清水 / 源氏供養

2024/05/29

銕仙会能楽研修所(南青山)で青山能。仕舞二番と狂言「清水」、能「源氏供養」。

今年のNHKの大河ドラマは紫式部が主人公なので「源氏供養」は時宜に適った選曲(というのかな?)ですが、私はこれが初見です。

狂言に先立って仕舞二番はいずれも『源氏物語』にゆかりの演目で、「枕之段」(北浪貴裕師)は「葵上」から六条御息所が病床の葵上を打ち据え連れ去ろうとする場面、「浮舟」(鵜澤久師)は浮舟の霊が僧の弔いによって執心を晴らす最後の部分です。かたや思い知ったか思い知れと足拍子や厳しい視線で怨念を顕にする御息所に震撼し、一方ではかつて薫と匂宮との間で揺れ動き自ら死を選ぼうとした浮舟が弔いによって心晴れるさまを示す揺るぎない舞に感嘆しました。

清水

過去に大蔵流の山本東次郎家茂山千五郎家で観ており、今日は和泉流ですが大筋は変わらないのでポイントだけを列記します。

  • まずは太郎冠者が主に水汲みを命じられる場面。その不承不承加減が尋常ではなく、水の汲み方(上の木の葉をかきのけ下をかき立てず中ほどから汲め)には「それほどのことは知っています」と憎まれ口、お決まりの主からの「えーい」にも不機嫌丸出しで「へっ」。ここまであからさまに反抗的な太郎冠者というのはあまり見たことがありません。
  • 鬼に扮した太郎冠者が主を脅す文句は、大蔵流では「いで食らおう」でしたが、ここでは「取って噛もう」。その後に要求した太郎冠者の待遇改善は、順番は逆ながら、夏は冷や・冬は燗で酒を飲ませろ、そして夏の夜には蚊帳を吊らせろという二点は同じでしたが、その後に聞き取れない一点が追加されていました。聞いたままにメモしたところでは「きうぶん」の残りを「さんよう」しろだったのですが、これはどういう意味だったのか?
  • 戻った主が、鬼が妙に太郎冠者を贔屓にしていたと不思議がる場面で、問われた太郎冠者は大蔵流では親戚に鬼がいたという趣旨のことを語ったのですが、この和泉流では「先祖が野中の清水に身を投げたということだ。その霊が自分を見守っているのだろう」と答えました。ここには、入水した者は鬼に変じる(たとえば「綾鼓」)という考え方が往時広まっていたことが窺えます。
  • 主に鬼の声を再現するように命じられた太郎冠者は、バレてはならじと小さい声で繰り返すだけ。とうとう主が腰の刀に手を掛けたので本来の鬼の声を出し、真相が露見するのですが、主が再度清水に向かおうとしたために太郎冠者も再び清水へ向かわなければならなくなるところで、前に観た舞台では勘弁してほしいといった雰囲気を漂わせていたのに対し、この日の太郎冠者はさらりと「また鬼にならずばなるまい」。最後に追い込まれるところも含めて、和泉流の太郎冠者の方が飄々とした風だったように思います。

ともあれわかりやすくおかしい狂言で、見所では最初の方の「へっ」から最後まで笑い声が随所に湧き上がっていました。

源氏供養

作者不詳(河上神主、世阿弥、金春禅竹とも)の三番目物。季節は晩春、場所は近江の石山寺。Wikipediaの記述によれば豊臣秀吉はこの曲を特に好み、1592年(文禄元年)から1593年(文禄2年)にかけて自ら七回も舞ったことが記録されているそうです。秀吉が「源氏供養」のどこにそれほど惹かれたのかはわかりませんが、ともあれこの曲を理解するためにはいくつかの予備知識が必要です。

まず題名の「源氏供養」とは、中世の仏教を中心とする価値観の中で、妄語・美辞麗句を連ねた『源氏物語』を書いた罪により地獄に落ちた紫式部を救い、あわせて物語に耽溺した読者の罪障をも消滅させるために行われた法会のことで、平安末期から鎌倉期にかけて実際に行われた記録が残っています。次に本曲のワキとして登場する安居院あぐい法印は、比叡山竹林院の里坊・安居院に住んだ聖覚(1167年-1235年)のこと。天台僧でありながら浄土宗の祖・法然にも帰依し、唱導(庶民教化のために節や抑揚をつけて仏法を説く語り物)の名人として浄土宗の布教に貢献した人物です。そして、この聖覚が作ったと伝えられる『源氏物語表白げんじものがたりひょうびゃく』は源氏供養の場で唱えられる表白文で、謡曲「源氏供養」のクセはこの『源氏物語表白』をほぼそのまま引用しているということです。

〔次第〕の囃子と共に登場したワキ/安居院法印(野口能弘師)とワキツレ二人。衣も同じ苔の道、石山寺に参らんと朗々と謡って、名乗リからの道行では花の都を立ち出で白河表、音羽の滝、逢坂関を越えて鳰の海(琵琶湖)と眼前に京から大津にかけての情景が浮かぶようです。毎度思うことですが、能の最初にワキとワキツレが声を合わせる道行の謡は聴覚だけでなく(心の中の)視覚にも快く、しかも音響装置としての能舞台の優秀さがとりわけ発揮される場面ではないかと思います。ことに、この日の野口能弘師のような美声の持ち主をワキに迎えた場合はなおさらです。

続いてさざ波や、志賀唐崎の一つ松。塩焼かねども浦の波、立つこそ水の煙なれと謡われる間に揚幕が引き上げられ、ワキたちが脇座を向いて旅を続けようとするその背中へ、鏡ノ間からシテが呼び掛ける深い声音が響いてきました。ワキがこれに応えて振り返るうちに一ノ松まで出てきた前シテ/里女(長山桂三師)の出立は華麗な紅入唐織着流に面は落ち着いた表情の孫次郎(甫閑作)。この後のやりとりがちょっと不思議なのですが、何事かと問うワキに対してシテは「自分は石山寺に籠って源氏物語を書いたが、光源氏のためにすべきだった供養をしなかったので成仏できずにいるから、法印が源氏を供養し、あわせて自分を弔ってほしい」といきなり核心部を露見させているのに、ワキは「源氏の供養をするのはやすいことだが、誰を願主として弔うのか?」とシテの言をスルー。もっとも紫式部の時代と安居院法印の時代とでは200年ほどの隔たりがありますから、よもや紫式部が目の前に立っているとは思わなかったとしても無理はありませんが、その後に常座に進んだシテとの短いやりとりでワキが紫式部にてましますなと呼び掛けると、シテはこれには答えず紫雲たなびく西の空(極楽浄土)からの夕陽の中に姿を消してしまいます。

ここでアイがワキの求めに応じて紫式部の石山寺での『源氏物語』執筆の伝説を語る演出もあるそうですが、この日はアイの登場はなく、脇柱近くに正面を向いて着座したワキを頂点として三角形を作ったワキとワキツレは、予定していた勤め事を終えて夜も更けた頃合い、シテの求めた弔いを始めます。その弔いの詞の終わりにヒシギがかぶさって〔一声〕となり、ワキたちが脇座へ戻ると共に登場した後シテ/紫式部の姿は立烏帽子に紫の長絹(金や青の長短の紐文様が綺麗)、緋大口。一応は貴族階級に属する女性である紫式部が白拍子のように烏帽子を被っていることに一瞬「?」となったのですが、これは供養される対象としての光源氏と紫式部が一体化している表現なのかしら[1]と思いながら見ているうちに一ノ松まで進んだ後シテは〈一セイ〉松風も散れば形見となる物を、思ひし山の下紅葉を謡いました。

シテの姿を灯火の陰に認めたワキは紫の薄衣をまとう美しいその姿に紫式部にてましますかと問い掛け、この後にシテとワキとが謡い継ぐのですが、ここでの短い詞章の応酬のうちにシテとワキとが心を通わせてゆく様子がまざまざと伝わり、地謡による光る源氏の跡とはんのくだりへと引き継がれたときにはそのスムーズな展開に感動しました。かくして中央に下居し合掌したシテはワキの供養に感謝し何をか布施に参らせ候ふべき。これに対して布施の代わりにワキが舞を所望し、再びの掛合いの後に地謡による〈次第〉夢の内なる舞の袖、現に返す由もがなから〔イロエ〕を経て〈クリ・サシ〉。地謡に心中の所願を起し、一つの巻物に写し云々と謡わせつつシテが懐から取り出したのは紺地料紙の巻物で、これを受け取ったワキは正面に向かって巻物を広げましたが、これこそ『源氏物語表白』(ただし本曲では紫式部が書いたことになっている)です。

ワキが巻物を読み上げる姿を示し、シテがこれを中央で合掌しつつ聞き入る形になって始まる〈クセ〉は、長大な二段クセの中に『源氏物語』の巻名[2]を巧みに連ね、現世の虚しさ・儚さを強調しつつ仏道に縁を結んで「往生を願うべし」「菩提の道を願うべし」「身の来迎を願うべし」と繰り返すもの。〈クセ〉の最初の方に出てくる「箒木」あたりでシテは立ち、「空蝉」の前でワキが巻物を拝してこれを閉じ脇座に戻るとシテは静かに舞の足を進めました。最初の上端花散る里に住むとてもを過ぎてもしばらくはゆったりと穏やかに謡い舞われている印象でしたが、手元に謡本があればあるいは詞章の内容とシテの型とのシンクロ具合を見ることができたのかもしれません。あいにくこの日はそうした準備がなく、耳で聞くだけでは巻名を追うのが精一杯。それでも次の上端朝には栴檀の、陰に宿木名も高きを経て南無や西方弥陀如来。狂言綺語を振り捨てて、紫式部が後の世を助け給へとワキに向かって請い願うシテの切々とした心情を受け止めた地謡と囃子方がぐっと熱量を上げる様子に観ているこちらも高揚するものを覚えた後、鐘打ち鳴らしてと大小前で足拍子が踏まれると共に舞台上は鎮静に向かって、廻向の終わりを迎えます。

三番目物ではここで〔序之舞〕が来るのが普通ですが、この曲では小書を伴わなければただちに〈ロンギ〉から終曲へと向かいます。夢が終わる朝の訪れを告げる鳥の声。光源氏の弔いを終えて自分もまた救済されたことを知ったシテ。浮世の定めなさを再確認する詞章に続くよくよく物を案ずるに以下はワキの述懐なのでしょう。シテが常座でのユウケンから中央に出て袖を翻すうちにキリの詞章が、紫式部は実は石山観世音の仮にこの世に現れた姿であり『源氏物語』もまたこの世の儚さを人々に伝えるための方便であったのだと結論づけて、思へば夢の浮橋も、夢の間の言葉なりと締めくくるところでシテは留拍子を踏みました。

元来『源氏物語表白』が五十四帖の巻名を織り込んでいるのは『源氏物語』と決別するために源氏物語の写本を一巻ずつ火に焚べたことに由来すると考えられているそうですが、その内容はむしろ『源氏物語』と仏道とを積極的に結びつけるものになっており[3]、最後は紫式部が六趣苦患を救う(この紫式部は三人称)だけでなく是をもてあそばん人(読者)をも安養浄刹に迎へるようにと願う高邁なもの。しかし本曲では、繰り返し「恥ずかしや」と述べ[4]て罪を負う身であることの自覚を表明する紫式部がこの『表白』を紫式部が後の世を助け給へという救済の希求(この紫式部は一人称)に転換しており、その切実さにこそ本曲のポイントがあったような気がします。この見方からすると、最後に述べられる石山観世音の仮現の話(室町時代の源氏理解[5]に基づく)はつけたりのようにしか思えなかったのですが、後から思えば、作者は紫式部だけでなく『源氏物語』そのものも救いたかったのかもしれません。

ともあれ、下のツイート……もとい、Xのポストに掲載された写真に見られる通りの立ち姿・舞い姿の美しさといい、鏡ノ間からだろうが掛けている面を通してだろうが見所の隅々まで届かせる声の通りの良さといい、長山圭三師の美徳が存分に発揮された舞台だったと思いました。

▲公演翌日の長山圭三師のポスト。

青山能恒例の終演後の小講座は、今日は鵜澤光師が講師。解説のポイントを箇条書きにすると次のようでした。

  • 『源氏物語』の「蛍」の中には光源氏が「女子というのは物語(虚構)が好きなものだね」と言って玉鬘を憤慨させる場面があるが、その後に光源氏は「でも物語の中にこそ真実が隠れていることもあるよね」と言っており、これは紫式部自身の思いである。
  • しかし鎌倉時代頃には、物語(虚構)を作る=狂言綺語きょうげんきぎょの罪を負って紫式部は地獄に堕ちたのだと考えられるようになっていた。このためシテはたびたび「恥ずかしや」という言葉を口に出しているが、これが室町時代になると、狂言綺語によって人が救われることもあるという考え方も出てきていたようだ。
  • 能という芸能は二次元の書き物を三次元に立体化するものであり、虚構である『源氏物語』を芝居という虚構を通じて立体化することによって物語がより鮮やかに立ち上がるさまを、楽屋で観ていて面白いなと思った。

配役

仕舞 枕之段 北浪貴裕
浮舟 鵜澤久
狂言 清水 シテ/太郎冠者 野村万之丞
アド/主 石井康太
源氏供養 前シテ/里女 長山桂三
後シテ/紫式部
ワキ/安居院法印 野口能弘
ワキツレ/従僧 野口琢弘
ワキツレ/従僧 渡部葵
八反田智子
小鼓 曽和伊喜夫
大鼓 大倉慶乃助
主後見 観世銕之丞
地頭 浅見慈一

あらすじ

清水

→〔こちら

源氏供養

安居院の法印が近江国の石山観世音へと参詣に向う。そこへ女が現れ、『源氏物語』の主人公光源氏の供養を怠った咎で成仏出来ない自分と光源氏を弔って欲しいと頼み、自分こそ紫式部だと明かして消え失せる。やがて在りし日の姿で紫式部の霊が現れ、二人はともに光源氏を弔う。法印が布施のかわりに式部に舞を所望すると式部は袖を翻して舞を舞い、源氏を弔うために『源氏物語』の巻名を読み込みつつ諸願を書き記した巻物を法印に捧げ、読み上げる。やがて夜が明け、式部は自分が石山観世音の化現であり、『源氏物語』もこの世は夢と衆生に知らせるための方便であったのだと明かして消え失せる。

脚注

  1. ^天野文雄『能楽手帳』(KADOKAWA 2019年)の「源氏供養」の項には紫式部の供養を行った藤原実材(1268没)の母がもとは「舞女(白拍子)」と伝えられていることにかかわるかとある。
  2. ^「桐壺」「箒木」「空蝉」「夕顔」「若紫」「末摘花」「紅葉賀」「賢木(榊)」「花散里」「須磨」「明石」「澪標」「蓬生」「松風」「薄雲」「藤袴」「真木柱」「梅枝」「藤裏葉」「玉鬘(玉葛)」「朝顔」「宿木」「東屋」「浮舟」「蜻蛉」「夢の浮橋」の二十六帖(このうち「須磨」は〈クリ〉で既出。また巻名ではないが朧月夜の名も〈クリ〉に登場する)。この後のロンギに「花宴」を加えて二十七帖が一曲中に読み込まれていることになる。また、宝生流のみに伝わる小書《真之舞入》ではクセの中に五十三帖、序之舞の舞出しに「雲隠」が置かれて五十四帖すべての巻名(本文のない「雲隠」を数えず「若菜」を上下二帖とすればクセだけで五十四帖)が謡われるそう。
  3. ^湯浅幸代「源氏物語表白」日向一雅編『源氏物語と仏教 仏典・故事・儀礼』(青簡舎 2009年)p.235-249。平安末期から中世にかけて、浄土信仰の深化に伴い、狂言綺語の罪による紫式部堕地獄説が流布し、その罪を救うべく源氏供養は行われたが、巻名に絡めて仏教の理を述べるに留まらず、和歌の修辞や物語表現を駆使した華麗な表白は、逆に狂言綺語と仏道とを積極的に結びつける源氏供養は、『源氏物語』の愛読者ゆえに行うものであり、仏の前では懺悔せざるをえないとしても、なお作品が往生の妨げとはならない事を信じる施主の心を代弁するかのような表白である
  4. ^手元の詞章によれば、シテは前場で2回、後場で4回も「恥かし」という言葉を口にしている。
  5. ^四辻善成『河海抄』(14世紀)など。