第17回世界バレエフェスティバル
2024/08/02
第17回世界バレエフェスティバルのAプロを東京文化会館大ホールで観ました。14時開演、終演は18時30分頃。
前回(第16回)は13演目3時間半だったのに今回は17演目4時間半?長いなぁ……と一瞬思いましたが、考えてみれば前回はCOVID-19の影響を受けての短縮バージョンで、その前(第15回)は今回と同じく4時間強(19演目)でしたから、これは本来の姿に戻ったということです。
場内に入って開演を待ちながら席の埋まり具合を見てみると、1階席はほぼ満員ですが上の方の階にはすき間あり。金曜日の午後だから仕方ないかな。かく言う私はエコノミーな4階Rでしたが、私の右隣が4人分空席だったので舞台を見るには好都合でした。やがて定刻になって場内が暗くなり、オケによって演奏されたオープニングの「戴冠式行進曲」を聴くと、毎度のように祝祭感に包まれる思いがします。
この日の演目と配役は、以下の通りです。
演目 | ダンサー | 振付 / 音楽 |
---|---|---|
白鳥の湖 黒鳥のパ・ド・ドゥ |
マッケンジー・ブラウン ガブリエル・フィゲレド |
ジョン・クランコ ピョートル・チャイコフスキー |
クオリア | ヤスミン・ナグディ リース・クラーク |
ウェイン・マクレガー スキャナー |
アウル・フォールズ | マリア・コチェトコワ ダニール・シムキン |
セバスチャン・クロボーグ アンナ・メレディス |
くるみ割り人形 | オリガ・スミルノワ ヴィクター・カイシェタ |
ジャン=クリストフ・マイヨー ピョートル・チャイコフスキー |
アン・ソル | ドロテ・ジルベール ユーゴ・マルシャン |
ジェローム・ロビンズ モーリス・ラヴェル |
ハロー | 菅井円加 アレクサンドル・トルーシュ |
ジョン・ノイマイヤー ジョルジュ・クルポス |
マノン 第1幕の出会いのパ・ド・ドゥ |
サラ・ラム ウィリアム・ブレイスウェル |
ケネス・マクミラン ジュール・マスネ |
ル・パルク | オニール八菜 ジェルマン・ルーヴェ |
アンジュラン・プレルジョカージュ ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト |
チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ | 永久メイ キム・キミン |
ジョージ・バランシン ピョートル・チャイコフスキー |
3つのグノシエンヌ | オリガ・スミルノワ ユーゴ・マルシャン |
ハンス・ファン・マーネン エリック・サティ |
スペードの女王 | マリーヤ・アレクサンドロワ ヴラディスラフ・ラントラートフ |
ローラン・プティ ピョートル・チャイコフスキー |
マーキュリアル・マヌーヴァーズ | シルヴィア・アッツォーニ アレクサンドル・リアブコ |
クリストファー・ウィールドン ドミートリイ・ショスタコーヴィチ |
空に浮かぶクジラの影 | ジル・ロマン 小林十市 |
ヨースト・フルーエンレイツ レナード・コーエン、ルー・リード、 アントニー・アンド・ザ・ジョンソンズ |
アフター・ザ・レイン | アレッサンドラ・フェリ ロベルト・ボッレ |
クリストファー・ウィールドン アルヴォ・ペルト |
シナトラ組曲 | ディアナ・ヴィシニョーワ マルセロ・ゴメス |
トワイラ・サープ フランク・シナトラ |
椿姫 第1幕のパ・ド・ドゥ |
エリサ・バデネス フリーデマン・フォーゲル |
ジョン・ノイマイヤー フレデリック・ショパン |
ドン・キホーテ | マリアネラ・ヌニェス ワディム・ムンタギロフ |
マリウス・プティパ レオン・ミンクス |
- 指揮:ワレリー・オブジャニコフ / ロベルタス・セルヴェニカス
- 弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
- ピアノ:菊池洋子(「アン・ソル」「ハロー」「ル・パルク」「3つのグノシエンヌ」「マーキュリアル・マヌーヴァーズ」「椿姫」)
- チェロ:⻑明康郎(「ハロー」)
以下、例によって演目ごとに備忘代わりの一言コメントです。
白鳥の湖より黒鳥のパ・ド・ドゥ
この演目と最後の「ドン・キホーテ」は定番の血湧き肉踊る系。まずアダージョの最後で倒れ込んだ王子に下から支えられたオディールが両腕を宙に伸ばして静止したときに歓声が湧き、オディールのヴァリエーションのラストで両腕をさっと背中側へ伸ばした動きの鋭さに息を飲み、1-1-2と1-1-3を交えたグラン・フェッテに感嘆。マッケンジー・ブラウン凄いぞ!と思う間もなくガブリエル・フィゲレドも負けずにグランド・ピルエットの中に一気連続回転を入れ、途中で止めかけてから足を下ろさずに回転を取り戻す力技を見せて、客席の温度を一気に高めました。
クオリア
ストリングスとダブルベースが作るミニマルなリズムに途中からインダストリアルなドラムが加わる不穏な音楽に乗って、薄いブルーの光の円の中で絡み合う白い衣装の男女。モダンの体裁にクラシカルな技法を織り込んで素晴らしいシンクロ度を見せ、強い印象をもたらします。
アウル・フォールズ
今年の2月にマリア・コチェトコワとダニール・シムキンによって初演されたばかりという作品。壮大な交響曲の最終楽章の最後の小節が演奏された後に、雰囲気をがらりと変えて不安をかきたてるノイジーな電子音楽とさまざまな照度・形状で舞台上に投げ掛けられる白色光の中で、男女がマイムも交えながらソロやデュエットで踊り、たびたびの無音暗転で流れを断ち切られる。二人が走り去った後に舞台上に残された赤いものはボール?りんご?それにしてもシムキンは、若かりし頃の「飛び道具」的な扱いからいい具合に立ち位置を変えてきているような気がしました。
くるみ割り人形
モンテカルロ・バレエ団のレパートリーであるマイヨー版「くるみ割り人形」から、曲はグラン・パ・ド・ドゥのパートですが、透き通るドレスをまとった女性の方はともかく、男性の方はワイシャツにクリーム色のパンツを履いて何かチャラい雰囲気。マイヨー版ではダンスカンパニーに対するドロッセルマイヤーのプレゼントが(くるみ割り人形ではなく)新しい振付家で、そこから波紋が起きるというストーリーになっているらしいので、彼はその振付家なのでしょう。しかしチャラいだけでなくきちんと跳躍の閃きも垣間見せて、いつか全幕で観てみたいと思わせてくれました。
アン・ソル
題名「アン・ソル」とは「ト長調で」という意味。ピアノの独奏にフルートほかの木管楽器と弦が重なる穏やかな協奏曲が演奏され、青い光に満たされた舞台上で白い衣裳の男女が静謐で美しいパ・ド・ドゥを踊る。ことにユーゴ・マルシャンの古代ギリシャ彫刻のような肉体美は圧倒的。機知と諧謔に富んだ前の作品とは対照的に、一切のギミックを排して「人はどこまで美しくなれるか」を追求した作品だと感じました。
ハロー
舞台奥上手寄りに赤い壁が二つ立てられ、その左にはピアノ、そしてチェロ。不穏なピアノのフレーズが繰り返される中で菅井円加さんが赤壁の間から舞台に入ってきたとき、ピアニストが突然立ち上がって彼女を止めた?と思ったらピアノを弾いていたのはアレクサンドル・トルーシュで、彼が立った後に本物のピアニストがピアノに向かって演奏を続けましたが、いかにもノイマイヤーらしく二人の関係性の緊張と弛緩とがさまざまなポーズとダンスで綴られる中で、トルーシュに追われた円加さんがピアニストの背後に回ってその肩をつかむ場面も。さらにチェロのフラジオレットとボディをこつこつ叩く不気味な音が無限に繰り返されて、「ストリート・オブ・クロコダイル」を連想させる深刻な時空が舞台上に出現しました。
マノンより第1幕の出会いのパ・ド・ドゥ
サラ・ラム=天使。リフトされて舞台を回るうちに示されるかすかなポーズと表情の変化だけで、マノンのデ・グリューに対する愛が高まっていく様子が見事に表現される。
ル・パルク
2021年のフェスティバルでアレッサンドラ・フェリとマルセロ・ゴメスが踊ったこの作品を、今回はオニール八菜さんとジェルマン・ルーヴェのオペラ座コンビで。背景にぼんやりとした白雲を浮かべた空を描いて、白い寝間着風の衣裳の男女が抒情的に踊る作品。しかし、ある瞬間に八菜さんが身を翻してルーヴェの腕へと飛び込んだり、曲調に合わせてキレのいいシンクロを見せたり、ぐるぐる回転するルーヴェの首に両腕を絡めた八菜さんの身体が遠心力で宙に浮いたりと穏健一辺倒でもなく。
チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ
永久メイさんのきりっと華やかなダンスもすてきでしたが、とにかくキム・キミンの強靭なバネが圧巻。アダージョでのなんでもない跳躍が恐ろしく高く、ヴァリエーションでは跳躍しての空中2回転3連発。コーダのマネージュでキミンが速く高い跳躍を繰り出すと永久メイさんも複数の技巧を組み合わせた複雑な回転を見せて、最後は左右に飛び込んでのフィッシュ・ダイヴからリフトで颯爽と下手袖へ。
3つのグノシエンヌ
舞台を照らすブルーの光、上手奥のピアノ。サティの曲に乗ってどこまでも穏やかに踊られる作品でしたが、休憩明けで客席が集中力を欠いていたのか、特に1階席から繰り返される咳(複数人)が目立ってダンサーとピアニストにはとても申し訳ないことに。オーケストラの出入りの効率を考えるとプログラムのここにこの作品を置くのもやむを得ないのかもしれませんが、なにか工夫のしようはなかったでしょうか?
スペードの女王
使用される音楽はチャイコフスキーの(オペラではなく)交響曲第6番「悲愴」。近衛士官ゲルマンを破滅へと導く黒づくめの伯爵夫人の亡霊≒スペードの女王のおどろおどろしい姿が強い印象を残す、軽妙洒脱だけではないローラン・プティの一面を示す作品。モノトーンの暗い舞台に深刻な曲と振付がただただ恐ろしい。踊り終えてカーテンの間から現れ客席に挨拶するときにもマリーヤ・アレクサンドロワの厳しい表情は変わらず、さっと衣裳を翻してカーテンの向こうに消えるまで役を演じ切るその矜持に拍手。
マーキュリアル・マヌーヴァーズ
ブルーの光に包まれる暗いステージ。プログラムによれば本来「軽妙な作品」とのことだが、ここで踊られた第2パートはピアノとトランペットを軸とするしっとりしたメロディに乗って踊られるデュエット。アレクサンドル・リアブコといえばノイマイヤー作品の難解なイメージですが、味わいはかなり違いました。
空に浮かぶクジラの影
幕が上がるとスモークの中に白色光の斜柱の連なり。これはGenesisの世界(右画像参照)では?……というたわけた驚きは横に置いて、ここでの驚きはかつてモーリス・ベジャールの下で同僚だったジル・ロマンと小林十市(たとえばメフィストフェレスとフェリックス)の共演です。冒頭や曲間で重低音と共に流れる効果音はクジラの鳴き声?呟くようなボーカルを含む複数の音楽素材を組み合わせ、黒いジャケットに黒いパンツ姿の二人の間で「風船を割る」というモチーフを差し挟みながら、時に揺らぎ、痙攣し、時に走り回り、うずくまる。ダンサーというより表現者という言葉を使う方が適切に思える二人のベテランの動きの中に九字を切るような型が入っていたのは、振付のヨースト・フルーエンレイツの仏教への造詣の深さを反映したものかもしれない。なおタイトルの意味は、プログラムに書かれた振付家の次の言葉から観る者それぞれが推測することになります。
無常なる現象を永遠のものとして扱うことは、空にクジラの姿を掲げるようなもの。力強く荘厳で、私たちの想像力の至宝として優雅に飛翔する。この天空のクジラの黄昏の髄での舞のように、私たちは鮮やかな虚構の薄暗がりに生きている。
アフター・ザ・レイン
ピアノのアルペジオとゆったりとしたヴァイオリンの旋律によるどこまでも静かな音楽(「鏡の中の鏡」)と共に、穏やかなダンスやさまざまなポーズの中に情感がこもる。たとえいくつになってもアレッサンドラ・フェリは、こうしてそこにいるというだけで十分な価値がある。
シナトラ組曲
フランク・シナトラのナンバー(「夜のストレンジャー」「ザッツ・ライフ」「マイ・ウェイ」)に乗って、いかにもブロードウェイな出立ちの二人が社交ダンス風、些かぞんざいなバレエ風、そして最後はしっとりといった具合に曲調に合わせてさまざまなスタイルで踊る。背景が星のまたたく夜空や夜明け(?)になったり、舞台上に木陰のような影が落とされたりと工夫がされているのもおそらく歌の内容と同期したもの。それぞれの楽曲の歌詞の内容や背景を知っていれば、さらに味わいが深かったことでしょう。
椿姫より第1幕のパ・ド・ドゥ
ノイマイヤー版「椿姫」の第1幕。大きな鏡と赤い寝椅子が置かれた居室へ駆け込んでくるマルグリットを追ってきたアルマンは、やたらに情熱的でやたらに倒れ伏す。その求愛に最初は戸惑いながらもマルグリットが次第に心を動かされる様子が、深刻のようなユーモラスのような、そして技巧的なダンスで表現される。そしてパ・ド・ドゥが踊られた後、椿の花をアルマンの胸に挿してマルグリットは去っていく。まさにドラマティック・バレエ。今年11月に来日するシュツットガルト・バレエ団が本作を全幕上演するので観てみようかな……と思ったものの、その頃に予定されている旅行日程と微妙にかぶっていて難しそうです。
ドン・キホーテ
最後はやはり体育会系!というのは失礼ですが、マリアネラ・ヌニェスとワディム・ムンタギロフが締めてくれました。アダージョでのポワント・バランスの誇示と軸がまったくぶれないグランフェッテ(最後の最後に一瞬ぐらり)、優雅という単語に人格を与えたようなムンタさんの素晴らしく細く長い足をぴんと伸ばしたグランド・ピルエット。
フィナーレはこれも毎度のごとく「眠れる森の美女」よりアポテオーズ。ダンサーたちの背後にプロジェクション・マッピングで打上げ花火がどかどかと打ち上げられて終演となりました。
冒頭に記したように前回の第16回はCOVID-19下での厳しい運営でしたが、そこでこのフェスティバルの歴史を中断させることなく3年インターバルを守って今年の第17回の開催に漕ぎつけたことは、まさしく偉業です。フェスティバルの主催者と出演者のすべてに対して、惜しみない賛辞を送りたいと思います。
その上で今回のフェスティバル全体を振り返ってみると、まずプログラム構成に関してはコンテンポラリー作品の多さについていけなかった観客が多かった気がします。コンテンポラリーと言っても今年初演の作品は「アウル・フォールズ」と「空に浮かぶクジラの影」だけで、ほとんどが10年から数十年の上演歴を重ね磨かれてきた作品ばかりなのですが、そうは言っても中盤でコンテンポラリー作品に特有の暗い舞台が続き、それらを乗り越えて舞台が明るくなると今度は動きが抑制的といった具合で、いずれも観客に忍耐を強いた面があったようです。もちろんフル照度の光の中で跳んだり回ったりするだけがバレエではないことは誰しも承知しているでしょうし、この機会でなければ接することができない希少な演目を目にすることができるのもフェスティバルの意義のうちなのですが、ロックバンドがライブでのセットリストの中に外せない定番曲を一定割合持っているのと同じように、息を詰めずに楽しめる古典作品をもう少し配してくれていたらとは思いました。
そして、そのせいだとは思いたくありませんが、たとえば「3つのグノシエンヌ」で顕著だったように観客側のマナーに問題があったことも事実。バレエを観にきているのに咳をする際に口に当てるハンカチを用意していないのはいかがなものかと思いますし、曲の流れや余韻というものを考えない性急な拍手が散見されたのも残念でしたが、後者に関しては自分が(舞台上が無に帰する前の拍手を嫌う)能楽に親しんでいるせいかもしれません。ともあれ、主催者にはフェステイバルの継続に合わせて観客教育にも力を注いでもらいたいものです。
一方、舞台の左右(客席に向かって斜めの角度の壁)に掲げられたスクリーンでは、開演前には世界バレエ・フェスティバルの歴史を振り返るショートムービーが上映され(オケの音合わせと重なって音声が聞き取りにくかったのが残念ですが)、途中3回入った休憩時にサラ・ラムとウィリアム・ブレイスウェル、ヤスミン・ナグディとリース・クラーク、そしてマリアネラ・ヌニェスのインタビュー映像、さらに各演目の開始前には次の演目の題名ほかの情報が投影されていましたが、このうち演目情報が日英のみならず中韓も加えた4カ国語表示だった(と思う)のは親切な取組みです。これは日本で開催されるエンターテインメント・イベントへの東アジア各国からの来訪が増えている近年の傾向に対応したものでしょう(こうした来日客の増加は、たとえばブルーノート東京でのライブでも顕著に見られます)。つまり「世界」を謳えるのは舞台上だけでなく観客席も同様というわけで、公式サイトでの情報発信やプログラムなど各種コンテンツの多言語対応が今後ますます求められそうです。
最後に無責任な思いつきをひとつ。
今回のフェスティバルでは幅広い年代のダンサーたちが舞台に立ち、中でもジル・ロマン、小林十市ペアとアレッサンドラ・フェリがベテランの力を見せつけました。しかし彼らは現役のダンサーとして出演しているので、その力量をフェアに評価された上で他のダンサーと遜色のないパフォーマンスを求められ、そしてそれに応えたわけですが、このフェスティバルがせっかくここまで歴史を積み重ねてきたのであれば、過去のフェスティバルの参加者で今は舞台から遠ざかっている元ダンサーを招いて顕彰する、いわば「Hall of Fame」的なコーナーがあると長年のファンとしては嬉しい限りです。前回のフェスティバルではカルラ・フラッチとパトリック・デュポンを追悼するコーナーが設けられていてこれは素晴らしいアイデアだと思ったのですが、それを没後ではなく生前にできないものでしょうか?たぶん、このフェスティバルの第20回の節目のタイミングで、かつガラ公演のみであればそうしたこともできそうに思えるのですが、果たしてどうでしょう。
もっとも、そこに誰を呼ぶのかという点は通常枠での参加者選び以上に難題でしょうし、もしカドが立たないように幅広く招待したら上演時間が6時間くらい必要になるかも……。