塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

四寺回廊〔立石寺・瑞巌寺・毛越寺・中尊寺〕

例年この時期は社寺巡りの旅に出ていますが、今年は数年前から気になっていた東北の四寺回廊を巡ることにしました。四寺回廊とは、9世紀に円仁(第3代天台座主・慈覚大師)が開山したとされ、17世紀には松尾芭蕉が訪れた東北地方の四つの寺(山形の立石寺、松島の瑞巌寺、平泉の毛越寺と中尊寺)を廻る巡礼コースで、2003年に設定されたものです。これらのうち平泉には訪れたことがありますが今から9年前、松島はまったくの初めて、立石寺(山寺)は訪れたことがあるように思うものの記憶の彼方という状態で、いずれも新鮮な気持ちでお参りをすることができました。

四寺回廊の巡礼には決まった順番はなく、どこからスタートしてどういう順番で回ってもOK。そこで列車の時間や宿の空き具合を勘案した結果、初日はまず立石寺にお参りし、その日のうちに松島海岸に移動して宿泊。二日目は松島観光と瑞巌寺参拝の後に平泉に移動。そして三日目に毛越寺と中尊寺にお参りして帰京するプランとしました。

2023/11/25

立石寺

旅の始まりは東京駅から約3時間。早朝の東北新幹線で仙台に向かい、JR仙山線に乗り換えて宮城県から山形県へと山越えをして山寺駅で下車しました。

山寺駅のホームから、ほぼ真北の目の前に凹凸に富んだ岩壁が山の斜面に点在している不思議な光景が広がり、宝珠山立石寺(通称「山寺」)はその複雑な地形の中に伽藍を展開させて高みへと向かっています。寺伝によれば立石寺は貞観2年(860年)に清和天皇の勅命で円仁が開山したとされていますが、この時点で円仁は高齢(60歳台)かつ高位(天台座主)であったので、実際の創建は円仁の後継者(安慧)や弟子(心能・実玄)によるものであろうとする考え方があるそうです。

駅を出て立谷川に掛かる橋を渡り、右手に向かって最初に訪れるのは根本中堂〈重文〉。何度かの兵火を経ながら再建され、現在の建物は正平年間(14世紀)の再建と慶長13年(1608年)の大修理の後の姿です。また不滅の法灯もこちらにありますが、大永元年(1521年)に立石寺が焼討ちにあった際に失われたために比叡山延暦寺から再度分燈を受け、その後に延暦寺が織田信長の焼討ちにあった後の再建寺には逆に立石寺から延暦寺へと分燈されたそうです。まずはこちらで手を合わせ、そして四寺回廊専用の御朱印帳を買い求めて最初の御朱印をいただきました。

芭蕉句碑や日吉神社を横目に見ながら境内を山に向かって左へと進み、微妙に距離感のある芭蕉・曾良像を眺めてから山門をくぐると、ここから怒濤の階段が始まります。

全部で1,015段あるとされる階段の途中で見上げると、駅のホームからも見えていた垂直の岩壁が広がって威圧的。その足元には芭蕉の閑さや岩にしみ入る蝉の声の句にちなみその弟子たちが短冊を埋めた「せみ塚」があります。

紅葉が美しい仁王門に到達すると一息つけますが、奥之院まではまだまだ何段もの階段を登らなければなりません。

やっと到着した奥之院(右奥)。正しい名前は如法堂で、その左の大佛殿には金色の丈六仏(阿弥陀如来)が安置されています。ここまで石段を一段一段登り続けるごとに煩悩が消えているはずですが、果たして……。

奥之院で踵を返し、三重小塔〈重文〉に立ち寄ってから登ってきた谷筋に対して右斜面に付けられた道を辿って五大堂を目指しました。

五大堂からの眺めは見事で、眼下には開山堂と納経堂の屋根が見下ろせ、また谷の対岸には小さい釈迦堂が建っているのも見えて、立石寺の伽藍がいかに際どい配置になっているかがよくわかります。ただ、残念だったのは開山堂周辺が修理中らしくシートを掛けられていたことと、五大堂の中に無数の千社札と落書きがあったことです。千社札の方はこれを貼ることを良しとする時代もあったのでまだしもですが、落書きの方は正当化のしようがありません。せっかく石段を登って煩悩を消しておきながらここで自己顕示欲という煩悩の虜になった落書きの主たちの姿を想像しつつ、元来た道を下りました。

麓に下りたところで昼時となり、目に付いた食堂で芋煮セットをいただいていると窓の外は思いがけずも雪模様。不安定な天候に東北地方の厳しい自然を実感しながら山寺駅に戻り、この日の宿をとっている松島海岸を目指しました。

松島・雄島

JR仙石線の松島海岸駅に着いたのは15時すぎで、宿にチェックインするには少し早い時刻。四寺回廊巡礼という目的からすればメインの訪問先は瑞巌寺になりますが、日本三景の一つとされる松島を観光しない手はありません(ちなみに日本三景の残る二つのうち厳島には訪れたことがありますが、天橋立は未訪問です)。そこで駅から手近の雄島を訪ねてみることにしました。殷富門院大輔見せばやな雄島のあまの袖だにも 濡れにぞ濡れし色は変わらず(『千載和歌集』)でおなじみのこの島は、やや古びた案内板の解説に従えば、松島の松島たる由縁とさえ言える最重要ポイントであるようです。

殷富門院大輔の歌の本歌である源重之松島や雄島の磯にあさりせし あまの袖こそかくは濡れしか(『後拾遺和歌集』)が9世紀の作であることからもわかるように、歌枕としての松島は早くから名を知られていました。さらに11世紀中頃から末法思想が広まると共に松島の景観は極楽浄土そのものと認識されて雄島に宗教者を呼び寄せ、中でも長治元年(1104年)に伯耆国からやってきた見仏上人がこの島に妙覚庵を建てて住まいし、12年間法華経を唱え続けて鬼神を使役できるまでになったことが朝廷に伝わると鳥羽天皇より松苗木を贈られたということです。

渡月橋を渡って雄島に渡ると道は右と左に分かれ、まず右に進んですぐのところにある真珠稲荷に立ち寄ってから道を外してダイレクトに東岸の広場に出てしまい、そのまま北に進んで「妙覚庵跡」の標柱が立つ広場に出ました。しかしこれは誤りで、正しくは享保17年(1732年)に見仏上人供養塔上に建てられた念仏道場である見仏堂の跡地です。

さらに進んで島の北端から見る松島の景観はやはり見事。穏やかに暮れはじめている空の色と相俟って、極楽浄土の平穏を感じます。

南へ戻って先ほどの「東岸の広場」に戻ってみると岩壁にたくさんの岩窟があり、ここには松吟庵・薬師堂が並んで建っていたそうです。これらの建物は仙台藩と瑞巌寺とが共同して順次開創していったもので、上記の見仏堂と共に古絵葉書に往時の写真が残されていますが、いずれも大正12年の火事で消失し、唯一再建された松吟庵も昭和58年に再び火事で失われました。

島の中央に建つのは坐禅堂(不把住軒)。寛永14年(1637年)頃に建立され、瑞巌寺99世・雲居希膺禅師が坐禅の時を過ごしたとされる御堂で、現在の建物は一部に古材を利用して近現代に再建されたものです。

島の南端には妙覚庵に住み22年間ひたすら法華経を唱え続けて「見仏上人の再来」と讃えられた頼賢の徳を後世に伝えるために弟子たちが建てた頼賢碑(徳治2年(1307年))を収める覆堂と、瑞巌寺100世・洞水東初禅師によって建てられた骨塔が建っています。骨塔は見仏上人と結縁するために火葬骨の一部を納めるものですが、そうした納骨は12世紀後半からすでに行われており、13世紀の終わり頃になると同じ意図に基づき島内には数多くの板碑も立てられるようになりました。それらは身分の高い者から始まったものの徐々に庶民が小型・簡素な板碑を建てるようになり、また故人の供養(追善供養)だけでなく生前に自分自身の供養(逆修供養)をした板碑もあるそうです。

現在島内にある板碑は70基ほどで、そのうち最古の板碑は弘安8年(1285年)のものでしたが、かつては今とは比較にならないほど多くの板碑が建っていたと考えられています。一方、島内には『おくのほそ道』以後に建てられた句碑もあり、そこには曾良の松島や鶴に身を借れほととぎすもありましたが、芭蕉の訪れは雄島の性格を霊場から観光地へと変えていったようです。

最後に島の西側の岩窟に囲まれた広場を通りトンネルを抜けて渡月橋に戻りましたが、ここにもかつては何かの堂宇が建っていたのかも?なお、見仏上人が住んだ庵の場所は明確にはわかっておらず、現在の松吟庵跡にあったと記す記録もあるものの、島北側の平坦地だった可能性もあるそうです。

かくして予想外に充実した時間を過ごすことができた雄島を出て少し離れたところで振り返り、渡月橋と雄島北半を眺めてその風情を堪能してから、この日の宿に向かいました。

2023/11/26

早朝、夜明けの松島の眺めを求めて日の出前に宿を出て、松島海岸駅から徒歩20分ほどの西行戻しの松公園にある展望台に向かいました。ここは西行が諸国行脚のおり、松の大木の下で出会った童子と禅問答をして敗れ松島行きをあきらめたという言い伝えを持つ地で、春は桜の名所でもある場所です。

水平線の上には雲が広がり、海から昇る御来光を拝むことはできませんでしたが、それでも雲の中から太陽が顔を出すと松島の海と島々とがオレンジ色に染まり、これもまた極楽浄土の趣き。はるか昔には丘陵地帯だったものが地盤沈下により海に沈み、その高いところが海面上に顔を出して260余りの島々が散らばるこの複雑な景観を作っているそうです。しばらくその厳かな景観に見惚れてから、公園内をしばらく散策した後にいったん宿に戻りました。

松島湾内クルーズ

朝食をとり、宿をチェックアウトしてこの日最初のアクティビティは松島湾内クルーズです。あらかじめネット予約してあった9時発の船のチケットを駅前のチケット売り場で発券し、そこから徒歩数分の観光桟橋に向かいました。

始発の9時発の船は第三仁王丸という名前の2階建てのクルーズ船で、乗船だけなら900円ですが、眺めのよい2階席に上がるためには追加で600円を支払う必要があります。ここでケチってもつまらないので迷うことなく船内で追加支払いを行って2階席に上がりましたが、たぶんこれは正解だっただろうと思います。

これが船から見られる景観のダイジェスト。居心地のよい2階席で温かいコーヒーを飲みながら船内アナウンスと共に島々を眺めていてもいいのですが、船尾のデッキに出るとより海上の島々がより身近に感じられていい感じ。50分ほどのクルーズでしたが、乗船代金1,500円は決して高くありませんでした。

福浦島・五大堂

船を降りたら海側から名所旧蹟を回って瑞巌寺へ向かいます。まずは県立自然公園にも指定されている福浦島から。

昨日の雄島に渡る渡月橋と同じく丹塗りの福浦橋を渡って福浦島に入り、歩きやすい遊歩道を歩くとすぐに現れるのが弁天堂。これはもともと伊達政宗が本土にあった若草神社と弁財天を合祀した「磯崎弁天」を昭和10年代に移設したもの。さらに遡るとこの島には、鎌倉時代に北条時頼の命によって瑞巌寺が天台宗から禅宗に転換した際に天台衆徒が籠ったところという伝承があるそうです。

さらに奥へ歩き、四阿で休憩しながら紅葉の向こうに広がる島々の眺めを堪能した後、引き続き島の奥へと進むと木製デッキの展望台があって違う角度の海の眺めが見られます。

先ほどの松島湾内クルーズでも見た千貫島と仁王島。千貫島は小さな岩塔のてっぺんに1本だけ松が立っている可愛い島で、名前の由来はこの島を気に入った伊達政宗が「あの島を余の館に運ぶ物あらば銭千貫を遣わす」と言ったことに由来するのだそう。しかし島が今でもそこにあるということは、銭千貫を獲得できた者はいなかったようです。一方の仁王島は松島湾の入り口にあって湾内を守るそのごつごつした姿を山門の金剛力士(仁王)になぞらえられた言われていますが、首のところの侵食が進んだため一部補修を受けているそうです。

島の北側に突き出している天神崎とかやの崎の二つの岬に挟まれた湾内の多目的広場になぜか展示されている折り紙のキングギドラたち(どれも一枚紙で折られているというのがすごい)を眺めたら福浦島観光は終わり、福浦橋を渡って本土に戻りました。

次の訪問先は五大堂ですが、これまた島の上にあって丹塗りの橋を三つ渡ります。この橋は「透かし橋」と言って、本来は橋桁の部分が櫛の歯のように横に渡された材木となっておりその隙間から海を見下ろすことができる作りになっているのですが、現在は老朽化に伴う修復工事のために全面的に板で覆われています。なお松島の丹塗りの橋は、雄島の渡月橋が縁切り橋、福浦橋が出会い橋、そして透かし橋が縁結び橋で、この順番に渡ると良縁に恵まれるという俗説があるということをこの旅行を終えてから知りましたが、図らずも正しい順に橋を渡ったことになります。

五大堂は小さな島にぽつりと建つ御堂ですが、言い伝えによれば大同2年(807年)に坂上田村麻呂が蝦夷征討の際に建立した毘沙門堂が前身で、これを慶長9年(1604年)に伊達政宗が再建したものという歴史を持っているから侮れません。アクセスの良さもあって観光客の列が五大堂の周りを時計回りに回っていましたが、それでも祈りを捧げる人の列ができていたことには感心しました。

瑞巌寺

いよいよ松島訪問の主眼である瑞巌寺参詣です。斎太郎節の松島のサーヨー瑞巌寺ほどの寺もないとエー(松島の瑞巌寺ほど素晴らしい寺はない、といった意味?)で名の通ったこの寺は、リーフレットに記された寺伝によれば天長5年(828年)に淳和天皇の勅願寺として円仁が開山した延福寺が前身で、上記の通り北条時頼の時代に臨済宗円福寺となり、戦国時代には衰微したものの伊達政宗が慶長年間に復興させた際に「松島青龍山瑞巌円福禅寺」(略して「瑞巌寺」)と改称して伊達家の菩提寺とされ今日に至ります。現在見る本堂〈国宝〉や庫裡〈国宝〉も、この伊達政宗による再興時のものです。

総門を通って境内に入ると明るい参道がずっと奥まで続いていますが、元々の参道は杉木立が並び鬱蒼とした雰囲気であったのに、2011年の東日本大震災の際に津波をかぶり、さらに地盤沈下によって杉の根が常に水に触れる状態となったことにより樹齢100年~400年の杉並木1,000本が枯死して伐採されたのだそうです。

参道の最奥に建つ大きな本堂の前には巨大な杉の木が並んでおり、この大きさの杉が並木を作っていたらどれだけ壮観だったかと想像させます。本堂にはこの中門から入るのではなく、右側に建つ庫裡から上がって外周の廊下をぐるりと回るのですが、とにかく素晴らしいのはいくつもある部屋の障壁画の数々。桃山文化の精華と言うべき金青緑の彩色が煌びやかな襖もあれば、対照的に幽玄な墨絵もあり、見応え十分です。そしてこの日、本堂の中心となるひときわ広い室中(孔雀の間)では仏前結婚式が行われており、参観者もそこでは声をひそめて厳かな婚儀の様子に見入っていました。

本堂内をぐるりと見て回ったら宝物館(青龍殿)に入って貴重な寺宝の数々を拝見し、さらに中門の前庭を小さく散策した後に御朱印所に預けていた御朱印帳を回収し、ちょうどそこへ出てきた新郎新婦が人力車に乗って人々の祝福を受けている姿を眺めてからお隣の円通院に向かいました。

円通院・天麟院

円通院は、伊達政宗の孫で将来を嘱望されながら正保2年(1645年)に19歳にして江戸城内で亡くなった光宗の菩提寺。光宗の母は徳川秀忠の娘(養女)・振姫ですが、その死因については毒殺説と病死説とがあるそうです。ともあれ、後継となるはずだった光宗の死を悼んだ二代藩主の忠宗は翌年に霊廟・三慧殿〈重文〉を建て、さらにその翌年にこの円通院を建立しています。

こじんまりとした山門をくぐるとすぐ左におわすのが縁結び観音。竜(男)が観音菩薩(女)を背に乗せ、天に上り和合するという意匠ですが、三つの丹塗りの橋といいこの縁結び観音といい、松島にはよほど良縁を求める男女が集まっているようです。

それにしてもこの円通院の庭園は美しい。松島湾を模した白砂の向こうには緑滴る苔が覆う須弥山、そして周囲は紅葉に飾られて文字通り錦繍の装いです。

境内の最も奥まったところにひっそりと建つのが三慧殿で、納められている厨子の中には白馬に跨った衣冠束帯姿の光宗像。厨子に描かれている水仙・洋バラ・トランプ模様などは、支倉常長が西欧から持ち帰ったデザインだそうです。

その洋風な図案にヒントを得て境内に設けられたバラ園を歩き、本堂大悲亭前の心字池の水面に浮かぶ紅葉に秋の終わりを感じながら、円通院を後にしました。

円通院に続いて見たのは、墓地の奥に樹齢300年以上のハリモミに見守られてひっそりと建つ天麟院の定照殿です。ここは伊達政宗の娘で松平忠輝に嫁したものの忠輝の改易に伴い離縁して仙台に戻った五郎八姫の霊屋。これを松島訪問の最後として松島海岸駅から列車に乗り、仙台〜一関経由でこの日のうちに平泉に入りました。

2023/11/27

旅の最終日は平泉の毛越寺・中尊寺ほかの奥州藤原氏(と源義経)の史跡群の訪問です。平泉町内には観光に便利な巡回バスが走っていますが、前回と同じく今回もすべて徒歩で回ることにしています。

まずは宿のすぐ近くにある源義経公妻子の墓に詣でて手を合わせてから、徒歩10分ほどの位置にある毛越寺に向かいました。

毛越寺・観自在王院跡

毛越寺は藤原氏二代基衡と三代秀衡が伽藍を整備した寺ですが、寺伝によればその開山縁起は次のようになっています(毛越寺ウェブサイトから引用)。

寺伝によると嘉祥3年(850)慈覚大師が東北巡遊のおり、この地にさしかかると、一面霧に覆われ、一歩も前に進めなくなりました。ふと足元を見ると、地面に点々と白鹿の毛が落ちておりました。大師は不思議に思いその毛をたどると、前方に白鹿がうずくまっておりました。大師が近づくと、白鹿は姿をかき消し、やがてどこからともなく、一人の白髪の老人が現われ、この地に堂宇を建立して霊場にせよと告げました。大師は、この老人こそ薬師如来の化身と感じ、一宇の堂を建立し、嘉祥寺と号しました。これが毛越寺の起こりとされます。

毛越寺の読みは「モウツウジ」ですが、これは「モウオツジ」→「モウツジ」→「モウツウジ」と転訛したもの。一関城の大手門を移したものという山門をくぐって広い境内に入ると奥に大きな本堂が見えていますが、これは平成元年に建立されたものです。

かつて堂搭四十余宇、僧坊五百余宇を構え、中尊寺をも凌ぐ壮麗さで「霊場の荘厳に於いては吾が朝無双」と『吾妻鏡』に記されたこの寺は、奥州合戦の際には被害を被らずむしろ源頼朝によって寺領を安堵されたもののその後の度重なる火災によって堂宇のことごとくを失い、南大門脇にある「毛越寺伽藍復元図」と、かろうじて享保13年(1728年)に再興された常行堂だけが、往時を偲ばせるよすがとなっています。

しかし毛越寺の学術上の価値は、この大泉ヶ池を前にして建ち並んでいた金堂その他の礎石の保存状態がきわめてよく、平安時代末期の浄土庭園の姿を示している点にあります。

かくして大泉ヶ池の周りをぐるりと回りながら頭の中にかつての壮大な伽藍を思い浮かべるものの、どんより曇った空の色のせいもあってむしろ諸行無常の気持ちがつのるばかり。池に突き出した岬の上に集まり会議を始めた無数のカモたちの存在だけが、かろうじて沈みきったこちらの気持ちを引き立ててくれました。

東日本大震災は松島の瑞巌寺の杉木立を枯らせましたが、ここ毛越寺でも大泉ヶ池の出島に立てられた立石を約8度も傾かせました。これは修復されて元の姿を取り戻しましたが、その際に池の水を取り除いたところ普段は水面下にあって見えない場所にも丁寧に玉石が並べられていたそうです。

毛越寺で三つ目の御朱印をいただいた後、隣にある観自在王院跡を訪ねました。藤原基衡の妻が建てたとされるこの寺院跡には、だだっ広い芝生の奥に中島を持つ舞鶴ヶ池があり、その向こう岸(北側)には大小二つの阿弥陀堂の礎石が残されていますが、境内の西側が掘り返されていてさらなる修復作業(?)が進められているようでした。

中尊寺

いよいよ最後の御朱印をいただくべく、中尊寺に向かいます。毛越寺・観自在王院跡からは、途中で熊野三社に立ち寄っても徒歩20分ほどです。

例によって寺伝によれば、嘉祥3年(850年)に円仁が関山弘台寿院を開創し、その後貞観元年(859年)に清和天皇から「中尊寺」の額を賜ったということですが、実質的には12世紀に入ってから藤原氏初代清衡が釈迦如来と多宝如来を安置する「多宝寺」を建立したのが中尊寺の創建と見られています。また、清衡が生前に建てた自身の廟堂である金色堂の上棟は天治元年(1124年)ですが、寺号が「中尊寺」となった時期は不明で、文献上の初出は西行がこの地を訪れた康治年間 (1142年-1144年)を待たなければならないそうです。

中尊寺も源頼朝の庇護を受けて伽藍を維持しましたが、建武4年 (1337年) の火災によって金色堂を除く堂宇がほぼ全焼し、今見る堂宇の多くは仙台藩によって造立されたものです。

明治の建築である本堂の横にある御朱印所にて、四寺回廊最後の御朱印をいただき結願。ありがとうございます。

中尊寺は尾根上に細長く展開した伽藍を持ち、緩やかに登る道の両側にさまざまの堂宇を連ねているのですが、驚くのはその一つ一つに御朱印所が付属していてあたかもスタンプラリーのようになっていること。しかもそれぞれのお堂がつい御朱印をいただきたくなるありがたげな風情をしているのがにくいところですが、今回は自前の御朱印帳を持参していなかったのでかろうじて踏みとどまりました。

前回も感心し、今回もまた感心したのは白山神社の能楽殿〈重文〉です。古式の能舞台は昨年の佐渡島訪問時にいろいろ見て回っていますが、その経験を踏まえてあらためて見たところ、嘉永6年(1853年)に伊達藩主によって建てられたというこの能舞台の作りは現代の能舞台の作りとほとんど異なるところがなく、極めて完成度の高いものになっていました。

さて、寺宝の数々(とりわけ本坊本尊阿弥陀如来と2体の薬師如来の巨大な坐像〈いずれも重文〉)を納めた讃衡蔵で気持ちを整えてから、いよいよ金色堂〈国宝〉を保護する覆堂に入りました。堂内は写真撮影が禁じられているのでその様子はリーフレットやパンフレットの類で振り返るしかありませんが、900年前の工芸技術と美意識の粋をこらした造形の見事さから受ける驚きと感動は、9年前と変わりありませんでした。

句碑五月雨の降り残してや光堂を眺め、創建時の古材を一部用いて鎌倉末期に建てられた経堂〈重文〉(その中に納められていた紺紙金字一切経〈国宝〉、螺鈿八角須弥壇〈国宝〉と文殊五尊像〈重文〉は現在は讃衡蔵に収蔵)と室町時代中期の建造である金色堂旧覆堂〈重文〉とを見て、これで中尊寺参詣は終了です。

これが四寺の御朱印を得た専用御朱印帳。瑞巌寺の銘木・臥龍梅から作られた由緒ある御寶印で「佛法僧寶」を捺していただき、最後の中尊寺では結願の御印と共に御住職の色紙をいただきました。色紙の文字は「慈」ですが、これが毛越寺だと「浄」、瑞巌寺だと「鼎」、立石寺なら「信」となるので、すべてを集めるために四回巡礼する人もいるそうです。しかし!この色紙は貫主が変わると文字も変わり、数年前には中尊寺は「尊」、毛越寺は「夢」、立石寺は「忍」だったそうですから、四回巡礼したら終わりということにはなりません。そもそも四文字集めたら参詣は終わりというのでは信心の旅ではなくアイテム収集に堕してしまうので、思い立ったときに何度でもお参りに行き、そのときどきの御印をいただくのが正しいあり方だろうと思います。

高館・柳之御所遺跡・無量光院跡

中尊寺参詣を終えたら、平泉の歴史を示す遺構のいくつかを時間の許す限り見て回ります。

まずは源義経終焉の地となった(かもしれない)高館跡。北上川の畔にそこだけ細長く小高く盛り上がった丘がそれで、階段を登って丘の上に出るといきなり目の前にこの景色が広がります。向こうの山は、西行がききもせず束稲山の桜花 吉野のほかにかかるべしとはと詠んだ束稲山たばしねやまです。

芭蕉の句夏草や兵どもが夢の跡はこの場所から見渡した平泉の様子を詠んだものとも考えられており、句碑が建てられていました。また、上流方向に少し歩いた一段高い場所には天和3年(1683年)に仙台藩四代藩主伊達綱村が建てた義経堂があり、中には甲冑姿の義経像が祀られているそうですが、あいにく今は扉が閉じられて拝観できないようになっていました。

高館から鄙びた道を歩くと柳之御所遺跡ですが、それ自体には見どころは多くないのでさらっと流して岩手県立世界遺産ガイダンスセンター柳之御所資料館に入りました。こちらはとてもよく整理された展示を通じて平泉の歴史と地理とが理解できるようになっており、たとえば立体地図上に投影される平泉歴史マップを通じて、平泉館(柳之御所は後世の命名)から中尊寺の金色堂の正面を見ることができたこと、毛越寺から平泉館にかけて東西大路が整備されていたことなどを新たに知ることができました。

この資料館で平泉館の構造に関する体系的な学習をした上であらためて外に広がる柳之御所遺跡を眺めると、見え方が違ってくるから不思議です。

そして柳之御所遺跡のはるか北の彼方には、遠く雪をかぶった高山の姿がぼんやり見えていました。方角からするとそれは早池峰山である可能性がありますが、山座同定に自信が持てません。しかし一つだけ確実に言えるのは、かつてこの地に仏国土を築いた藤原三代の当主たちも、ここから同じ山を眺めていただろうということです。

残された時間を使って藤原三代秀衡が築いた無量光院の跡を訪ねて、これで平泉訪問は終了。すなわち四寺回廊巡礼の旅も終了です。平泉駅近くの喫茶店でコーヒーを飲んで身体を温めてから、平泉から一関を経て東北新幹線で帰京しました。

最後に円仁の事績について記しておくと、円仁(794-864)は下野国に生まれ、9歳で仏道に入り15歳で比叡山延暦寺に上って最澄に師事。弘仁7年(816年)に具足戒を受けると共に最澄の東国巡遊に従っており、このときに天台宗布教の拠点が東国にも設けられたようです。その後、承和5年(838年)から承和14年(847年)まで唐に渡って五台山巡礼と長安での求法を行い、帰国後の仁寿4年(854年)に第3代延暦寺座主に任命された後、貞観6年(864年)に遷化しています。ここに四寺の創建年を当てはめると瑞巌寺(828年)は渡唐前、中尊寺と毛越寺(850年)・立石寺(860年)は帰国後ということになりますが、このような波乱万丈の生涯を送った円仁が上記の四寺の開山にすべて直接関わったとするのはさすがに無理で、実際には別にいる開山者が円仁を名目上の初代貫主とし、自らは2代目以降に位置付ける「勧請開山」がなされたのではないかと考えられているそうですが、裏を返せば円仁がそれだけ東北地方の天台宗徒の尊崇を集めていたということの証拠でもあります。

また、円仁が9年あまりの旅の様子を記した『入唐求法巡礼行記』は後世において晩唐の社会情勢を記録した史料として高く評価されており、1950年代の駐日米国大使だったエドウィン・ライシャワー氏はこれを研究した上でマルコ・ポーロの『東方見聞録』、玄奘三蔵の『大唐西域記』と共に三大旅行記と呼んだそうですから、今回の四寺回廊巡礼をありがたい機縁として、いずれ『入唐求法巡礼行記』を読んでみたいと思います。

参考

  • 松島・雄島の歴史に関して
    • 瑞巌寺宝物館青龍殿『雄島探訪〜極楽浄土へのかけ橋〜』。