塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

三山

2022/02/04

セルリアンタワー能楽堂で渋谷能第三夜「三山みつやま」。一連の渋谷能のテーマは「雪月花」で、第一夜「氷室」の「雪」、第二夜「山姥」の「月」に対し、今日の「三山」は「花」にちなむもの……と思いきやそう単純ではなく、ツレの桜子は確かに花ですがシテの桂子は桂の木が月に生えているとされていることから月に結びつけられるものだそう。それはともかく、この曲は2015年に国立能楽堂で浅井文義師のシテで観て以来の二度目の鑑賞ですが、この日は観世流・片山九郎右衛門師のシテに喜多流・友枝雄人師がツレを勤める異流共演となっています。

1月18日にこの日のシテを勤める片山九郎右衛門師、ツレの友枝雄人師、そして小鼓の成田達志師による事前講座を聴いたので、まずそのときの説明のポイントをかいつまんで列挙しておきます。

  • 片山師曰く「三山」は狂女物というより「春の曲」「神代の話」。女同士のドロドロは内包しつつ、霊すだまの争いとして演じる。また友枝師は、国のまほろばと歌われた大和の豊かさを伝えたい、とのこと。
  • 宝生流と金剛流では現行曲、観世流では昭和60年に先代観世銕之亟師が復曲。成田師の見立てでは観世流の「三山」は重厚な印象。また片山師によれば〈サシ〉の切なさの表現など銕之亟師の性格や声質に合った曲になっていて、前場には静かな興奮が必要だという銕之亟師に若い頃の片山師は何度も「違うよ!」と怒られたそう。
  • 片山師によれば、臈長けた桂子も時の花である桜にはかなわない、しかし初めから勝負あったになってはいけないし、後場の狂乱をやり過ぎてはわわしい女になってしまってこれもダメ。能はともすれば男目線で描きがちだが、そうではない目線で桂子の人物像を作ってみたいとのこと。友枝師は、品位・知性の桂子と可愛らしさの(一方で「来年になればまた咲いてみせますよ」的な思いやりのなさも持つ)桜子というイメージをもっているとのこと。

  • 友枝師にとっては流儀(喜多流)にない曲だが、基本的には観世流の型付けに従いながら、シテに迷惑がかからない範囲で喜多流の足遣いなど用いつつ演じるとのこと。

その他、共演者の寸評宝生欣哉師は「煮汁を吸うじゃがいも」、野村万蔵師は飲んだときの酔い方が■■■、などもあって楽しかったのですがとてもここには書ききれません。また使用する予定の面(ポスターは友枝家のもの)として片山師が持参したのは前シテが寂しげな泣増(近江作?)、後シテがきりっと鼻筋通ったすごい美人の増髪(出目満重作?)、ツレはコケティッシュな印象の万媚(是閑作)。ただし当日は変わるかもしれないという説明があって、最後に後妻打ちの場面の実演で講座を締めくくっていました。

そして事前講座から半月を経てこの日、COVID-19の影響を懸念していましたが無事に開演に漕ぎ着けて、おなじみ金子直樹氏と石田ひかりさんが舞台上に登場しての解説から。ただし感染状況に配慮してお二人ともマスク姿で、節分の豆まきで鬼だけでなくオミクロンも退治されてほしいと小ネタを出してから以下のように説明しました。

  • 金子先生の言によれば、万葉集に題材をとった能は特に観世流では少なかったが、1952年に観世華雪師によって「求塚」が、そして1985年に観世静夫師と横道萬里雄氏によってこの「三山」が復曲され現行曲となったそう。今日の地謡の観世銕之丞師は復曲に際してツレを勤めており、この日のシテの片山九郎右衛門師も静夫氏に師事してきたという関係です。なお間狂言は復曲に際して創作されたもので、この日買い求めた観世流の謡本にも間狂言の詞章が細かく記されていました。
  • 「求塚」は男二人に女一人、一方「三山」は男一人に女二人にアレンジしてあって、そのあらすじは言ってしまえば男の二股が事件の発端。これに対して石田ひかりさんは「許せませんよね!」と怒り心頭。
  • それはともかくこの曲は、前場は聞きどころ、後場は見どころだそうで、ことに後場での後妻うわなり打ちは「鉄輪」や「葵上」にも通じるものだが、「三山」ではそこまでのおどろおどろしさはなく、美の世界へと昇華しているというのが金子先生の見立て。また最後に枝を捨て扇に持ち替えて確執が解けた様を示しますが、原曲ではワキ/良忍上人によって成仏させられたという作りであるのに対し、観世流の復曲版は万葉の世界に良忍が介入するのはいかがなものかと宗教色を薄めてシテとツレが自分たちで妄執から脱するかたちにしてあるそう。

三山

「三山」とは天香具山、畝傍山、耳成山の大和三山。万葉の頃、天香久山に住む膳公成(柏)が畝傍山の桜子と耳成山の桂子を愛したものの、やがてその愛情は桜子一人に向くようになり、これをはかなんだ桂子が入水。時は流れて平安時代の終わりに近い頃、良忍上人(1073-1132)が念仏布教にこの地を訪れたとき桂子の霊が現れて無念を訴え、桜子に対する後妻打ちの狂乱を見せるものの、遂には恨みを晴らし桜子共々消えていくという話です。

渋谷能としては異例ですが、上記の通り演者は中堅の手練れ。これに見合って囃子方・地謡とも錚々たる布陣です。六人で構成された地謡を眺めながら、前列中央の鵜澤光さんは小顔だな、真後ろの地頭の銕之丞師の頭と体積比で半分くらいじゃないだろうかなどと不謹慎なことを考えているうちに〔次第〕の囃子が始まりました。

角帽子・水衣・白大口のワキ/良忍上人(宝生欣哉師)が従僧二人を連れて登場、舞台上に三人が立っての〈次第〉法の心も三つの名の 大和路いざや尋ねんを銕之丞師率いる地謡陣の地取がなぞると、早くもそこは平安時代の空気に変わります。大原を出た一行が大和の国に到着したところで、まずは狂言座に控えていたアイ/所の者(野村万蔵師休演につき万之丞師)に三山の謂れを尋ねました。ここで示されたのは揚幕方向が北の耳成山、脇柱方向は南の天香山、目付柱方向が西の畝傍山。するとだいたいこの辺りにいることになるのかな?しかし観世流では揚幕方向が西だと思っていたのですが……。

アイの説明は三方に見えている三山の名前だけで、これを聞いていったん納得したワキが脇座へ戻ろうとしたとき、いつの間にか揚幕の前に出ていた前シテ/女(片山九郎右衛門師)がいかにあれなる御僧とワキの背中へ呼び掛けました。アフタートークでも言及されますが、この一言で今度は舞台上が万葉の昔へと引き込まれる感じ。シテの姿は紅金黒(濃茶?)の段替に白い藤花文様の唐織着流、面は儚げな風情を漂わせる泣増です。

シテは橋掛リを進みながら「妄執の由ある昔の物語」をお聞きなさいと語り、舞台に進んだところでワキとの問答となって、まずはアイの説明をなぞって三山を見回した後に香久山の膳公成が耳成山の桂子と畝傍山の桜子に二道をかけていたもののやがて男の心はかの桜子に靡き移りて桂子から足が遠のいた経緯が語られます。そして桂子思ふやうから始まる〈クセ〉は石田ひかりさんが語った通りまさに聞きどころ、緩急強弱を見事に使い分ける地謡と正中に下居しつつこれにシンクロして所作を示すシテとが一体となって桂子の無念を謡い上げるよう。自分は花のない桂なのだから春の盛りの桜子に心を移した男を恨むまいと一度は自分に言い聞かせてはみたものの、寝付けない夜を明かし(ここで身を起こして)畝傍山を眺めればその花やかな様子が羨ましくてならない、とシオリ。生きてよも、明日まで人の辛からじと絶望に沈む桂子と同化したシテは立って角から池を見下ろし身を投げて空しくなり果てた過去を地謡に語らせた後、自ら(ワキの前にいる桂子の霊)も池水の底に入りにけりと常座に沈んで中入となりました。

間語リは天智天皇の歌香具山は 畝傍ををしと 耳成と 相あらそひきを引いて三山の関係を説明し、さらにいにしえには木々にも魂があって桂と桜が柏を争ったとするもの。しかしワキから先ほどの桂子の霊の話を聞いて桂子・桜子が人の名であることに驚いたアイは桂子の霊を弔うようにとワキに勧めました。

待謡の最後に嵐烈しき景色かなと謡われると共に笛の高い一吹き、そして大小が激しく応酬する独特の〔一声〕[1]。そして追い立てられるように登場したツレ/桜子(友枝雄人師)は桜文様を散らした明るい朱色の唐織の右肩を脱ぎ桜の枝をその肩に担げ、髪一筋を垂らし可愛らしい万媚面をしかめているわけはないのですがあたかもそのように見えました一ノ松に進むと因果の花に憑き(月)祟るこの嵐をどうにかして下さいと泣き声のように高い声で訴えつつさらに舞台へと進みました。ところがこの言葉が終わるか終わらぬかのうちに後を追って勢いよく飛び出してきたのが桂子。同じく右肩を脱いだ唐織は濃茶色の地の色の上に格子と菊花らしきものを配し、事前講座で拝見したすごい美人の増髪面。肩の桂の枝や二筋垂れた髪も相俟って強い意思を感じさせるその姿から桜子に向けられたあら羨ましの桜子や……花のよそ目も妬ましやという言葉には前場とは別人のような口調の強さがこめられています。

そしてシテ・ツレ・地謡の三つ巴の応酬のうちに桂子が「桜とて知ってしまえば青葉、桂と同じではないか」と毒づいて桂の枝で桜子を指すと桜子は妖気に操られたような狂乱の態となってカケリ、さらに桜子の後ろに立って足拍子を轟かせた桂子は常座で回ると桜子の横に進んで枝でその旨を思い切り打ちました。これにたまらず下居してシオル桜子の肩に桂子が手を掛けたところで、さすがに見かねたワキが痛はしのおん有様やな、その執心を振り捨てて成仏の縁となり給へと呼び掛けましたが、聞く耳を持たない桂子は常座に下がって前のめりの姿勢であれご覧ぜよ桜子の、よそ目に余る花心とさらに桜子を非難します。しかしここで桜子も「春になれば桜の花が咲くのは当然でしょう」と反撃!ものを言わないはずの花がなぜ言の葉を聞かせるのだと怒られても動じず、花は散っても春が巡って来ればまた咲きますよと開き直りました。

また花の咲くぞや、また花の咲くぞやと繰り返して憤激した桂子は桂の枝を手に日本舞踊を連想させる所作を見せると耳成山の山風を吹き寄せて雪と散れ桜子、雲となれ桜子と後妻打ち。舞台上で行き交った二人がそれぞれ手にした枝を音を立てて打ち合わせる姿は下手な立回りよりよほど迫力がありますが、遂に桜子が枝を打ち落とされて立ったままシオリの姿になったところで、舞台上には静寂が広がり桂子は正気を取り戻した様子。

桂子も桂の枝を捨てたところで因果の報ひはこれまでなり。落ち着きを取り戻した地謡を聞きながら二人は扇を手に取り、正先に立って胸の前に扇を開くツレの右背後でシテも扇を掲げると、和解の空気が漂います。飛鳥の里に朝日が差してくる情景が謡われるうちにシテとツレは連れ立って橋掛リを下がっていき、その姿が揚幕の向こうに消えていくのを常座で見送ったワキが留拍子を踏んで終曲となりました。

2015年に観た「三山」とは同じ観世流なのにずいぶん味わいが違いましたが、その違いのポイントは冒頭の解説にもあったように宗教色の扱いにあったようです。具体的には、前回のシテは中入前にワキに向かって下居しわらはをも名帳に入れて賜はり候へと頼んでワキと共に南無阿弥陀仏の十念を唱えてから消えていきました[2]が、今回はこれはなし。終曲の部分でもこのことを踏まえて橋掛リを下がるシテは三ノ松でワキの方を振り返ってから後ずさりに幕の中へ消えていましたが、今回はこれもなし[3]。全体を通して、念仏の功徳がもたらす和解と成仏という構図は彼方へと後退し、人と花木とが渾然とした神代のおおらかさのようなものが通底していたように感じました。

終演後のアフタートークは、この日小鼓を勤めた成田達志師がまず登場して「すごい三山だった」と語るところから始まりました。やがて片山九郎右衛門師と友枝雄人師も装束を改めて合流し舞台を振り返ったのですが、成田師が「冒頭の出の呼掛から鷲掴みにされる感じだった」と言えば友枝師も「シテに引っ張られた」と述べたのに対し、片山師は強過ぎたかもしれない、強さと優しさの両方が必要だと言っていた先代観世銕之亟師が今日も背後にいて見ていたのではないか()と述べていました。その後に装束や面の説明があったのですが、使用された面は事前講座で説明された通りだったようで、後シテの増髪[4]は憑かれた感じではなく美しさを重視し桜子に負けないようにした点が工夫だった模様。観ている方(私)からすると、派手に言い合い打ち合う二人の女性のどちらに対しても感情移入でき、しかも舞台上に神代の明日香を見ることができたのですから、片山師の意図は達せられていたと思います。

なお、異流共演ということに関しては、自分の知識では舞台上のあれこれを見分けることはできませんでしたが、友枝師によれば「他人の庭にはそうそう入ってはいけないと思った」とのこと。たぶん舞台上には流儀の違いに基づく緊張感が随所に漂っていたのだと思いますが、そう言わずこれからもこうした試みを重ねてほしいし、そのことの効果を見分けられる目を自分も持ちたいものです。

配役

観世流 三山 前シテ/女 片山九郎右衛門
後シテ/桂子
ツレ/桜子 友枝雄人
ワキ/良忍上人 宝生欣哉
ワキツレ/従僧 則久英志
ワキツレ/従僧 大日方寛
アイ/所の者 野村万之丞(野村万蔵代演)
一噌隆之
小鼓 成田達志
大鼓 亀井広忠
主後見 味方玄
地頭 観世銕之丞

あらすじ

三山

→〔こちら

お土産は今回もまたコクヨの縦長スケッチブック二冊と鉛筆シャープ、そして「本和菓衆」のお菓子です。ありがとうございます。

お菓子は右上から時計回りに次の通り。

  1. 乃し梅本舗佐藤屋(山形)の「三山」。供養する上人を表す打菓子と花の盛りの桜子、恨めしくそれを追う桂子の様を表した煎餅とのこと。形と色と味とを楽しめます。
  2. 彩雲堂(島根)の特製生菓子「大和三山」。桜・桂・柏を表した三色のねりきりを茶巾絞りにして、中餡には苦味の後に爽やかさが残る柚子を用いたそう。やはり練り切りは好きやわー。
  3. 田中屋せんべい総本家(岐阜)の「草木国土悉皆成仏」。葉の塩漬けと月樹で味付けしたお煎餅で人の営みに関係なく山や草木がただそこにあることの素晴らしさを表現したものだそうです。これをいただきながら、舞台の余韻に浸ることができました。

脚注

  1. ^開演前の解説の中で金子先生はこの囃子を「頭越カシラゴシ一声」と説明していました。
  2. ^観世流の謡本の最後のところに「クセニテ中入セヌ節」としてこの演出の場合の詞章が付記されています。
  3. ^詞章の最後は飛鳥の里の朝日照り添ふ飛鳥川、夢と流れて覚めにけりや、夢物語となりにけりと叙景的ですが、謡本の解説によれば復曲前の原詞では御法を受くるなり、跡弔ひて賜びたまへとワキへ語り掛けて終曲としていたそう。しかしこれでは中世的過ぎるという考えから復曲に際し詞章を改め、シテとツレとはワキに顔を見せず夢のように消えて行く形としたとのこと。
  4. ^「『ますかみ』は十寸髪と書いたり、増やす髪と書く」と説明したところで片山師は禿頭の成田師に「ごめんね」と一言。