子盗人 / 項羽

2023/02/15

国立能楽堂(千駄ヶ谷)の定例公演で、狂言「子盗人」と能「項羽」。いずれも初見です。

実は2014年にもこの「項羽」を観たいと思い、その予習を兼ねて京劇『覇王別姫』まで観に行ったのに、肝心の能「項羽」の方が売切れでチケットを手に入れられなかったというおそまつな事態を経験しています。よって、今回の「項羽」は9年越しの機会ということになります。

なお今月は月間特集「近代絵画と能」と銘打ち、安田靫彦《項羽》、川合玉堂《鵜飼》、梶田半古《菊慈童》がプログラム上で紹介されていました。

子盗人

まず小袖にくるんだ人形を抱いた乳母(大藏彌太郎師)が登場し、座敷に寝かせて(と人形を地謡前あたりに置いて)自分は勝手へ行って茶をたべてまいりましょうと退場します。このように、本当はずっと子守をしていなければならないはずの乳母が寝つきの良いのをいいことに主人の子を放置したことが、最後のドタバタの伏線となります。

ついで現れた博奕打(大藏彌右衛門師)が言うところを要約すると、若い衆と寄り合って博奕の勝負をしたもののさんざんに負けて女どもの身の回りのものまでつぎ込んでしまい、これでは家に戻れない。手慰みの果ては盗みをするより他にないというが、教義殿という道具好きの大有徳人が家の中に道具を取り散らかしているというので、自分もこれを一つ二つ無断で借りて(盗んで)博奕の元手にして負けを取り返そう。こういうことは宵からが良いというが(と空を見上げて)時分も良いのでそろりそろりと参ろう。

かくして屋敷に着いてみると用心の厳しそうな構えですが、裏の塀に隙があることを知っている博奕打ちが回り込んでみるとやはりそこは葦簀で塞いだだけ。ここからノコギリでずかずかと縄を切り離しメリメリと葦簀をはがし(その音に一度は驚いて自分の耳を塞ぎ)、匍匐前進で屋敷内に忍び込んだものの屋内の灯りに驚いて一ノ松まで退いてドキドキという流れは「盆山」と同じです。庭(舞台)から屋敷内(地謡座)を通って座敷(再び舞台)に入るとそこには……という舞台空間の見立ての面白さも同様で、座敷内を見回した博奕打ちはまず角に置かれた茶の湯の道具に気付きます。釜は定めて芦屋(室町時代に珍重された筑前芦屋産)であろう、茶碗は高麗であろうと賛嘆するところは博奕打ちらしくないはずですが、さすが彌右衛門師がじっくり拝見する姿を見るとその目利きぶりに違和感がありません。

ついで正面には武具・馬具、そしてふと地謡前を見るとけっこうな小袖があって、女どもの機嫌をとらなければならないのでとこれをとるとそこにいる幼子に驚きます。さては乳母がサボりたいがためにここに置いたのだろうと正しく推量した博奕打ちでしたが、幼子がぱっちりと目を開けて手を伸ばしてきたのを見て喜び「おうおう、抱きましょう抱きましょう」とこれを抱き上げると、人形はちゃんと黒地にきれいな刺繍の入った着付を着けています。有徳人の子だけに愛想のよいこの幼子に夢中になった博奕打ちは「ちょちちょち」だの「かぶりかぶり」だのとあやしては良い子じゃと大笑い。その声に幼子が機嫌を損ねてしまったので、声を裏返して「ころころころころ」、さらに「泣くまいぞや」と小謡を謡って聞かせると機嫌が直った様子ですが、ここで彌右衛門師が「見目の悪い子でさえ親にとっては可愛いもの、まして教義殿はそなたのような良い子を持ってうれしかろう」としみじみと語る姿には本物の親の慈愛が感じられて、温かい空気が見所に流れます(ちなみに彌右衛門師は教義師の伯父)。

さらに幼子の器量をほめそやした博奕打ちが「さらに芸はないか?」と思案し「にぎにぎ」などとあやしては大笑いしてまたしても機嫌を損ね、今度は「こちょこちょ」とくすぐってから右肩に乗せて謡い舞いしていると、そこへ戻ってきた乳母が橋掛リから舞台の様子を覗き込んで博奕打ちに気付き驚きます。乳母の声を聞いて左手に太刀を持ち登場した亭主(大藏教義師)は、大音声で出会え出会えと呼ばわり右肩を脱ぎ、舞台に進んで正中で博奕打ちに当たってこれを倒すと太刀を振りかぶりました。圧倒された博奕打ちは弱りきった声色で「お座敷を見物に参りました」と言い訳をするものの通じず、乳母の代わりにお子の守りをしていましたと言っても許されません。どうあっても切るというならと幼子を取り上げた博奕打ちは開き直って「まずこの子から切らせられい」。先ほどまであれほど可愛がっていた幼子を盾にするとは!と驚いていたら亭主も亭主で「その子もろとも切ってしまう」と滅茶苦茶です。先ほどからハラハラしながら二人のやりとりを見ていた乳母がこれには驚いてき舞台に飛び込み、亭主にしがみついて博奕打ちに早く逃げろと促すと、ぐるりと回り込んで常座あたりまで来た博奕打ちは幼子をそこに置いて「許させられい」と逃げていき、亭主がこれを「やるまいぞ」と追い込みます。

二人が幕の向こうへ消えて静かになったところで乳母は幼子を抱き上げ、危ない目にあったが命を拾ったことで寿命は長かろう、五百八十年七回りまでも(580+60x7=1,000年。末長くいつまでも)生き延びるだろうと長命を祝福して「うれしやのうれしやの」と下がっていきました。

項羽

夏目漱石の小説のタイトルとしても有名な『虞美人草』(ヒナゲシ)の花期は春から初夏ですが、この花を作中に登場させる「項羽」の設定上の季節は秋、場所は項羽が死を迎えた烏江の畔、曲柄は切能で作者不詳。言うまでもなく、日本人に馴染みの深い楚漢戦争末期の垓下の戦いを背景として項羽とその愛妾・虞姫の最期を描く、いわば滅びの美学の曲です。

〔次第〕の囃子と共に登場したワキ/草刈男(福王知登師)とワキツレ二人は、いずれも草刈男=労働者なので水衣の肩を上げ、下は白大口。右肩に旗のごとくに草を付けた棒を担いでいますが、ワキのものだけは草と共に紅白の花が付けられています。舞台上で向き合った三人は眺め暮らして花にまた、宿かる草を尋ねんと謡うと、自分たちは烏江の野辺の草刈であると(庶民であるにしては重々しすぎる声音で)名乗って仕事を終え家路に着くところであると語ります。「花」「秋暮れ」「虫の音」といったキーワードを用いて秋の情景が示された後、便船を待つために三人が脇座に着座したところで〔一声〕が奏されると、そこに登場したシテ/老人(浅見重好師)もまた水衣の肩を上げた尉出立で面は朝倉尉。左手には棹を持っており、常座で蒼苔道滑らかにして僧寺に帰り、紅葉声乾いて牡鹿鳴くなる夕まぐれと唐詩「宿雲際寺」(温庭筠)を引用する〈一セイ〉を観世銕之丞師を連想させる深みのある声で謡った後、シテが野分を船の追風にてと謡えばワキもなうなうその船に乗らうずるにて候と呼び掛けましたから、シテは舟に乗って川面をワキたちの前に近づいてきたことがわかります。

舟に乗せてほしい、船賃がなければ乗せられない、では川上の瀬に回ろう、いや道理は申しつお乗りなさいといったもどかしいやりとりがあって、ワキのみが常座に立つシテの前に進み正面を向いて着座し、舟の中に収まった形となりました。地謡により謡われる詞章は「月」や「天の川」などと既に夜の情景を示しており、その中をこの船頭が棹を使う舟は水音なしに進みます。やがて対岸に着いたところでシテに促されたワキが船べりをよいしょと乗り越えて降りると、その背に向かってシテはさて船賃は候。先ほど船賃なしで乗せると約束したではないか!とワキが憤慨するとシテはワキが持っている草花を所望し、これにあら優しやと感じ入ったワキが花を差し出すとシテは近づいてひときわ赤い花を抜き取りました。

ここからはワキとシテとの問答となって、まずこの花は項羽の后・虞氏の墓から生じたので美人草と呼ぶことがシテにより明かされ、さらに項羽高祖の戦いの模様を物語ってほしいというワキの求めにシテが応じることになります。シテが正中に着座したところで花は後見の手によって下げられ、シテが扇を手にして語りの形に入ると共に照明がやや強くなってその姿が輝き出すとさても項羽高祖の戦ひ、七十余度に及ぶといへども以下の物語となりました。始めは連戦連勝だった項羽も味方の裏切りによって窮地に追い込まれ、四面楚歌の中で虞氏は嘆き、愛馬・望雲騅も動こうとしない。項羽はしづしづと馬を下りて呂馬童(項羽の同郷だが漢軍に属していた人物)に自分の首をとって名を揚げよと(上体と声に力をこめて)呼ばわったものの、(ここから謡を地謡に委ねて)呂馬童が恐れて近づかないのでこれ見よ後の世に語り伝へよと剣に見立てた扇を前に差し伸べ、これを見込んでから小さく振り下ろして我と我が首を掻き落とした最期の姿を見せた上で、自分が項羽の幽霊であることを明かし跡弔ひて賜び給へとワキに訴えかける気配を見せてから、無音のうちに橋掛リを下がっていきました。

シテの中入後に、アイ/渡守(善竹忠重師)は狂言座を立ち、後見座に下げられていた棹を取り上げてから舞台に進むとワキの姿を認めて、今日の当番である自分が渡していないのになぜ川を渡っているのかと不審がってから、ワキの問いに答えて項羽の最期の様子を語り始めましたが、四面楚歌となったくだりを語ったところで「しかれども……」と絶句してしまいました。シテの絶句はこれまで何度か見たことがありますが、後見のプロンプトがあるからリカバリー可能であるのに対し、間語リは後見がつかないから責任重大だなとはこれまでも思っていたのですが、実際に間語リの絶句に遭遇したのは初めてです。しかし、これは一体どうなるんだ?とハラハラしていたら「しかれども……まず我らの承りたるはかくの如くにて候」と切り上げてしまいました。おそらく四面楚歌の後には前場でシテが語ったように虞姫の自害があり、その後には項羽の奮戦と自害へと続く長大なストーリーがあって、もしかするとその中に有名な「垓下の歌」も織り込まれていたかもしれません。それらをすっ飛ばしてのこの切り上げ方は、たぶんその場のアドリブではなく絶句した場合の対処法として確立したものだっただろうと思いますが、これらが一気に省かれるとシテの装束替えが間に合うのか?という別の心配をしてしまいました。

ともあれワキは何事もなかったかのように台詞をつなぎ、間語リを終えたアイは棹を後見座に戻してから狂言座経由で下ります。ここで後見の手によって一畳台が正先近くに持ち込まれてから(僧ではないものの)ワキとワキツレによる弔いの謡があって〔出端〕の囃子。そして登場したツレ/虞氏(坂井音晴師)は、プログラムの解説では天冠・舞衣・腰巻が一般的だそうですが、この日の出立は冠なく唐織着流の上に側次で面は小面で大小前へ。ツレの後から登場した後シテ/項羽は唐冠に黒頭、袷法被・半切で面は筋怪士で、穂の付け根に双葉のような装飾を付けた鉾を持って一ノ松へ進みました。

昔は月卿雲客うち囲み、今は樵歌野田の月と敗残の境遇を朗々と謡ったシテは、しかし続いてツレの美しさを愛でて地謡と共に紫の雲間横切る出で立ちは天つ少女の調めかな。演出によってはここでツレの舞が入るそうですが、この日の演出ではそのまま地謡が四面を鬨の声に囲まれてツレの心に苦患が蘇るさまを謡い、ここからは虞氏の死と項羽の最後の戦いが再現されていきます。

シテが鉾を振るい三ノ松と一ノ松の間を行き来して闘争の緊迫感を高めるうちに執心に囚われたツレは、虞氏は思ひに、堪へかねてと一畳台(高楼)に登ってシオリを見せてから、一畳台の縁と舞台最前面の階きざはしとの間の狭いスペースへすっと下りて膝を突くことで身を投げたことを示し、そのまま脇座へ下りました。これを見たシテによる〔舞働〕は、まず一畳台へ飛び乗り、鉾を台の前に差し下ろして必死に虞氏の遺骸を探す形。しかし見つけられなかったシテは脇座方向に飛び降りると大小前へ移動して小さく回り、再び一畳台に飛び乗りました。これら一連の激しい動作は、面を掛けて視界が限定されている中では極めて危険なものであるはずで、そうした動きの際どさ自体がもはやどうにもならないところへ追い込まれた項羽と虞氏の運命を痛切に示します。

以下、終曲まで息を継ぐこともできない激しい型の連続となりました。一畳台の上で足拍子を踏み鳴らしたシテは左右に振るった鉾を剣も矛も皆投げ捨ててと背後に投げ、虞氏を失い自らも滅びていく悲しさを身を焚くばかりに口惜しかりしと激越な感情で思い出しつつがっくりと台上に安座。しかし次の瞬間にはあはれ苦しき瞋恚の焔と自らも心を滾らせ、剣に見立てた扇を手に立ち上がって幕の方角を見やり、高祖方に寝返った味方が寄せ来る様子に怒りを露わにしていで物見せんとその姿勢から横跳びに中央へ飛び降ります。素早く体を捌き扇を使い、さらに脇正面で膝を突いて、敵を投げ捨て引き伏せるさまを示したシテは、一気呵成に三ノ松まで移動して飛ビ返リを見せ、最後に烏江の野辺の、土中の塵とぞなりにけると袖を巻いて幕の前で留拍子を踏みました。

配役

狂言大蔵流 子盗人 シテ/博奕打 大藏彌右衛門
アド/乳母 大藏彌太郎
アド/亭主 大藏教義
観世流 項羽 前シテ/老人 浅見重好
後シテ/項羽
ツレ/虞氏 坂井音晴
ワキ/草刈男 福王知登
ワキツレ/草刈男 矢野昌平
ワキツレ/草刈男 村瀬慧
アイ/渡守 善竹忠重
左鴻泰弘
小鼓 田邊恭資
大鼓 守家由訓
太鼓 桜井均
主後見 武田尚浩
地頭 藤波重彦

あらすじ

子盗人

博奕で散財した男は、有徳人の家へ忍び込んで金品を算段しようと企てる。苦労しながらも座敷へ侵入して茶道具や衣類などを物色していると、灯火の中に小袖に包まれた赤子を見つけ、その愛らしさにひかれてあやしているうちに乳母に見つけられる。亭主が駆けつけ刀を振り上げるが、盗人は乳母が亭主を引き止めている間に逃げていく。

項羽

烏江の里の草刈り男が家路に帰る途中、一艘の舟に乗ると、老船頭は船賃として一本の花を所望する。この花は虞美人草といい、昔この地で自害した項羽の后・虞氏の墓から咲き出たものだった。船頭は、一度は中国全土を制覇しながらも最後には敵に攻められて果てた項羽の故事を語ると、自分こそ項羽の霊だと明かし、姿を消してしまう。男が弔っていると項羽と虞氏の亡霊が現れ、滅びゆく運命を悟って虞氏が身を投げた後に項羽も勇猛に戦いながら遂に自害して果てた最期の有様を再現して見せる。