東関東の社寺巡り〔大洗磯前神社・息栖神社〕

今回の旅の主たる目的は、2017年に訪ね歩いた鹿島神宮・香取神宮と共に東国三社とされる息栖神社を訪ねることです。前回は盛りだくさん過ぎて旅の目的がぼやけたので、今回は行き先を絞ってプランニングした結果、まずは大洗磯前神社に出向いて神磯鳥居を拝見してから、宿に向かう途中で大洗水族館に立ち寄り、夜はあんこう鍋(結局それか!)。翌日は息栖神社を訪問し、その後に残された時間で小江戸佐原の町並み見物としました。

2023/02/17

旅の始まりは上野から特急ひたちに乗って水戸へ行き、そこから大洗鹿島線に乗って大洗駅までの列車の旅です。

大洗といえば「ガールズ&パンツァー」。大洗鹿島線の車両に描かれた彼女たちに別れを告げ、大洗駅前から循環バスの「海遊号」に乗って大洗磯前神社に向かいます。

大洗磯前神社

大己貴命と少彦名命を御祭神とする大洗磯前神社の御由緒は、当社のウェブサイトによれば次の通りです。

文徳天皇の斉衡3年(856年)12月29日、現在の神磯に御祭神の大己貴命・少彦名命が御降臨になり、「我は大奈母知、少比古奈命なり。昔此の国を造りおへて、去りて東海に往きけり。今民を済すくわんが為、亦帰またかえり来たれり」と仰ったことから、当社が創建されたと伝わっています。

循環バスの順路に即してみると一の鳥居より手前になる「大洗磯前神社下」でバスを降り、そこから見上げた巨大な石鳥居が二の鳥居。実は、今回の旅は翌日訪ねる予定の息栖神社の方のウェイトが大きいので、この神社についての予習が足りず、これほど立派な鳥居があるとは思っていませんでした。

二の鳥居をくぐると境内に続く長い石段がありますが、その前に右手にある摂末社に挨拶してみました。手前左側は清良神社、奥側は神池で、神池の中では緋鯉が悠然と泳いでいました。

石段を登って随神門の前に着くと、ちょうど神職の方々が出動するところ。何だろう?と思って後についていってみるとラッパの演奏と共に海軍旗の掲揚が始まりました。後からわかったことですが、日本海軍の軽巡洋艦・那珂は当社を艦内神社として祀っていたものの、第二次世界大戦中の昭和19年2月17日にトラック島で空襲を受けて沈没し、その後昭和58年にここに忠魂碑が建立されて毎年この日に慰霊祭が行われているのだそうです。

随神門から中に入ると正面には拝殿があり、小広い境内には絵馬や御籤(千羽鶴のよう)と共に梅の花が見事に咲いていました。また、左側から拝殿の後ろに回り込んでみると優美なカーブを描く茅葺き屋根が特徴的な本殿が眺められましたが、これら随神門・本殿・拝殿は水戸藩二代藩主徳川光圀の命で造営を始め、三代綱條の享保15年(1730年)に竣工したものです。

御朱印帳を社務所に預けて書いてもらっている間に、先ほどの忠魂碑の前を通り抜けて境内の南西にある摂末社群へと足を伸ばしてみました。

茶釜稲荷神社と與利幾神社がこの一角の中心をなす摂末社ですが、與利幾神社の裏手のちょっと高いところにある小祠の前の石碑に「石尊宮」と彫られており、おや?と思って後で調べてみたらなんとこれは大山阿夫利神社の分社だということでした。なぜこんなところに?

さて、境内に戻って御朱印帳を回収したら石段を下って海へ向かいます。

この神社の名声を高くしているのはなんといっても、こちらの神磯鳥居です。初日の出のときには大勢の観光客で賑わうスポットだそうですが、ちょうどこのときは満潮に当たったこともあって、この真っ昼間の眺めもダイナミックで見応えがあります。それにしてもこの寄せては返す荒々しい波を見ると、海というのは怖いものだなと感じてしまいました。これまでもそうでしたが、これからも生涯マリンスポーツとは縁がないだろうと思わざるを得ません。

アクアワールド茨城県大洗水族館とあんこう鍋

この日のメインイベントは以上で終了ですが、大洗神磯神社からひたちなか市にあるこの日の宿までは少々歩きごたえがあり、その途中にはアクアワールド茨城県大洗水族館が存在します。これは立ち寄らないわけにはいきません。

2002年3月にオープンしたこの水族館は、博物館的な展示手法を採用した「日本でもトップクラスの大型水族館」(Wikipedia)だそう。

いきなり大水槽の中のエイやサメやウミガメや魚群の舞い踊りに度肝を抜かれ、せっせと掃除をしている職員さんに足蹴にされるウツボに同情。

こちらは華やかなクラゲの舞。

今夜のメインディッシュ。

シンボルマークでもあるサメの飼育には特に力を入れているほか、マンボウも悠々と泳がせています。それにしてもどちらもでかい。

オーシャンシアターでは賢いアシカとイルカのショーが行われていました。観客は皆さん濡れるのがいやで前から3列に座ることを避けていましたが、勇気のある少年2人が中央前から2列目に陣取ってショーを盛り上げてくれていました。えらいぞ、君たち。

アクアワールドを後にしたらさらに北へと歩きます。那珂川を越えてひたすらてくてく。やっと着いた宿は今は亡き常吉さんが泊まった記録をブログに書いていたところで、食通の常吉さんがあんこう鍋を褒めていたので期待してここを選んだのでした。

確かにあんこう鍋はなかなか美味い!その他の料理も量で勝負していないところにむしろ好感が持てますが、それ以上に「地のお酒は何かありますか?」と聞いて出してもらった「月の井」が、不思議なことにチョコレートのようなアロマがあって引き込まれました。

2023/02/18

せっかくのオーシャンビューの部屋だったのに日の出を見逃したのは不覚……。

それでもなんとか水平線から少し上のお日様を写真に撮り、お米が何杯でもおかわりしたくなる朝ごはんをいただいて、さて大洗駅へ向かおうかとタクシー会社に電話したところ、車は出払っていて配車できないというまさかの回答。タクシーなんていつでもどこでもつかまえられるでしょうというのは東京都民の奢りであって、こういうのは前々から予約をしておかなくてはならないのでした。

仕方なく那珂湊駅からひたちなか海浜鉄道に乗って勝田経由水戸へ向かうと、列車の中の吊り革はいらばき特産の干し芋仕様。そして列車の接続の関係で1時間以上を過ごすことになった水戸駅では「究極のメロンパン」を販売していました。

息栖神社

水戸駅から再び大洗鹿島線に乗って鹿島神宮駅まで移動した時点で既に正午を回っていましたが、今日も行き先は限られているのでさほど焦ってはいません。とりあえず何もない駅前にかろうじて見つけたお店でバゲットの昼食をとり、タクシーをつかまえて20分余りでこの旅の最大の目的である息栖神社に向かいました。

境内に入る前にまず向かったのは常陸利根川につながる水路に面した一の鳥居ですが、ポイントは鳥居そのものではなくその両脇にある井戸です。

川に向かって左が女甕、右が男甕の忍潮井は汽水の中に真水を湧出させていて、日本三霊泉の一つに数えられています。伝説によれば、もともと現在地から数キロ下流(日川の地)にあった息栖神社が大同2年(809年)にこの地に移転したときに取り残された二つの甕が、自力で川を遡って一の鳥居の下に据えついたとされています。

息栖神社の主祭神は久那戸神、相殿神は天鳥船命と住吉三神(上筒男神、中筒男神、底筒男神)。社伝によれば応神天皇の御代に創建されたとされており、古くから香取神宮・鹿島神宮と並んで「東国三社」と称されました。江戸時代には、関東以北の人はお伊勢参りの後に「下三宮参り」と称して東国三社を巡拝する慣習があったそうです。

二の鳥居の先、弘化4年(1847年)造営の丹塗りの神門をくぐると細長い境内に入り、左には社務所、右には境内社が控えめな佇まいで置かれています。

正面奥に社殿がありますが、かつては壮麗だったとされるこの社殿は昭和35年に火災で消失し、現在の社殿は昭和38年再建の鉄筋コンクリート造りです。残念。

ここには松尾芭蕉も訪れたことがあり、境内には「この里は 気吹戸主の 風寒し」の句碑が力石と共に置かれているほか、ゆかりの歌碑や1円玉の裏面に描かれている招霊おがたまの木があり、神門の外には稲荷神社や花も盛りの梅の木があってそれなりに賑やかですが、鹿島神宮や香取神宮の壮麗さと比較するとはるかに素朴で、地理的に鹿島神宮の影響が大きかった当社が鹿島神宮の摂社とみなされていたというのも頷けます。

香取神宮津宮鳥居

息栖神社参拝の間、駐車場で待ってくれていたタクシーに乗って佐原に向かいましたが、その途中で立ち寄ったのは2017年の香取神宮参拝の際に見逃していた津宮鳥居です。

かつて水運を利用して人々が行き来していた頃に香取神宮への表参道口とされていたというここは、香取神宮の祭神・経津主大神が東国にやってきた(東国経営のために派遣された)ときに上陸したところ。

江戸時代末期に著された『利根川図志』にはこの鳥居が水中に建てられているという記述がありますが、現在の鳥居は堤防の川側の平坦地にぽつんと建てられており、堤防の陸側には与謝野晶子の歌碑「かきつばた香取の神の津の宮の 宿屋に上る板の仮橋」と常夜灯が寂しく残されています。そしてその向こうにはこんもりした丘がありますが、香取神宮はあの丘を越えてさらに向こうに遠く離れたところにあります。

ここであらためて東国三社の位置関係を見てみると、上の図のようになります。2017年に学習したように、鹿島神宮と香取神宮とは香取海の出口をはさんだ位置にあって大和朝廷の東国開拓の拠点として機能していたと考えられていますが、息栖神社もその名から推測されるように香取海の沖洲にあってこの地域の水運に一定の役割を果たしたようです。

佐原の歴史的町並み

この日最後の訪問地は、小江戸と呼ばれる佐原の歴史的町並み訪問です。鹿島神宮駅で乗ったタクシーでここまで運んでもらって料金は1万円ちょっとでしたが、運転手さんにとって我々は思わぬ上客だったらしく、端数をおまけしてくれました。

利根川の水運を利して江戸へ送る物資の生産・中継地として栄えた佐原(現在は香取市の一部)は、利根川に通じる小野川沿いを重要伝統的建造物群保存地区として、そこに残されている趣のある建物を保護しています。そこには実際に人が暮らしているので建替えなども発生しますが、外観には古材を使用し格子造りとするなどの規制があるそう。ただしそうした建物に対しては自治体から補助が出るほか、家の内部や奥の方には規制が及ばないそうです。

とりあえず手っ取り早く町並みを見てみようと乗ったのは町なみコースの舟めぐりで、伊能忠敬旧宅がある樋橋から小野川を下流に下ってJRの鉄橋をくぐった先で折り返すものです。上記の保護方針などは船頭さんからの説明によるものですが、保存地区の中では電線が完全に地中化されていることにも感心しました。また、川の護岸の中には江戸時代から残っているものも含まれていますが、一方で東日本大震災の傷跡が残されている箇所もあって、こうしたものを維持し続けることの難しさを実感しました。

舟めぐりを終えたら手近にある伊能忠敬旧宅に入ってみました。伊能忠敬が天文学者・地理学者として活躍するのは隠居して江戸に出た50歳以降のことで、それまでは17歳で婿入りした酒造家・伊能家の当主として、また後には佐原村の名主として活躍する有能な実業家でした。それにしては旧宅はこじんまりとしている印象がありますが、奢侈に走らず貧民救済に積極的に取り組んだ伊能忠敬らしいのかもしれません。

伊能忠敬旧宅の近くにはこれまた趣のある割烹がありましたが、この日最後に立ち寄ったのはブリュワリー伊能忠次郎商店で、INOU BLCK、INOU WHITE、NEW ENGLAND IPA、樋橋エールの4種類のビール飲み比べセットをいただきました。小江戸と言えばビール?それとも伊能家の家業が酒造業であることを受け継いだもの?ともあれ、2月中旬とは思えない暖かい日差しの下でおいしくビールをいただいて旅の締めくくりとし、ここから徒歩20分ほどの佐原駅から高速バスで帰京しました。