塾長の鑑賞記録

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私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

土門拳の古寺巡礼

2023/04/09

恵比寿の東京都写真美術館で「土門拳の古寺巡礼」展。これは写真家・土門拳(1909-1990)の代表作『古寺巡礼』全5集のうち第一集の刊行(1963年)60年を記念しての展覧会という位置付けです。

実を言うと自分の中には土門拳についての予備知識はほとんどなく、漠然と「室生寺を愛した写真家」程度の認識しか持っていなかったのですが、それも作品を見てのことと言うよりかつて室生寺を訪れたときに「土門拳が泊まった宿」というのがあったことに基づくものでした。その予備知識の希薄さを補ってくれたのは美術館地階の展示スペース前で上映されていた10分あまりの映像解説で、これによって土門拳には報道写真家としての起点やポートレート写真家としての逸話、社会問題に切り込んだ『ヒロシマ』(1958年)『筑豊のこどもたち』(1960年)といった写真集、文楽の撮影に打ち込んだ経歴などがあることを初めて知りました。

土門拳の仏像と寺院建築との関わりは1939年、それまで高く評価されてきた飛鳥仏(金銅仏が中心)や天平仏(乾漆像や塑像が主流)に対して平安初期に現れた一木造の弘仁仏を広く紹介したいと考えた美術評論家・水澤澄夫が土門拳を室生寺に案内したことに始まります。このときの取材は時節の問題もあり結実しなかったのですが、戦後になってからも上述の社会的リアリズムの作風と並行して古寺の撮影を続け、その成果は写真集『室生寺』(1954年)の刊行につながります。ところが1959年に脳出血を発症し右半身が不自由になった土門拳は35ミリカメラを駆使した自由なスナップ撮影を諦め、大型カメラを三脚に載せ左手でシャッターを切る撮影に切り替えました。この撮影スタイルに合致するモチーフだった寺院と仏像への取材を重ねた末に生み出されたのが、1963年刊行の第一集から1975年刊行の第五集まで12年間にわたった土門拳のライフワーク『古寺巡礼』です。

……といった土門拳その人の事績を知ることができたのもこの展覧会を見たことの成果でしたが、もちろん主眼はその作品の数々を大判でじかに眺めることにあります。会場の展示は《飛鳥寺金堂釈迦如来坐像面相詳細》(1964年)に始まり、法隆寺、中宮寺、東大寺、薬師寺、神護寺、向源寺、室生寺、平等院、中尊寺、高山寺、西芳寺などを経て《妙喜庵待庵茶席》(1974年)で終わっていて、若干の前後はあるものの時代順、かつ『古寺巡礼』の第一集から第五集までの構成をおおまかになぞっていました。

第四集に載せられている土門拳の「ぼくの好きなもの」という文章の中には、建築では三仏寺投入堂、薬師寺三重塔、室生寺五重塔、高山寺石水院、仏像では神護寺本堂薬師如来(木像)、薬師寺東院堂聖観音(金銅仏)、臼杵磨崖仏群(石像)がお気に入りとされており、もちろんこれらもすべて含まれていますが、特徴的な点はクローズアップの多用です。薬師寺の三重塔であれば六層に見える屋根の部分を切り取り、飛鳥寺の釈迦如来はオリジナルとされるお顔の上半分のみ、唐招提寺金堂の千手観音立像も左脇の手の積み重なりに迫るといった具合で、見たいものの見たいところだけに集中する姿勢が鮮明でした。フライヤーの表面を飾る《室生寺弥勒堂釈迦如来坐像左半面相》(1966年)も、土門拳がこの像くらい利口で頭のいい顔をした、そして天下第一の美男の仏像はなかったとほめちぎったその美徳を真横からのクローズアップで見事にとらえていますし、中宮寺の観音菩薩半跏像や薬師寺東院堂の聖観音菩薩立像、広隆寺弥勒菩薩半跏像なども同様の迫り方で究極の美を堪能することができます。もっとも、土門拳が一番好きだという神護寺本堂薬師如来立像は「優美」というものではなく、体躯も顔の造作もボリューミーな弘仁仏であることをむしろ強調するように撮っており、土門拳曰く真に男らしい男の像という点において日本唯一だそうです。

一方、私自身が強い印象を受けた写真はこれらとは少し方向性が違っていて、たとえば《向源寺十一面観音像頭部》(1963年)や《東大寺戒壇院広目天立像(四天王のうち)面相》(1967年)がそれでした。

前者の像を土門拳は「首の生る木」と呼んだそうですが、その特徴は通常頭上に置かれる十一面のうち二面が両肩(大笑面の左右)に他の面よりもやや大きく顔を覗かせるもので、写真の中では慈悲に満ちた観音様の右肩から牙上出面が厳しい表情でこちらを睨んでいます。牙上出面は本来、衆生を励まして仏道を勧める讃嘆の表情だそうですが、吊り上がった眉やまっすぐな鼻梁、両端に牙を見せつつ真一文字に引き締められた口唇が作る表情からは、柔和な正面のお顔の影にある酷薄さがむしろこの像の本当の姿ではないかとさえ思えてきました。

後者は2011年に実際に見ており、そのときにも「穏やかさと厳しさを共にたたえた表情」に強い印象を受けたものですが、土門拳の写真でこの憤怒形を見ると実物以上に印象が強まります。太い眉の盛り上がり、半眼に近い鋭い目、張り出した鼻翼、そして何より立派な顔の大きさそのものが、須弥山の西方を守護する広目天の力強さを示していますが、永遠に戦い続けることを運命付けられた者の哀しみにも似た諦観を漂わせてもいるような気がします。

このように理想化された仏像の美とは異なり、これらの写真からは怒りや恐れといった人間のリアルでネガティブな心の動きに対する作り手の底知れぬほどに深い洞察が見てとれ、土門拳の写真を通じて千年以上前に生きた仏師への敬意を深くするという不思議な体験ができたのでした。

冒頭の話に戻ると土門拳の室生寺への愛着は終生のもので、初めて室生寺を訪れたときの住職・荒木良仙老師が語った「全山白皚々たる雪の室生寺が第一等」という言葉に惹かれた土門拳は雪の室生寺に出会うことを切望したものの、ついにその写真を撮ることができたのは40年後の1978年。奈良県内の病院に1カ月近く滞在してやっとつかんだチャンスだったそうです。そのときに撮影し写真集『女人高野室生寺』に収載された写真はこの展覧会では展示されていませんでしたが、土門拳の生地である山形県酒田市にある土門拳記念館のウェブサイトで見ると、車椅子目線で見上げた鎧坂と屋根を白くした金堂の写真にはこれが土門拳の写真人生の集大成であることを示すかのような静謐な空気が漂っていました。室生寺にはこれまで何度か訪れたことがありますが雪の季節に訪ねたことはなく、いつか自分もこの写真と同じ景色の中に身を置きたいものだと思わせられました。

なお、念願の雪の室生寺を撮った翌年に土門拳は脳血栓により倒れ、そのまま11年間意識を回復することなく1990年に死去したそうです。享年80。

2012年から2019年にかけて折々にクライミングを指導していただいていた山岳ガイドの保科雅則さんは写真を仕事にしていた時期があり、文楽を撮っていたこともあるという話をご本人から直接聞いたことがあります。文楽の写真家というのはそうそういるものではないように思いますが、保科さんが土門拳の業績を念頭に置いていたかどうか、次に会う機会があったらお聞きしてみたいものです。