佐渡の能舞台巡り

2022/10/31

10月29日に山仲間エリーと共に佐渡島に渡り、30日に旅の主目的である金北山の登山を終えた翌日は、帰りのフェリーが出航する16時05分までの半日を使っての島内観光。幸いエリーと私とは寺社詣での趣味が一致したので、佐渡の神社や寺、それも能舞台を持つ寺社と世阿弥にゆかりのある寺をいくつか巡ることにしました。

佐渡が世阿弥晩年の配流地であることは有名ですが、佐渡で能楽が興隆したのは江戸時代に入ってから。天領となった佐渡に代官として赴任した大久保長安が能楽師を連れてきたことが端緒となり、神事能から徐々に大衆に広まっていったと言われています。このため島内には今でも30以上の能舞台が残されているのですが、限られた時間の中ではもちろん全部訪れることはできないので、観光案内所でもらっていた『文化財探訪マップ』に掲載されている能舞台の中から行程的に無理のないものをピックアップし、エリーが運転するレンタカーで見て回ることにしました。

椎崎諏訪神社

まずは前夜投宿したホテルの近くにある椎崎諏訪神社から。ここは宿から歩いて数分の場所にあるので、午前6時に朝の散歩がてら訪ねました。ちなみに上述の『文化財探訪マップ』には「佐渡諏訪神社」が二つ掲載されており、一つは加茂湖東岸の原黒(椎崎温泉郷)、もう一つは加茂湖西岸の潟端にあって、今回訪れたのは前者です。

美しい丹塗りの鳥居をくぐって参道をまっすぐ進むとこじんまりと整った拝殿に突き当たります。この神社は当地の地頭・久知本間家の守護神として永和2年(1376年)に建立されたもので、信州の諏訪大社の分神です。

明治35年に建てられた比較的新しい能舞台は拝殿の手前右側にあり、切妻作りで瓦葺き。境内に桜の木が多いことから以前は春に花見能が催され、現在も春から秋にかけて薪能が上演されており、島内では最も演能回数の多い能舞台だそうです。

本殿の裏手右側に進むと加茂湖を見下ろす展望台があり、ちょうど大佐渡山地が朝焼け色に染まる様子を眺めることができました。加茂湖の湖面は鏡のように穏やかで、朝仕事に出る一艘のボートが作る波紋が幾何学模様を描くさまも美しいものでした。

鎮守の森の広がりの向こうに上る朝日を浴びながら境内をひとわたり見て回り、まずは最初の能舞台訪問を終えてホテルに帰還。幸先の良い一日の始まりでした。

加茂神社

ホテルでの朝食を終えてのんびりスタート。能舞台巡りの前に初日のタクシーの運転手さんが勧めてくれた紅葉山公園を訪れようと小佐渡山地越えの道を目指したところ、その手前で道の右側に大きな神社が現れたので、予定外ではありましたが車を止めました。

鳥居手前の解説によれば、この神社は別雷命を祭神として永暦元年(1160年)に創立し、永徳元年(1381年)に当地に遷座したもの。鳥居の扁額には「正一位加茂大神宮」と書かれ、広大な境内地に境内神社を含む巨大な社殿が連なるさまは壮麗無比ですが、それにしては人の姿もなくどこかしら荒廃した雰囲気が漂います。

「国仲四所の御能場」の一つとされる当社(他の三つは中原の若一王子神社、竹田の大膳神社、潟上の牛尾神社)の能舞台は拝殿の左にあり、他の社殿と同じく瓦葺きで華やかさはないもののそれなりに手入れがされているように見えました。ただ、最初に訪れた椎崎諏訪神社の能舞台は橋掛リの前の一ノ松〜三ノ松がきちんと揃えられていたのに対しこちらは思いつきのように小灌木が植わっている状態なのでこれで上演できるのだろうかと不思議になりましたが、調べてみたところ今でも8月に加茂神社夜能が上演されているようです。

鞘堂で覆われているように見える本殿の裏手には横向きに金立神社(祭神は玉依姫命)の頭でっかちな社殿があり、ここで例外的に華麗な彫刻を堪能してから当社を辞しました。

紅葉山公園

旅の初日のタクシー運転手さんから「紅葉を見るならここ」と勧められたのが、島の南岸に近い山の中腹にある紅葉山公園でした。先ほどまでよい天気に恵まれていたのにここに着くと雨が降り出して、島の天気は変わりやすいということを実感するハメになりましたが、その程度のことでは山屋はひるみません。

しかし、公園入口に近い鏡池周辺こそきれいなグラデーションが見られたものの、全体としてはまだ早過ぎたらしく葉の緑が目立ちます。ここは気持ちの良いミニハイキングができたことをよしとして、次なる目標に向かいました。

長谷寺

エリーのたっての希望で向かったのは、大同2年(807年)弘法大師による開基と伝わる真言宗の古刹・長谷寺ちょうこくじです。

ここには能舞台はありませんが、世阿弥とのゆかりはあります。すなわち、寺の解説によれば次の通りです。

室町時代の有名な能作者であり能役者でもあった観世元清(世阿弥)は、永享六年(一四三四年)七十二歳の時、佐渡に配流された。上陸した場所は大田の浦(多田港)で、当日は大田に一泊。翌日笠取峠を通って配流先の新保に向かった。この途中長谷寺に立ち寄って長谷観音を参詣したが、その折のことを世阿弥の書いた古謡曲集「全(ママ)島書」の中に、「山路を下れば長谷と申して観音の霊地にわたらせ給ふ、故郷にも聞こえし名佛にてわたらせ給へばねんごろに拝礼して…」と書き残している。このあと、世阿弥は無事国仲平野に出て、配流先の新保万福寺に辿りつくのである。

しかし、エリーがこの寺を訪問先に選んだ理由は別のところにありました。

それは、本堂の前を通って納屋の先に出たところにあるこちらのウサギ観音(親子)です。もともと除草のために修行を終えたウサギを境内に放っており、そのウサギをお守り下さいという趣旨でウサギ像の胴の部分に十一面観音を彫っているのですが、実はその目には赤いLEDが埋め込まれており、夜になると(今は)ウクライナカラーにライトアップされた上にウサギの目が怪しく光る仕掛けになっています。また、かたわらの台に置かれた五色の紐に触れるとウサギパワーを戴けるという二重三重のアイデアで、発案した山主は「シンガポールのマーライオンに匹敵する佐渡の名所に」と意気込んでおられるとか。

ウサギ観音の左には小さな石窟があり、そこに掲げられた『お願い』によればその中からたまに不思議な声が聞こえる事があります。気のせいですので驚かないで下さいとのこと。さらに反対の右側にはコロナ撲滅祈願犬コロの像と世阿弥の小像もありましたが、もはや説明不能です。

気を取り直して寺院中央の石段に戻ると、右手には由緒ありげな鐘堂から斜面を登る廻廊が奈良の長谷寺を連想させ、突き当たりの観音堂(元禄4年(1691年)建築)へ通じています。

観音堂の左奥の一段高いところには貞享4年(1687年)建立というすばらしく立派な五智堂(多宝塔)が建ち、その奥には奥の院に通じる石段が続いています。先ほどのウサギ観音のアヴァンギャルドとは対極にあるこれら堂宇群が山の斜面に寄り添うようにして穏やかに点在しているさまは、やはり古刹ならではです。

奥の院から石段を下って再び観音堂まで降りてくると、その右前に並ぶ三本杉の大きさに気付きました。その太さを視覚的に示すためにエリーに「釣った魚の横に置いたタバコ」の役割を果たしてもらいましたが、樹齢は1000年以上とする説もあって、これが正しければこの地を訪れた世阿弥もこれらの杉を見上げた可能性があることになります。

大膳神社

続いて小佐渡山地沿いを南西に進んで訪れたのは、明治以降に建立された能舞台が多い佐渡にあって弘化3年(1846年)再建という大膳神社の能舞台です。

ナビの示すところに従って大膳神社にアプローチするとあまり神社らしくない雰囲気の場所に連れて行かれ、そこに車を駐めて路地のような細い道を奥に進みます。

するとすぐにきれいな芝の広場が現れて、そこが大膳神社の境内でした。能舞台はこの境内で神社の拝殿と存在感を二分するように建っており、茅葺の屋根も趣深いものです。

竹の勾欄を巡らせた地謡座は、正面寄りの半分が客人桟敷としても用いられるそう。鏡板には根本を笹に覆わせた松の左肩に日輪が描かれているのが珍しく、また鏡ノ間の代わりに溜りと呼ばれるスペースが設けられ、複式の橋掛リの奥側の通路を通じて舞台裏の楽屋とつながっています。

帰宅してからこの能舞台での上演時の映像を見たところ、演能時には手前の橋掛リと奥の通路の間に垂れ幕が下げられ、溜りから橋掛リに出るところには通常と同じく五色の揚幕がしつらえられていました。

しばらく興奮気味になって能舞台の周りを見て回っていましたが、ふと気付けばここは神社です。神様にもご挨拶をせねばと見回すと赤い鳥居あり。しかしそちらに近づいてみると鳥居の外にいる狛犬がこちらに背を向けていますから、やはり神社の正しい入口はこちらで、今いる芝生の広場が神社の境内であるということを再認識しました。

当社の縁起としては、元亨4年(1324年)の正中の変で佐渡に流されその8年後にこの地で処刑された日野資朝の子・阿新丸が佐渡に渡って親の刑死の無念を晴らした際、逃亡を助けた大膳坊は処刑されたものの、その怨霊を鎮めるために日野資朝と共にここに合祀されたとしています。この敵討ちのエピソードは謡曲「檀風」の主題になっていますが、この曲は未見。いつか観てみたいものです。

妙宣寺

大膳神社から至近の地にある妙宣寺にも立ち寄ってみました。

この寺は、承久の乱(1221年)に敗れて佐渡に配流された順徳上皇に供奉した北面の武士遠藤為盛が上皇崩御後に剃髪し阿佛房と称して廬を結んで暮らしていたところ、文永8年(1271年)に佐渡に流されてきた日蓮上人に帰依し自宅を寺として開基したとされ、現在地に伽藍を構えるようになったのは天正17年(1589年)のこと。当地にはもともと佐渡を支配した本間氏の居城・雑太城さわだじょうが存在しましたが、上杉景勝の進攻によって本間氏が排除されると廃城とされ、直江兼続によって妙宣寺に与えられたのだそうです。

この寺には佐渡で唯一の五重塔〈重文〉が存在します。文政8年(1825年)に相川の宮大工親子二代の手によって建立されたこの塔は高さ24m。すらりと美しい姿をしています。

どことなくモダンな印象を受ける山門の右隣には、上述の日野資朝の墓がありました。解説が彫られた板がすり減ってしまっていて文字が読めないのですが、雑太城に幽閉されていた日野資朝は近くを流れる竹田川の河原で斬首され、高野山に葬られたその遺骨の一部を当寺の僧が貰い受けてここに埋めて墓としたとされているようです。

境内の左手には少し離れて番神堂、さらに宝蔵と祖師堂が本堂へと橋でつながっており、その本堂の中では日野資朝の命日である毎年7月3日に能舞台が設えられ、慰霊のために能が奉納されるそうです。

正法寺

世阿弥ゆかりの寺ということでは、正法寺しょうぼうじを外すことができません。

妙宣寺から車で20分ほど離れた位置にあるこの正法寺は、最初の配流先である万福寺から世阿弥が移されて配所とされたところ。世阿弥が雨乞いのための奉納能で着用したとされる神事面べしみが残されているそうですが、直接見ることはできませんでした。

境内には世阿彌太夫旧跡記念碑と世阿弥元清供養塔が立っていますが、世阿弥自身は後に帰洛を許されたと伝わっており、この佐渡で亡くなったわけではなさそうです。

こじんまりした境内には見るべきものを示す説明の類はほぼ皆無で、時間が押してきている(というより空腹に負けそうになっている)こともあり、ひとわたり見渡したらさっさと退去したのですが、実はこの寺には世阿弥が腰掛けたという世阿弥太夫御腰掛石があったのだそうです。事前のリサーチ不足で見どころを逃すということをこれまで何度も繰り返してきましたが、またやってしまって残念至極。

遅めのランチは、この旅行の初日のタクシーと2日目のタクシーの2人の運転手さんが口を揃えて勧めてくれた新穂の「長三郎」でとりました。

ありがたいことに地域クーポン券をエリーと私のそれぞれに4,000円分ずつもらえており、これで「おまかせすし」と松茸のお吸い物をたった300円でいただくことができました。しかし、この握り寿司は濃厚な味わいのネタがボリューミーに迫ってくる感じで、一貫ごとに口中に至福が広がり、これならたとえクーポン券がなくても構わないと思えるほどでした。

長江熱串彦神社

「長三郎」を出たのは14時で、レンタカーの返却予定時刻は15時半。残り時間を考えると予定している二つの能舞台を見て回るのは難しくないと思っていましたが、この長江熱串彦神社へのアプローチには苦労しました。スマホのGoogle Mapsをナビとして車を走らせたのですが、Googleあるあるでとんでもなく狭隘な農道に引き込まれそうになり、運転にさほど慣れていないエリーは四苦八苦。試行錯誤を繰り返しながらここと思われる地点の周辺をさんざん走り回った末に、幹線道路に面したとある会社の駐車場に一言ことわって車を駐めさせてもらって、たぶんあそこだろうと目星をつけたこんもりとした木立の一角を徒歩で目指すことになりました。

我々が近づいた道はくねくねと曲がったりたびたび折れ曲がったりしながらどうにかその「こんもり」に向かっていましたが、どうやらこれは裏手から入る道。それでもとにかく到着できて何よりでした。

境内に入るとまず目に飛び込んできたのが、この入母屋造で藁葺屋根の能舞台です。特徴的なのは、脇正面を神社の社殿に向けていること。神事能は神様に見ていただくための能なので正面が社殿に向くはずですが、このような配置にしているのは立地上の制約があったからなのか、何か意図的な理由があったためなのか。

この能舞台は安永年間(1764-1780年)頃の創建と伝わり、昭和30年代まで定能場として使用され、2012年にも改修記念として神楽が奉納されたそうです。地謡座は仮設のため付属していない、という点はかつての大膳神社の能舞台にも共通する点ですが、古い時代の能舞台には地謡座が付いていなかった(さらに言えば橋掛リは舞台の真後ろから楽屋に伸びていた)そうですから、現代の能舞台の構造へと変遷する途中のどこかの時点の様式が伝えられているのかもしれません。

帰りは神社の表側から出て車を駐めた場所まで戻りましたが、こちら側も農道がつながっているだけで、普通車で神社の前へ乗り付けることは不可能でした。だとしたら、観光客がこの神社を訪れるときにはどうすればいいのだろう?

それはともかく、Google Mapsの意地悪のおかげで時間を浪費したために神社の縁起などは確認するすべもなく、ここでは新潟観光協会のWebサイト「にいがた観光ナビ」の記述を引用してお茶を濁すことにします。

長江川の南側の広い水田地帯に熱串彦神社の社叢があります。水田に建つ狛犬が印象的。平安時代前期の創立で「延喜式」にも記載がある佐渡国「式内社」九社の一つ。移転を経て、現存の社は正徳4年(1714年)の建立と伝わります。加茂氏の祖神を主祭神とし、金北山に鎮座していた金山彦命も配祀されています。

牛尾神社

エリーはここで時間切れとしてこのままレンタカーショップを目指したい様子でしたが、私のたっての希望を聞き入れてくれて最後の目的地である牛尾神社を目指しました。

実はここでも予習不足を露呈しました。牛尾神社の規模がここまでの三つの神社とさほど変わらなければ見て回る時間は大してかからないだろうからタイムリミットには十分に間に合うはずという計算だったのですが、豈計らんや牛尾神社の規模はここまでの神社とは比べ物にならない大きさで、参道のスロープを駆け登って山の中腹に達すると折り返して両部鳥居をくぐり、さらにまっすぐ参道が続くという立派さ。我々は「これはやばい!」と叫びながら早足で参道を突進しました。

左には手水舎、右には樹齢千年の安産杉(その向こうには池も)、そして目指す能舞台は境内の左手にありました。

社務所を兼ねる鏡ノ間から長い橋掛リでつながった舞台は明治34年(1901年)に再建されたもの。毎年6月12日に例祭宵宮薪能が開催されるそうです。

舞台正面に開口部があり、覗き込むと鏡板正面には松、右手には竹が鮮やかな色合いで描かれているのが見えました。

地謡座は常設され、また切戸口の外には縁側があって橋掛リ裏側の通路に続いています。

舞台の瓦葺き屋根に注目すると、正面が入母屋造、背面が寄棟造で横から見た形がまるで違うことがわかります。そもそも、この神社は延暦11年(792年)に出雲大社より勧請創建された古社で、須佐之男命・大国主命・少彦名命の三神を祀っています。貴重な文化財も数多く蔵し、その中には室町時代末期の翁面(白色尉・黒色尉)も含まれます。

拝殿の彫刻もこの神社の見どころで、極めて洗練された彫刻が拝殿の随所に見られますが、今日見る社殿は明治32年(1899年)に焼失した後、同34年に再建されたものです。しかし、これらの彫刻をじっくり眺めたり御朱印をいただいたりする時間は、もはや残されてはいませんでした。

駆け足での牛尾神社参拝を終え、同時にこの旅のアクティビティもすべて終了です。

幸いレンタカーの返却時間には間に合い、その後フェリーの発着場に送ってもらっていよいよ佐渡を離れることになりました。

ここでこの日訪問した場所をGoogle Map上にプロットするとこんな感じ(赤いマーカー)です。時間が許せばまだまだ行きたいところはあったのですが、この限られた時間の中でこれだけ回れたのは上出来と考えるべき。がんばって運転し続けてくれたエリーには感謝あるのみです。

かくしてフェリーに乗り込んだ我々は、賑やかなカモメたちに見送られながら定刻通りに佐渡を離れました。

さようなら佐渡島、また来る日まで。