「ファウヌスの家」からは《イセエビとタコの戦い》《ネコとカモ》《ナイル川風景》《葉綱と悲劇の仮面》といったさまざまなモチーフのモザイク画が展示されていましたが、もちろんモザイク画だけではありません。
ブロンズ像はギリシャ神話のサテュロスと同視されたローマの牧神ファウヌス(この家の名前の由来)、大理石像はスフィンクスのテーブル脚。他にも数々の調度品(ブロンズ製が多い)や装飾品(金の輝きが眩い!)が展示されていました。
続いて前2世紀の家を核とし、その後噴火前まで長年にわたり拡張や改装を重ねて多彩な様式を同居させることになった「竪琴奏者の家」。家の名前の由来となったのは、ここから出土したブロンズ像《竪琴を弾くアポロ》です。
ペリステュリウム(列柱廊に囲まれた中庭)の噴水を飾る動物たちのブロンズ像も極めて写実的かつ躍動的ですが、ブロンズ製円形火鉢のような暖房器具が部屋に出されていたことは、ヴェスヴィオ山が噴火したときには既に寒い季節に差し掛かっていたことを示すと考えられているようです。
そして最後に「悲劇詩人の家」。他の二つに比べれば遥かに小ぶりとは言いながら、ファウケス(玄関廊下)の「猛犬注意」(CAVE CANEM)と書かれた犬のモザイクを見ながら奥に進むとアトリウム(中庭)があって、その周りの壁面はさまざまな神話画で飾られていました。
5 発掘のいま、むかし
ヴェスヴィオ山の噴火によって地中に閉じ込められた町は、ポンペイだけではありませんでした。
ヴェスヴィオ山の西の海岸にあったエルコラーノ(ヘルクラネウム)からはブロンズ像《ペプロスを着た女性(通称「踊り子」)》、北麓にあったソンマ・ヴェスヴィアーナ(ただしこの町が埋没したのは79年ではなく472年の噴火)からは大理石の《ヒョウを抱くバックス》。そして、この最後のコーナーで旧知の美少女との思わぬ再会が待っていました。
この《ペプロフォロス》は間違いなく以前見たことがある、と思って過去の記録を探したら、2002年からソンマ・ヴェスヴィアーナの発掘に携わった東京大学ソンマ・ヴェスヴィアーナ発掘調査団がその成果を示すために2005年に東京大学総合研究博物館で開催した「ディオニュソスとペプロフォロス」でお目にかかっており、実は先ほどの《ヒョウを抱くバックス》もそのときに《ディオニュソス》として見ていたことがわかりました。そのようなわけで、2000年近く昔に地中に埋まったポンペイの文物もさることながら、むしろこの17年ぶりの再会の方に感激しながら展示会場を後にしたのでした。