やまと絵-受け継がれる王朝の美-

2023/12/02

東京国立博物館(上野)で「特別展 やまと絵-受け継がれる王朝の美-」。その内容を紹介する前に、例によってまずは開催趣旨から。力のこもった文章で綴られていますが、その言葉の通りに国宝・重文の数々が惜しげもなく展示される、すごい展覧会でした。

平安時代前期に成立したやまと絵は、以後さまざまな変化を遂げながら連綿と描き継がれてきました。優美、繊細といったイメージで語られることの多いやまと絵ですが、それぞれの時代の最先端のモードを貪欲に取り込み、人びとを驚かせ続けてきた、極めて開明的で野心的な主題でもありました。伝統の継承、そして革新。常に新たな創造を志向する美的な営みこそが、やまと絵の本質と言うことができるでしょう。

本展は千年を超す歳月のなか、王朝美の精華を受け継ぎながらも、常に革新的であり続けたやまと絵を、特に平安時代から室町時代の優品を精選し、ご紹介するものです。これら「日本美術の教科書」と呼ぶに相応しい豪華な作品の数々により、やまと絵の壮大、かつ華麗な歴史を総覧し、振り返ります。

そもそも「やまと絵」とは何か。会場に示されていた解説と図録の冒頭に置かれた「やまと絵の成立と展開」と題する解説からポイントを抽出すると、次のようになります。

  • やまと絵は、平安時代前期に「唐絵」と呼ばれる中国由来の絵画に学びながら成立し、独自の発展を遂げてきた世俗画のことを指す。
  • 当初はその主題が中国を舞台としていれば唐絵、日本の風景・風物であればやまと絵(主題による定義)だったが、後に水墨画を中心とする新しい技法をもつ「漢画」がもたらされると、それ以外の伝統的様式に立つ着色画をやまと絵(技法による定義)と呼ぶようになる。
  • 飛鳥・奈良から平安時代初期の日本において鑑賞されていたのは唐絵であり、唐風文化の推進者であった嵯峨天皇(9世紀前半)のもとで作られた日本最初の勅撰集も漢詩だった。しかし徐々に私的な場において、やまと絵の屏風や障子に基づく和歌(屏風歌)が詠まれるようになる。
  • 9世紀後半、宇多天皇は自らの皇統の正当性を強調する新たな権威の源泉として和の文化を用いるため、内裏の公務空間には唐絵、私的空間にはやまと絵をそれぞれ配し、唐と和が併存するようになる。
  • 11世紀頃になると小型の紙絵が用いられるようになり、題詠という詠み方が生まれたこともあって、屏風歌は衰退する。冊子に描かれた絵と巻子に書かれた詞書が一体化して生まれたのが絵巻である。
  • やがてやまと絵は和歌から離れて独自に発展していくが、時代が下って明治時代になり西洋絵画が入ってくると、それまでの和漢の構図が崩れて、やまと絵は漢画などとともに新たな概念である「日本画」に吸収され、その歴史的使命を終える。

会場での展示は、以下のようにまずやまと絵の概念を整理してから、第1章から第3章まで時代を追ってやまと絵の発展の歴史を追い、第4章と終章に時系列を離れた主題を置くという構成になっていました。

序章 伝統と革新-やまと絵の変遷-

まずはやまと絵・唐絵・漢画を見比べながら、やまと絵の流れを大きく捉えようとするイントロダクション。まず最初に置かれた《聖徳太子絵伝》(1069年)〈国宝〉でショックを受けて、鎌倉時代の《高野山水屏風》〈重文〉で以前訪れた高野山の聖なる空気感を思い出し、同じく鎌倉時代の醍醐寺所蔵の《山水屏風》〈重文〉に描かれた隠士訪問というテーマと中国風の服装に唐絵の典型を見ることになります。

中でも素晴らしいのは大阪・金剛寺所蔵の《日月四季山水図屏風》〈国宝〉で、六曲一双の大画面に雄大な山景を描きながら細部の描写は緻密、そして桜や雪によって画面の中に季節の移ろいが取り込まれ、まさしく室町時代のやまと絵屏風絵の代表作です。なお、一見してわかる通り加山又造の《春秋波濤》や《雪月花》はこの屏風絵に想を得たものです。

また、この章では漢画の代表として雪舟等楊の《四季花鳥図屏風》〈重文〉も見ることができましたが、いかにも雪舟という感じの大胆にして細密な水墨画はこの展覧会全体の中でもひときわ異彩を放つものでした。

第1章 やまと絵の成立-平安時代-

平安時代のやまと絵の現存作品はきわめて少ないということですが、それでもここには数々の貴重な作品が並びます。まずは藤原行成や藤原道長の日記からやまと絵草創期の様子を窺い、様式が確立したやまと絵のモチーフがさまざまな場面で活用される例を扇面や装飾料紙に見ていきますが、ここでも息を呑むほど見事な作品を見ることができました。

たとえば穏やかな青色が美しい11世紀の《和漢朗詠集 巻下(太田切)》〈国宝〉は伝藤原公任筆。中国製料紙に日本で大牡丹唐草文が描かれ、そこに和様の書による漢詩と和歌が書かれたハイブリッドです。

しかし、本当に息を呑んだのは《平家納経 薬王菩薩本事品 第二十三》〈国宝〉でした。冒頭の広い見返し部分に金銀泥緑青群青で描かれ葦手の文字が添えられた女人往生図もさることながら、美しい字体で書かれた経文の上下も隈なく荘厳されて、その全面にわたる絢爛豪華さは図録の説明が平安の料紙装飾の美がここに極まったといっても過言ではないとまで賞賛するほど。

この章ではさらに優れた絵巻の数々が並べられており、雅な《源氏物語絵巻 夕霧》、物語風の《信貴山縁起絵巻 尼公巻》、残酷な表現がリアルな《地獄草子》《餓鬼草子》(いずれも〈国宝〉)がそれぞれの味わいで観覧者を惹きつけました。さらに誰でも大好きな《鳥獣戯画》〈国宝〉は、この日は人間が中心の丁巻が展示されていましたが、一見ラフに見えてしっかりした構図と豊かな表情を活写した絵柄は現代の漫画のお手本のよう。とりわけ流鏑馬の場面に描かれた二騎の躍動感溢れる表現には目を見張りました。

第2章 やまと絵の新様-鎌倉時代-

鎌倉時代の美術においてもやまと絵の制作を主導していたのは引き続き貴族層であり、写実的な表現が登場するにしてもそこには対象の理想化が図られている、というのがこの展覧会の主張。かくして失われた過去の王朝時代への憧憬・追慕がなされると共に、平安時代の物語絵巻・説話絵巻に加えて高僧伝絵巻・縁起絵巻など描かれる対象が広がっていく様子を示すのがこの章の眼目です。

まず写実と理想化の様相を肖像画と風景画に見るコーナーの冒頭では、鎌倉時代の《後白河天皇像》〈重文〉と南北朝時代の《花園天皇像》〈国宝〉が共に法体ながら前者の恰幅、後者の痩顔とそれぞれ個性的ですが、《明恵上人像(樹上坐禅像)》〈国宝〉をルーペで覗き込むと顔のしみやほうれい線のリアルさが異様。そしてこのコーナーには短期間ながら日本史の教科書でおなじみの神護寺の《伝源頼朝像》と《伝平重盛像》《伝藤原光能像》〈いずれも国宝〉が並んでいたのですが、残念ながらこの日は三人ともすでに神護寺に帰った後でした。

三十六歌仙絵も何人かが並んでいましたが、これは同時代のものではなく時代を超え理想化された姿で描かれており、《住吉物語絵巻》〈重文〉でも主人公が立つ浜辺の湾曲が住吉を示す「記号」になっている(写実ではなく)という解説にいたく感心しました。さらに《遊行上人縁起絵巻》〈重文〉が描く松島のデフォルメされた景色の中につい先日訪れたばかりの五大堂の姿を認め、そして《那智瀧図》〈国宝〉もまた自分が見た実景を縦方向に強調して一層神々しく描かれていることに気づいてうれしくなります。

次に王朝追慕のコーナーでは《紫式部日記絵巻断簡》〈重文〉が会期を通じて展示されており、さらに彩色が鮮やかな《伊勢物語絵巻》《狭衣物語絵巻断簡》や白描のモノトーンがきりっと美しい《源氏物語絵詞 浮舟・蜻蛉》〈いずれも重文〉などが並びますが、これらの制作の背景には承久の乱以後に政治的発言力も経済的基盤も共に損なった天皇・貴族が文化的な権威を示そうとする動機があったという指摘には目から鱗。しかも単に過去の様式を再現するだけでなく、人物表現や描法に平安時代とは異なる要素が取り入れられているそうです。

そして絵巻の主題の展開を示すコーナーでは会期前半に展示された国宝の《平治物語絵巻》《一遍聖絵》が重要だっただろうと思いますが、個人的にはこの日展示されていた《前九年合戦絵巻》〈重文〉がやはり先日訪れた平泉の奥州藤原氏の前史を描くものとして興味深く眺められました。

第3章 やまと絵の成熟-南北朝・室町時代-

南北朝・室町時代といえば、北山文化・東山文化に禅宗寺院での水墨画。しかし、この時代にはやまと絵も武家層に広がり、金銀雲母を多用したより華やかな装飾を志向すると共に漢画の技法や構図も取り入れて、続く安土桃山時代の金碧障壁画の基礎を作ります。

まず金で画面全体を覆い尽くすようになった作例としては、伝土佐光信筆《松図屏風》や室町〜安土桃山時代の《四季草花小禽図屏風》。特に後者は、金地を雲としてその合間から多種多様な美しい草花が伸び上がりその間を鳥が飛び回る生き生きとした表現は

一方、文芸の分野では武士や庶民を主人公とする御伽草子の確立や連歌の流行が見られ、このこととシンクロして生まれた《百鬼夜行絵巻》〈重文〉が、その奇想天外な題材と共に見事な技巧と鮮やかな彩色でインパクト満点。もとは百年経過した器物たちが変化して悪行を尽くした末に発心成仏するという付喪神説話の中から祭礼行列を抜き出したもので、妖怪たちの様子が実に楽しげです。また、前章の《前九年合戦絵巻》に続いてここでは《後三年合戦絵巻 巻上》〈重文〉が目を引いたほか、能の題材と共通する《土蜘蛛草子》《是害房絵巻》〈共に重文〉にも注目しました。

和漢混交を示すものとして展示された伝土佐広周筆《四季花鳥図屏風》〈重文〉は、花鳥や虫の描写が宋代に遡る花鳥草虫画の様式を取り入れたもの、金雲や銀泥流水文様と個々のモチーフをゆるやかに並置する画面構成がやまと絵の表現で、作者をやまと絵系とするか漢画系とするかについて議論された作品だそう。

しかしここで最も心を動かされたのは、逆に漢画の中にやまと絵の要素を見ることができる狩野元信筆《禅宗祖師図(旧大仙院方丈障壁画)》〈重文〉でした。漢画系である狩野家の二代目・元信(1477-1559)は、やまと絵系の土佐派の技法も取り込んで「狩野家是漢而兼倭也」と評される基礎を築いた人物。この絵は落ち着いた配色(墨画淡彩)で描かれる山水の中に人物と松樹を描いていますが、時間も空間も異なる禅宗の祖師たちの逸話を輪郭線の明瞭な雲でつなぎながら一連の物語のようにまとめ上げている点に「和」の要素が見られるということです。そうした全体の構成もさることながら、ルーペで覗くと緻密な筆使いの妙にどこまでも引きこまれてしまい、なかなかこの絵の前から立ち去ることができませんでした。やまと絵を見に来て漢画に出会う、といったところです。

第4章 宮廷絵所の系譜

第1章から第3章までは時系列に沿ってやまと絵の発展を追っていましたが、この章では9世紀後半に生まれ江戸時代末まで続いた宮廷絵所(天皇や貴族の求めに応じ絵画制作を担った組織)の系譜を追っています。

後白河のもとで活躍した常盤光長による《年中行事絵巻》の江戸時代の写本により平安の京都の様子を振り返ってから、鎌倉時代後期の絵師にしてモチーフ配置の高密度や濃彩色をもってやまと絵に様式の転換をもたらしたとされる高階隆兼を《春日権現験記絵巻 第九》〈国宝〉などで見ます。この《春日権現験記絵巻 第九》には画中画として障子に水墨画が描かれている点も要注目です。

鎌倉時代に寺社にも設けられるようになった絵所は、南北朝・室町時代には独立した民間工房が「絵所預」として宮廷・幕府の絵画制作を請け負うようになります。その中で足利義政の下で立場を高めた土佐光信(部分的にその子・光茂も)の手になる作品としては《清水寺縁起絵巻 巻上》〈重文〉が展示されており、水墨画由来の速い描線と淡彩とで枯れた印象を与える画面にびっしりと描かれる武士たちの姿は清水寺が坂上田村麻呂の帰依を得て創建されたことを反映しています。

なお土佐家は、光信の孫である土佐光元が木下藤吉郎の但馬攻めに(武将として?)従軍して戦死したことにより断絶します。残された光茂は累代の粉本などを弟子の土佐光吉に託したものの、光吉は堺に下ってしまい、やまと絵の宗家が京からいなくなったことで諸派がやまと絵制作に参入したことが江戸時代におけるやまと絵の低評価につながったことから、光元の死をもってやまと絵は一つの時代の終焉を迎えたと図録は解説しています。

終章 やまと絵と四季-受け継がれる王朝の美-

最後の章は「四季を描くことは、やまと絵の中心的命題といっても過言ではない」と宣言した上で四季絵の伝統を踏まえた作例を紹介しています。

この章を代表する作品として会期を通じて展示されていたのは、東京国立博物館所蔵で室町時代の六曲一双《浜松図屏風》〈重文〉です。右双と左双とを水流で繋いで後景に浜辺と人々(漁師や武士など)を描き、前景は右端の柳と左端の雪をかぶった槙(または檜)の間に枝ぶりのよい松が立ち、その周囲に多くの鳥を群れ飛ばせつつ四季の花が描かれて、それまでの一画面一季または二季から一画面の中に四季の移ろいを描く室町時代やまと絵への変化を示しています。

この日展示されていた作品の中から自分がこれはと思ったものの一部をとりとめもなく紹介してきましたが、これでも会場に展示されていた作品のごく一部しかカバーできていません。しかも展示替えによって見逃したものの中に日本絵画史上きわめて重要な作品がいくつもあったことを考えると、自分はこの展覧会の全貌のうちの何パーセントを把握できたのかと少し残念な気持ちになります。あらかじめ展示替えのスケジュールを把握して、せめて前期・後期の二回は足を運ぶべきでしたが後悔先に立たず。かくなる上は図録の中から必修作品を選び出し、生涯をかけて所蔵先や展覧会に赴くことにしようと思います。

それにしても、惜しげもなく国宝・重文を並べたこの展覧会のボリュームは圧倒的で、しかも重文とされているものもいずれ劣らぬ優品揃い。いっそのこと、この日展示された全作品を国宝ということにしてもいいのではないでしょうか?それでもどうしても価値の高いものとそこまでではないものとを区別する必要があるのであれば、前者を「超国宝」ということにして……。